聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マタイ福音書 ユダ、自殺する (前の聖書日記からの続きです)

2005年03月16日 | 新約聖書日記
『27:3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、
銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
27:5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
27:6 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、
「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、
27:7 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。
27:8 このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。
27:9 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「彼らは銀貨三十枚を取った。
それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。
27:10 主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」』

新約聖書略解をまとめて
『ユダの自殺を記したこの段落は、マタイに特有の記事である。
二節の文は十一節に自然につながり、二節でイエスをピラトに連行した祭司長たちは十二節でもピラトのそばにいるのであるから、
3~10節の段落を挟むことによってマタイは文の流れに不自然さを持ち込んでいる。
従ってマタイはこの物語を意図的にここに置いたと思われる。
その理由は、イエスを裏切ったユダのその後の行為を、直前のペトロの行為と対比させるためであろう。
後者は自分の弱さを痛感し、「外に出て、激しく泣いた」が、ユダは「後悔し」、けなげにも自ら決着をつけようとする。
しかし自分の力で解決を求め責任をとろうとすることは、結局自分を救うことにはならなかった。
そのような彼の「後悔」は、悔い改めとは異なる。
一方イエスについてのユダの言葉「罪のない人」は、たとえ裁判の手続きを経ていても、イエスは無実の罪を着せられたことを示す。
ユダに対する祭司長たちの言葉「(それは)お前の問題だ」は、ほぼそのままピラトが裁判の場に居合わせた人々に投げかける言葉となっている。
こうしてイエス殺害の責任は、ピラトを介してユダからユダヤ指導者層へ明確に移ることになる。
9b~10節は、おもにゼカ11・12~13からの引用で、これにエレ32・6~15、18・1~2の文意が連想されている。
預言者ゼカリヤは羊飼いとして働いて得た賃金三十シュケルを神殿の「鋳物師」に投げ与えるが、
この「鋳物師」(ヨーツェル)はヘブライ語の文字一つを変えると「賽銭箱」(オーツェル)となる。
こうした語の連想を巧みに利用して、マタイはユダの自殺の伝承を旧約と結びつけ、ユダの行為は旧約句の実現であったとする。
つまりユダの行為は結果的にたまたま旧約文のとおりであったのである。』

恵み深い天のお父さま
罪の無いイエスさまが、すべての人の罪を担ってくださいました。
罪あるわたしたちが、赦される恵みを思います。
罪あるわたしをも、使われる神の大きさを思います。
イエスさまの御名によって、お祈りします。
アーメン

最新の画像もっと見る