言語空間+備忘録

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太子党の絆の強さの秘密

2011-12-04 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.90 )

 近平と同じように地方官僚を経て這い上がった幹部としては、上海に下った曾慶紅や、国家主席だった劉少奇の長男である劉源・軍事科学院政治委員、薄熙来・重慶市党委書記らがいる。
 劉源は生まれ育った境遇が近平と似ている。ともに党・政府幹部の両親を持ち、文革で両親が失脚、地方に下放されるなど塗炭の苦しみを味わう。特に、劉少奇の場合、四人組ら文革派の最大の攻撃目標とされ、あまりの激しい拷問によって身体はぼろぼろになって河南省で衰弱死し、別人の名前で葬られるという文革最大の被害者となった。劉源は長男だったことから、文革が始まると大半は牢獄の中で拷問を受ける生活を送った。この点、末端とはいえ陜西省の村で幹部として活躍した近平のほうが恵まれていた。
 近平と劉源は知らない仲ではない。劉源は51年1月生まれで、近平より3歳長じているが、ほぼ同世代で家が同じ中南海だけに小さい頃からの遊び仲間だった。また、小中学校も同じ幹部子弟を集めた学校に通った幼馴染だ。
 劉源は大学入試が復活した77年、北京師範大学に入学。近平は75年に清華大に入っており、学生時代も重なる。清華大と師範大は同じ市内海淀区にあり、2人は旧交を温めたという。
 劉源は卒業後、ただちに父・劉少奇が最期を遂げた河南省の田舎の村に下って末端幹部の道を選び、県長や省都の鄭州市副市長、河南省副省長を務めた。だが、親譲りの個性の強さから周りの幹部との折り合いが悪く、武装警察部隊に転じてナンバー2の副政治委員まで出世した。その後は人民解放軍に転じて総後勤部副政治委員となり、現在は軍の最高学術機関で、戦争理論や作戦などを研究する軍事科学院のトップである政治委員を務めている。いずれにせよ、地方から積み上げてきたその生き方は、近平とも共通している。
 近平の兄貴分である曾慶紅は、上海で一歩一歩地歩を固め、当時の上海市トップだった江沢民に見出された。江が89年6月の天安門事件で党総書記に抜擢された際、唯一北京に連れて行った子飼いの部下だったことは先にも触れた。近平はその曾と、上海時代や中央に移ってからも頻繁に連絡をとっていた。
 ところで、近平は有力な若手リーダーの1人である薄熙来(現在の重慶市党委書記兼党政治局員)とも幼馴染で、薄の母は文革で自殺し、父は失脚するなど、薄家も辛酸を嘗め尽くしている。薄は文革後、遼寧省の県幹部を経験し、大連市長や遼寧省長代理などを務めており、今も関係は悪くない。
 その一方で、秘書として中央に残り、中央機関で出世した太子党もおり、近平は彼らとも連絡を密にし、中央の動きを把握していた。
 近平は河北省正定県の党委副書記を皮切りに、07年10月まで25年間、福建省、浙江省、上海市の地方幹部として過ごした。特に福建には18年間勤務し、政治的基礎を形成した。この間、幾多の "修羅場" が近平を襲い、そのつど難関を克服して政治指導者として階段を上がっていった。その際、励みになったのは同じ幹部子弟として地方に下った仲間だったという。実は、同時期に同じ苦労をしたことが太子党閥の絆の強さの秘密とも言えるのだ。


 同じ時期に同じ苦労をしたことが、太子党閥の絆の強さの秘密である、と書かれています。



 日本では、中国で太子党が台頭しつつあることをとらえて、「日本と同様、中国でも二世が幅をきかせつつある」といった論評があります。

 たしかにそのように言えなくもありませんが、

 今回の引用は、そのような捉えかたを否定するものだといってよいでしょう。



 同じ二世でも、中国の太子党は「文化大革命の荒波に揉まれ、鍛えられた」集団であり、「同じ釜の飯を食った仲間」にも似た連帯感があると考えられますが、

 日本の二世議員は、たんなる「お坊ちゃん」の集団。二世議員同士の連帯感など、ないに等しいでしょう。



 両者のどちらが政治家として優れているかは、論ずるまでもないと思います。

 太子党は二世だ、お坊ちゃんにすぎない、などと甘く考えていれば、(日本は)大変なことになると思います。



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