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mitakeつれづれなる抄

普段いろいろ見聞き感じ考え、そして出かけた先で気になることを書き綴ったブログです。

今日は七夕・幾つかの言い伝えが現在の姿

2012年07月07日 | うんちく・小ネタ

 ブログ始めてもう4年と4ヶ月になります。昨今は“kisomitake”で検索するとこのブログがトップに出たり、検索ワードの後に「kisomitake」を付けると、このブログ記事がヒットします。

 記事数も1500を超えて、自分でも何を書いたのか忘れてしまったりします。そんな時便利なのが、この「~ kisomitake」をつける方法。OCNではブログ内記事検索は用意されていないので、以前書いた自分の記事を探す時に、「~ kisomitake」や単に「~ mitake」で検索したりします。

 前置きはこのくらいで、今日にちなみ七夕の記事を探してみました。そうしたらあらら、ランの館や一宮の本町商店街での七夕まつりはありますけど、七夕そのものの薀蓄記事はまだ書いてなかったのですね。今日はこれにします。

   ◇   ◇  ◇

 私の七夕初体験は、保育園の時。誕生月が今月で誕生祝と七夕さまのお祝いを同時にしていました。保母さんが織姫と彦星の話をして、天の川を隔てて分けられてしまったものの、一年に一回だけ会う事を許されたという、よくある話を覚えています。そして晴れていれば空を見上げて織姫と彦星が無事に逢えるよう祈りましょう、と話されました。

 「晴れていれば」が気になりますね。以来ン十年。晴れの印象が少ないですし、統計上でも晴れる確率は20%程度だそうです。その数字以上に雨の確率でもあり、これ当たり前ですね。日本では梅雨の真っ只中です。

 7月7日の七夕は、あくまで旧暦の当時のこと。これを約1ヶ月ほど早い新暦に当てはめれば、季節現象にズレが出るのは当たり前で、今年の旧暦7月7日は8月24日になります。えらく遅いですね。今年は旧暦で閏3月があったので、以降は随分遅くなっています。

 ただ日本では七夕を旧暦で行う地域は随分少ないようです。新暦か、あるいは一ヶ月遅らせて擬似的に旧暦に近づけた「月遅れ」の七夕のどちらかが殆どなようです。これは本来の七夕の持つ、祭祀の意味合いが薄れているからなのでしょうか。

 ここまで漢字で「七夕」と書いて、読みを書きませんでしたが、漢字の「七夕」は本来は「しちせき」と読みます。中国伝来の五節句の一つ、「七夕節句」です。そして前記の織姫伝説も中国からのものです。

 そして五節句が入る前の日本ではこの時期、先祖祭祀の時期。先祖の霊を祀るための精霊棚を造り始めます。この精霊棚を「たなばた(棚機)」といい、ここに布を捧げていました。その際の布を織る女性を「たなばたつめ」といい、漢字をあてはめ「棚機ツ女」。これが七夕節句と融合して、漢字で七夕と書いて「たなばた」と読むようになりました。

 なので日本では七夕は本来は先祖を祀る祖先祭だったのですが、先祖祭祀の面は盂蘭盆会と融合して、星祭りや星に願いをかける意味が大きい祭りになって今に至っているようです。

 旧暦の7月7日は、必ず半月(上限の月)。夜中には月は完全に沈み、満天の夜空が包み込んでくれました。今年2012年は夜中近づくと右側が欠けた月が上がってきます。

 そして本日は二十四節気の小暑です。


“正子”と書いて何と読む?・日を定める基準

2012年04月13日 | うんちく・小ネタ

 昨日は無駄に長い記事を書いてしまいましたので、今日は少しだけ小ネタ。

 お昼、12時。サイレンが鳴って、お昼ご飯です(何処の田舎だ)。この昼の時報がなる瞬間の事を「正午」といいます。では12時間先、或いは12時間前の真夜中午前0時の事は何か言い方があるのでしょうか。

 これは一般的な言葉ではありませんが、「正子」です。これ読み方、〝まさこ〟ではなく「しょうし」。正しい子とは何ぞや?お昼の正しい午とは何ぞや?

12  この子と牛は十二支を表します。この場合の十二支は、方角を示しています。真北の方角を「子」、それから右まわりに角度30度毎に「丑」「寅」・・・とあてはめていきます。そうすると真東が「卯」、真南が「午」、真西が「酉」となります。

 太陽はほぼ24時間で一周しています。朝、東の方角から陽が上り、段々高くなって真南に来る瞬間があります。その瞬時、太陽は「午」の方角に位置することから、このことを「正午」となります。

 正午を過ぎ、太陽は西に段々低くなりやがて地平線に沈みます。仮に地面の下が見えるとすると、太陽は地平線の下、北の方向へどんどん低くなって行きます。そして真北に来る瞬間があり、それを「正子」と言い、この瞬間をもって日付が変わるとされています。

 今では地球上各地にある観測施設で太陽の動向を調べていますが、昔は太陽は昼間だけの観測対象でした。そこで正確に「正午」の瞬間を観測し、それから正子の瞬間を導いていました。正子は日付が変わる瞬間で、旧暦(太陽太陰暦)の時代は日付が変わる瞬間の月と太陽の位置は、暦(大小など)にかかわる重大な要素で、これを正確に調べ暦を定める事、それが時の政権の大きな権威の一つでありました。

 ちなみに「子午線」という言葉があります。日本標準時を定める基準が明石市を通る子午線(東経135度)とされていますので、なぜか「日本の子午線は明石市を通る」という間違ったクイズ問題を見たことありますけど、上の図の通り、子の方向と午の方向を結んだ線、つまり南北の線の事を「子午線」と言うんです。つまり地球上には子午線は無数にあるわけですね。


今日はメートル法公布記念日・尺貫法が分からない

2012年04月11日 | うんちく・小ネタ

 今朝のCBCラジオ、多田さんの朝PONで話していましたが、今日はメートル法公布記念日だそうですね。事実上の世界的な標準の長さ単位であるメートル法が、大正10年の今日、公布されたことを記念する日だそうです。

 大正の当時は「メートル?なんやねん?」という方、多かったのではないかと思います。伝統文化には根強く尺貫法が残っており、相撲の力士も「○貫」とかいう言い方を耳にした事があります。

 私、典型的な戦後生まれの世代、計量単位で「C・G・S」系以外のものは全く分りません。C・G・Sとは、センチメートル、グラム、秒、のことで、なんでM(メートル)ではなく100分の1単位のセンチメートルCMなのか、その辺りは知りませんが、とにかくインチだとか寸だとか、ポンドだとか匁とか言われても全く判断がつかないんです。

 もちろん、それら計量単位の名前は知っていますよ。しかしその具体量がイメージできない。本当です。日本の古来からの単位である「寸」「尺」「間」・・・、容積の「合」「枡」・・・、重さの「貫」「匁」・・・。それがどのくらいなのか、全くイメージできないんです。電器店のパソコン売り場でモニタの大きさを表すのに「インチ」が使われていますが、分りませんな。「何センチと書いてくれ!」と言いたくなるほど。

 容積の「合」は、お米を炊く時の単位で使っているらしいですが、我が家では炊飯器付属の軽量カップで測っていまして、1カップが1合相当らしい。いや分りませんよ。今日もこの後、お米を炊きますけど、「カップ何杯」でやります。ちなみにお米と水は「1:1」の割合です。

 お酒。言われれば一升瓶というものがありますね。あれを見て、「1升だったらあの位かな」と思いますけど、やっぱり1.8リットルとしてくれた方が私個人的には分りイイという、大変困った人間です。

 

 ところで今の日本では、メートル法以外の単位を使うと、処罰の対象になりうる事もあるそうですね。これ永六輔さんのラジオで知りました。子どもの頃ですけど、「誰かと何処かで」(長寿番組ですね)で大工など伝統技能の世界まで一律に規制するのはおかしい、という論調を何度か聞き、そこで初めて尺貫法なるものを知り、そしてそれが今日(当時)の日本では使用が禁じられている事を知りました。

 今は法律の改正もあり、表に出す文書でなければ、部内でのメートル法以外の単位を扱うのは認められているそうです。


形代が雛人形に・雛祭りの由来

2012年03月03日 | うんちく・小ネタ

Img_0142  今日は3月3日、雛祭りですね。私は男ですので全く関係ないですけど、寒い冬の2月が明けての3月3日ですんで、赤い毛氈の上に飾られた雛人形は、子どもにも季節が移り変わった事を感じるものでした。

 その雛祭りの由来。まだこのブログでは書いてなかったと思うので、以前に聞きかじった内容を少し書いてみます。

 雛祭りの目的は、ズバリ女の子の成長を祝う行事ですね。昔は子ども、というより赤子の死亡が多かった。それ故にある程度の年齢にまで成長すれば、七五三などで子どもの成長を祝ったものです。

 古(いにしえ)の日本では、人々の穢れを祓う方法として「形代(かたしろ)」と呼ばれる身代わりの人形がありました。形代、人そのままの写しで、「ひな形(雛形)」ともいいます。何かしらの災難がある、或いはあり得ると予想された場合は、この形代にその災難を与えさせ、本人の災難避け、すなわち「穢れ祓い」の儀式となったものです。

 この形代は身代わり故に、穢れ祓いだけでなく呪術として恨をもつ人の代わりとして、真夜中に頭にロウソクを載せて、恨みの人の形代を五寸釘で打つという、昔話のあの光景がありました。これ実際に痕跡が残っているそうです。

 一方で中国伝来の行事に「曲水の宴」があります。今は邸の庭を流れる川で、上流から緩やかな流れに乗った杯を流し、自分の目の前に流れるまでに詩を詠まねば、その杯のお酒を飲まねばならない、というものです。この曲水の宴は中国での元々は、人が川に入り身を清める、いわゆる「禊(みそぎ)」を行い穢れを祓うことが行われていたもので、それが上巳(じょうみ)の日、すなわち3月3日でした。上巳とは五節句の一つです。

 そして日本に伝わった曲水の宴と形代が結びつきました。もともとが祓いの意味を持った曲水の宴、穢れを身代わりの形代に移したものを水に流す、ということが行われる様になりました。形代は単に女の子だけでなく、普通に暮らす人々の穢れや病をこの形代に移して、穢れ祓いを祈ったものです。

 やがて形代は、いっそう人の形らしくなりました。そうなると、穢れを持って行ってくれるだけの存在ではなく、愛玩としての人形にもなります。とすると、そのようなものに女の子は興味が行きますね。やがて人の穢れ祓いから、健やかな成長を願う女の子の穢れ祓いとして、そして人形も豪華になり、形代である「ひな形(雛形)」から「雛人形」呼ばれ、やがて時代が下がるにつれ単に人形を飾って女の子の成長を祝う、お祭りといってはナンですが、そんな行事になった、そうです。今でも実際に雛人形を川の流れに任せる「流し雛」の行事を行うところはありますね。

 今はこの五節句の一つである上巳の日、新暦の3月3日なのですが、元来は旧暦での節句。上巳を「桃の節句」というのは、この旧暦3月3日は桃が咲く頃からです。今の新暦では桃はおろか桜さえ咲きませんし、今年のような冬が寒いと梅も怪しいところ。

 そこで季節を大切にする習慣であったり、雪国や寒いところでは、雛祭りを4月3日に行う「月遅れの雛祭り」が行われる地域もあります。お盆が8月に行われる習慣が多いのと同じ理由ですね。一ヶ月遅らせる事で、旧暦の日付に近づけるためです。 


コガネムシは・・・昔の都の衛生度

2012年03月01日 | うんちく・小ネタ

 兵庫県知事が、現在放送中のNHK総合テレビジョン番組大河ドラマ「平清盛」について、放送開始直後に「画面が汚い」とか言ったそうですね。私は大河ドラマ見ませんし、そもそも今は我が家、テレビ放送を受信していませんので、どう汚いのかは分りませんが、そんな画面の要素があるとは、番組見ている人から聞いた話です。

 2月28日に京都新聞web版が配信した記事に、「昔の都は不衛生だった? 平安京のコガネムシ特定」というのがありました。京都と三重の昆虫研究家が平安京の遺跡から出土したコガネムシの種類を調べているところ、現在は生息していない種類も見つかったとのこと。

 そのコガネムシの生態は、人などの動物の排泄物や死骸を餌としており、平安京はこうした餌となりうるものが大量にあったゆえ、それを食べるコガネムシも遺跡に残るほど生息しており、小さな虫から当時の平安京の環境が窺えるとのこと。
http://www.kyoto-np.co.jp/environment/article/20120228000065

 

 そして最初に書いた、兵庫県知事の平清盛の感想、新聞記事にある不衛生だったと推定できる平安京。この両者はやはり共通するところ、ありますね。

 NHKテレビの大河ドラマは、そのニュースがあった頃に番組制作上の技術として、荒れた平安時代後期の雰囲気を出すために、映像処理(画像処理)を施したとのNHKの弁があり、また私は映像は見られていませんが、スクリーンショットの画像が数枚載っていました。あぁ、確かにこれ見れば「汚い」という印象ももたれかねないと感じました。

 実際、平安時代に限らず昔の都市部は、程度の差こそあれ汚いものだったそうです。日本ではいつ頃からか「躾」として身の回りを処する意味で綺麗に心がけるものとされてきました。しかしそれは社会環境がしっかりしていればの話で、平安時代は陰陽師が活躍するなど何かの畏れを抱えたままの社会、そして度重なる水害、そして疫病。そこへ遠く蝦夷での大津波で、社会の不安は相当高かったことでしょう。人心の荒みも多かったと想像します。

 そんなところへ人の排泄物云々へはあまり関心が行き届かなかったかもしれませんし、疫病で倒れそのまま亡くなった遺骸も放置されていたかもしれません。コガネムシの餌が多くあった状況は思い及ぶところです。

 

 都市の衛生がもっと悪かったのは外国で、京都市が何かと意識する、フランス共和国パリ市。おふらんすのパリぃは、ああ見えて中々汚いものだったそうです。

 昔、パリの街は地下下水は出来ておらず、地上に下水が流れていました。道路の中央に。そこに排泄物や生活廃水を流すわけで、開かれた空間、当然周りに溢れることもあります。水溜りを馬車が通って、汚水混じりの水が顔に飛散すると、とんだ「悲惨」になります。

 道路周囲の建物から「下水」につながっているわけはなく、人が容れものに入れて流すわけですが、パリの石組みの建物。高い階から毎度降りるのは面倒。そこで、窓をガチャンと開けて、そして下の道路に「ジャジャー」。

 このときイキナリ「ジャジャー」では道行く人が頭からシャワー状態になるので一言、「お水に注意!(勿論パリ弁で)」と言ってから流すのがマナーとされていました。道の中央の「下水」めがけるわけでもなく、当然路上には「いろいろ」転がるわけで、まぁ臭かったらしいです。

 フランスで香水が発達したのは、この匂いを「どないかせぇ!」というパリっ子の要求があったからだそうです。勝手にほかして匂いはどうかしろ!って身勝手ですね。・・・400年前の話です。

 こんなパリにも、そのコガネムシはいたのだろうか?