まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

宗教と権力

2018年07月06日 | 読経の日々
人の心の拠り所となる宗教と、自分が中心に座り他を服従させようとする権力は、対極にあるように見えるが、実は紙一重のものだと思う。
 
オウム真理教関係者の死刑が執行されたというニュースが流れている。
オウム真理教の麻原彰晃氏は、同じ年代に生きた人物。
私は、もともと無宗教(家は曹洞宗だが、関心はほぼなし)だったが、この事件をきっかけに、宗教はインチキ臭いとさらに距離をおくようになった。
 
あれから20年以上経ち、近頃は自分の振り返りと共に、家の曹洞宗を通じた仏教に関心が出て、麻原彰晃氏の心情も少し理解できるようになり、宗教はインチキ臭いというより、向かう方向を間違うと怖いものだと思うようになった。
 
仏教の考え方は、自分にはとても有難い教えではあるけれど、それを自分の心に問いかけるか、外へ向かって問いかけるかで、結果は大きく違ってくる。
 
問いかける心の向きは、その時の置かれた環境次第だ。
八方ふさがりで、差別され、抑圧された状況では、自分の心に深く問いかける余裕はたぶんない。自分を正当化し、肥大化させる方向が抜けるとすれば、抜け道だ。
 
指標のない混沌とした状態のピュアな心には、宗教の非日常の世界は、砂漠に水を撒くように沁みこんでしまうだろう。
 
人生において、良い先輩、良い師が必要な所以である。
 
「天上天下唯我独尊」
「我こそは、選ばれし神の子である」と認識するか、「この世に奇跡的に生を受けた自分という存在は、路傍の石でも、生きていること自体が、かけがえのない唯一の存在である。生きることが次世代に何かを残す日々である」と認識するかで、生き方は大きく変わってしまう。
 
私にとっての仏教は、あくまで内に、自分の心に問いかけ、小さな日常の行為を正しく積み重ねていく、そんな規範になってきた。
 
難しい東洋哲学の体系や経典の解釈はチンプンで分からないけれど、自分の心(気持ちの持ち方)が仏であり、神様や仏様は、人の生死の中で綿々と受け継がれてきた自分の命の中にいるのかもしれないと思うこの頃だ。
 
本当に自分が解った(悟った)人は、心静かに暮らすだろう。解ったつもりになった人が勘違いして権力志向の宗教に走ってしまうんじゃないだろうか。
 
============
<今日は何の日>
1885(明治18)年の今日、パスツールが狂犬病ワクチンを開発しました。
わが家のワンコ先生もおかげさまで元気に暮らしているんですね。
パスツール先生、ありがとう<(_ _)>。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする