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mitakeつれづれなる抄

普段いろいろ見聞き感じ考え、そして出かけた先で気になることを書き綴ったブログです。

世の中間違ったことでも多くの人が実行すればそれが「常識」となる

2017年06月15日 | 思索と考え
 なにやらよく分からないタイトルですね。ようするに日常、多くの方がなされている事柄にも、よくよく考えれば間違っているものの、皆がなされていることから、当たり前のように実行されているもののお話。

 その代表例が言葉。いわゆる「誤用」がいつのまにか定着してしまい、今ではその誤用が正しいものともされてしまう言葉もあります。
 時々、文化庁の日本語世論調査が発表されますが、多くの方が間違った使い方をしている言葉に「雨模様」。
 これ本来は、雨が降りそうで降らなさそうで、はっきりしない天気の様子のことですが、多くの方(ほぼ全て?)が、雨が降っている様子、という意味で使っておられると思います。
 さらに「穿った見方」。これ、本来は本質をうまいこと捉えた見方の表現ですが、どうもひねくれた見方、という意味に捉えている方が多いです。
 「姑息」。これ本来は、一しのぎ、或いはその場しのぎの小手先の意味、でありますが、多くの方は、卑怯だとか、単に良くないの意味で使っておられます。
 「元日」と「元旦」。これは何度かブログで書いていますが、1月1日が元日で、その元日の朝が、元旦なのですが、今はこの両者、混用と言うか、元旦の語が元日の意味にとって代わられようとしています。

 これら、普通に多くの方は、何の戸惑いも無く、誤った使い方をなされ、それが誰でも、という環境になると結果的に普遍的な用法となり、誤りが定着してしまいます。言葉というものは、そうして変化してきた結果が今日の言葉なのですが、出来事としての正しい/間違いとなると、場合によっては人の身体・生命にもかかわってきます。

 というのは、エスカレータでの片側開けは、もはや常識で正しい乗り方、とされています。関東では左側立ち右空け、関西では右側立ち左側開け、というのが「常識」です。
 しかしこの片側開けは、間違った乗り方です。
 第一に機械的な点で。エスカレータの踏み段の片側に荷重が集中すると、ベルトや滑車の部分に偏った摩耗が生じ、結果的に故障につながります。
 第二に、こちらがむしろ重要。片側開けは、エスカレータを急いで歩く人のために空けるものですが、この急ぐ=追い越す際に止まって乗っている人の体や携行品に当たって、転落事故に至るおそれがありますし、実際にそうした事故は過去に起きています。
 なので身体・生命を守る、という点でもエスカレータの片側開け、片側歩行は大きな間違いなのですが、この大きな間違いが常識化して、これが正しいとまで認識されています。

 ちなみに、このエスカレータ、私は危険なので乗りません。お年寄りがエスカレータの踏み段に中々乗れないでいる光景を目にしますが、私は逆で、踏み段から床に立つ(降りる)時が危ないので、なるべく乗らないようにしています。
 杖携行ですと、移動する踏み段から移動しない床に立つには、微妙なバランスが必要で、その際に、後ろに人がいると、その後ろの人が追い越しにでもかかると杖を当てる先が無くなり、大変危ないです。

 間違いでも、多くの人が実行すれば常識となるの話、時々書いていますが、道路交通の場で。自動車を運転される方は、道路交通法を厳守よりは、自動車運転の常識に沿って運転されます。
 制限速度が指定されていれば、大体それより+10km/hで走行。30km/h制限などというものは非常識で、走行出来る道路であば60km/hが目標などと。(我が家の前の道路)

 こうして、間違ったことでも、多くの人が実行することによって、それが「常識化」していきます。

***追記***
 言葉の点で、「ら抜き言葉」というのがあります。「見ることができる」などの可能性としての言葉。本来は「見られる」ですが、これを「見れる」などといった言葉が「ら抜き言葉」。これ「見られる」というと、見ることができる、の意味なのか敬語なのかよく分からん、の理由で「見れる」の用法が一般化しています。
 しかし本来は「見られる」が正しく、私はそう使っています。が、名古屋国際センター発行の外国人向けひらがな新聞で、こんな記事がありました。日本語学習者向けのメッセージとして、「ら抜き言葉」は間違った使い方ですが、今では「らを入れた言葉が間違いであると認識している日本人もいます」という一文。
 いいか良くないかは別にして、今日的の日本語の用例を伝えた記事だと思いました。

公共の場所では絶対禁煙であるべき

2017年05月25日 | 思索と考え
 報道でいくつか伝えられていますが、自民党内の受動喫煙防止対策をめぐる会合で、東京16区選出のOという議員が、三原じゅんこ議員の発言中、「(がん患者は)働かなくてもいいんだよ」というヤジを飛ばした、とのことが大きく伝えられています。
 典型的な自民党議員ぽい風体ですが、このヤジの趣旨は、報道にあるような「がん患者は働かなくてもよい」ではなく、「そのような場所では、働かなくてもよいのでは」という趣旨ではないかと理解しましたが、O議員の弁解では実際にその通りでありましたが、無神経すぎる発言で、これも「無知・無関心ほど最大の悪」の例であると思います。

 先日の自転車の件でも、「これを当たり前、とする者にとっては、当然の如く当たり前」に行うものであります。
 日ごろ自転車で歩道を疾走するのも、車いす出入口構わず止めるのも、みーんな日頃当たり前に行動しているもので、これを指摘されると、「ムッと」来るものです。
 この「日ごろ当たり前」の中に喫煙もあり、喫煙は一昔前までは文化の中に「当然の如く」ありましたので、これは当然に「当然の如く」喫煙していたもので、いまだにその概念のままである方が結構いるものです。
 その一人が、O議員であるわけで、恐らくはあの感覚でいる人間は、一人二人ではないだろうと思います。

 そこで、受動喫煙対策で、飲食店建物内禁煙ですけど、以前に書いた記憶がありますが飲食店内を禁煙とするより、公共の場所を完全禁煙とする、法制度の導入が必要である、と考えます。
 つまり一人(個人)が占有する空間を除き、絶対禁煙とするもの。
 飲食店の屋内も、これも公共の場です。
 今は店内禁煙ゆえ、店の外でタバコを吸う人がときどきいます。
 そうした街の空間での受動喫煙はいいのか?という論議。
 店内だけを禁煙とする類似の例で、マンションなど集合住宅での「ホタル族」という言葉があります。
 室内が汚れるので、「タバコ吸うんだったら、ベランダで外に向かって吸って!」ということで、夜のベランダであちこちで喫煙。するとそれがホタルの如く、光ったり消えたりで、ホタル族というものだそうです。
 しかしベランダということは、直ぐ上や下、或いは両隣にも隣室のベランダがあるわけで、ベランダの窓を開けると、タバコの煙と匂いが入ってきます。
 これはたまらん、ということでホタル族被害者の会、というものが最近結成されたと伺っています。

 これもホタル族となる人も、自室の汚れや匂い対策でベランダへ出ているわけで、そうした迷惑行為であることは認識されているはずです。
 自室には配慮され、隣室には配慮されない行為で、こうしたホタル族被害者の会が結成されたものですが、これすらも「公共の場所、完全禁煙」とすれば解決になります。
 集合住宅は、分譲マンションでも賃貸でも、ベランダは共有部分という扱いです。
 共有部分は「公共の場所」となり、こうした公共の場における絶対禁煙の法制度が施行されれば、ベランダの喫煙も不可能になります。

 公共の場所なので、道路上も絶対喫煙は厳禁。
 名古屋市は市の条例で、市域のエリアを区切って、過料の罰則付きで路上喫煙防止地区を定めています。こうした条例で路上喫煙を禁止する例はいくつかありますが、法で禁止とすれば、過料などという生易しい罰則ではなく、もっと重い罰則付きで規制できます。

 これだけ書くと、「喫煙者の権利を侵害している!」という物言いが入りそうですが、そもそもタバコ喫煙の権利ってどの程度のものでしょうか。
 O議員のような感覚に近い人は、嗜好品として「嗜む権利」と言えそうですが、タバコの煙を全て自らが吸収すれば問題ありません。
 問題は、吸った煙を吐き出すところ。吐き出した煙やタバコ本体から上がる煙を「副流煙」と言いますが、受動喫煙はまさにこの副流煙による健康対策。
 つまり他人に迷惑をかけながら嗜むのが喫煙で、そこには保護されるべき権利は少ないように考えます。

 飲酒行為は、飲んだお酒を戻せば、大きな迷惑ですね。或いは酔って他人に迷惑をかけたり。
 それと同じようなもので同時並行されているのがタバコの喫煙であると考えております。

 よって、公共の場では、完全禁煙、厳禁とするのが本来ではないかと思うんです。

***
 しかし小学生のころ、別のクラスでしたが、教員がヘビースモーカーで、その教室内はタバコの煙がもうもう。今だったら、完全アウトです。
 私の小学生の当時ですので、そんなむちゃくちゃ古いわけではないです。その当時でもアウトですが、小学校の教室は
禁煙という決まりはありませんでした。
 これも「当然」と思い込んでいる結果であろう、というのは現在長じて分かることです。
 何しろ、今はどうか分かりませんが、皇居内の清掃奉仕に行くと、御礼として菊の紋章の入った恩賜タバコが頂けたそうです。そんな時代背景。

一宮市は自動車の運転が悪けりゃ自転車も悪い

2017年05月23日 | 思索と考え
 愛知県知事も言って降りますが、愛知県は日本国の中でも交通死亡事故が多い県。その多い県でも尾張の方が多く、尾張の中でも筆頭に挙げられるのが、一宮だそうです。
 実際に一宮市の交通事故の手前である、交通違反は、至極当然の如く平然と行われ、まるで正しく交通法規を守るのは「異常」であるが如くの扱い。

 そんな一宮市ですが、自動車ではなくて自転車のマナーも大変悪いもので、「悪い」というより単にわがままな使い方。そんな例を幾つかカメラに収めてあります。

 某バス停留所で。ここは歩道が狭く、隣接のマンション敷地の好意で、マンション敷地内に入り込んだところに空間を設け、バス待ちの方に利用して頂けるようになっています。
 ある日、ここの前を通ると、なんとこのバス待ち空間に自転車が二台。




 こうした、空き空間は、たんなる空間と思えやすいのでしょう。自転車を止めるのにちょうどいい、という発想。

 もう一つ、これは最近の例ですが、自宅近くの某金融機関の車いす用スロープの前で、自転車が止まっています。


 二台置いてありますが、ブログネタにしようとカメラを構えたときは、この手前の方に置いてある一台だけでした。
 カメラを構える目の前で奥の方に、もう一台、平然と置いて行かれ、しかもそちらは完全にスロープの真ん前。

 自転車が無い時はこんな感じ。このスロープで車いすの方は出入りできます。


 どこかの中年ご婦人のようでしたが、両耳イヤホンをしながら自転車に乗り、入店。たんなるわがままな自転車の乗り方です。そもそも両耳イヤホンで自転車を運転する、という行為は、安全義務違反という道路交通法違反に該当しますし、スロープの前をさえぎるような置き方(止め方)は、事の配慮のかけらもありません。
 そんな人物故、両耳イヤホンで自転車に乗り、我がままで出入り口に近い所に、何も考えずに止めただけです。

 少し前に、「無知・無関心ほを最大の悪」であると書いた、典型的な例です。

 こんな状況なので、一宮市は交通事故が多い以前に、自転車のマナーも最悪の町。これにつける薬は無いものだろうか。

悪は思考停止の凡人が作る

2017年05月14日 | 思索と考え
 過日、ハッとする試行のタネをラジオから頂きました。世の中の悪は、「悪人が作り(創り)出すものではなく、思考停止となった凡人が作り出すもの」というもの。

 そうなんです、予てからの私の思想と同じ。前任の復興大臣の行いも、積極的な悪意ではなく、凡人なんですね。無関心が良き興した結果。
 日ごろ、力説している交通事故も、安全に対する無関心。いえ、安全へは関心があるはずです。しかしながら、「日頃」、「皆が」やっていることをそのまま従順に運転しているだけ。しかしながら、現実は交通違反だらけ。その果てが交通事故。
 交通事故は、起こそうと思い、実行して起こせるおのではなく、交通違反の果てにあるもの。その交通違反に何の疑問を持たず、日頃、当然の如くの違反行為。無意識に違反をおこしているもので、悪といえば厚ですが、無関心が引き起こす悪の一つ。

 この「悪は思考停止の凡人が作る」の大本となったものは、ナチス時代のドイツ由来であるとのことですが、ユダヤ人を虐殺に至らせたドイツの高官は、「ただ命令に従っただけ」という供述があるそうです。
 日本でも、先に例に挙げた復興大臣の前任者も、諸々の出来事に無関心だったのでしょうね。ただ「大臣になりたい」だけで与えられたポストが、東日本大震災復興大臣。何の思考も無く、政府の定めた仕事を淡々とこなすだけ。そこには、被災者の心を慮る「忖度」も無く、その結果が記者会見や、講演会での発言につながりました。
 この復興大臣だけでなく、我が国のこれまでの政治に不信を抱かせるところは、担当者の無関心によるものが多いのでしょう。その事後との奥に続く、諸々の出来事を想像する能力に欠け、決まり事を淡々とこなすだけ。こういうのは、東大卒など高学歴者に多く、決まり事をこなす能力は優れていても、問題提起の能力はとても低いものです。

 「悪は思考停止の凡人が作る」、悪人はいなくとも、無関心が悪を作るものだとすれば、無関心こそが最大の悪とも言えます。

復興予算を食い物

2017年05月12日 | 思索と考え
 今朝のテレビ情報番組で、旧福島第一原子力発電所の事故による除染作業で、竹林の除染作業を下請けの作業会社が、正しく除染を行わず、竹を伐りとったの体を表すため、竹の切り株だけをならべ、それを作業完了の写真として、除染作業費用を不当に受け取った、ということが伝えられていました。

 この原発事業の除染作業は、東北地方太平洋沖地震による災害(東日本大震災)からふ復興特別税を財源にしています。この東日本大震災からの「復興」は、官・民ともに都合のいい財源の契機となっているような気がします。
 除染作業の埠頭詐取はこれが初めてではなく、下請けから孫請けに至る過程で、不当なピンハネがあったり、官の方では「復興特別税」などというもっともらしい税金を設定しました。
 たしかにあの大震災からの復興は、官民問わず、今の日本においてとても大切なことです。費用も掛かります。そこで「復興特別税」を設けたものの、その使途は必ずしも、復興に使われているわけではないのだそうです。
 つまり役所としては、新たな財源、理由付けが遠くに復興の理由付けがあれば、復興特別予算から捻出できるそうで、今すぐに例は出せませんが、被災地ではない場所での、単なる箱モノを建てたりしていることもあるとのこと。
 さらに、復興を進めるために新たな役所「復興庁」を置き、担当大臣の「東日本大震災復興対策担当大臣」を置いたものの、なぜかおかしな人が任命されることが多いです。民主党政権で初めて置かれたものですが、最初の大臣は民主党の国会議員、そして一代前の大臣は、ニュースネタにもなりましたが、記者会見で激高し、さらに別の日には「東北地方でよかった」発言とう資質の無さを露呈し、結局更迭されました。

 復興の名があれば予算の面でも人事の面でも、なんとも都合のいい「言い訳」。大臣ポストとして新たなポストが一つできたわけで、ただ大臣になりたい、などという志の低い者でも大臣に収まってしまい、結果、マスコミネタになるという識者の弁。
 復興というと、正直、また何かありそうで、ニュースで復興の文字を見聞きすると、又何かあったのか?などと思ってしまいます。

***
 ところで、激高した前任の大臣、私は激高したのは別に何とも思いません。ただそのやり取りのなかで、「自主避難者は各自の判断でしょ」というところ。つまりこれが政府の意思が垣間見えた点です。自主避難者はあくまで避難者の任意、つまり「勝手」だという意思なんですね。そもそも「なんで避難しなきゃならないことにされたのだ!」。これを思うと、あんなセリフはで出てません。なんとも冷たい。これが政府の意思でその結果が、前任の激高した大臣。政府がやっていることにゴチャゴチャ文句言うな、という意思の結果。
 復興予算を復興以外に使う政府だけ、あります。