村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

410.悟ということも、読書や座学だけでなく、実行・修行が必要

2016-12-06 09:33:01 | 人生
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テーマ
悟ということも、読書や座学だけでなく、実行・修行が必要

 注意)
  ミニ悟りは私の造語、一般人がそれなりの修養を経て納得のいくレベルで望ましい心境を得た状況
  当然だが偉い僧侶の悟りとは遥かに比較にならない低いレベルであるが
●お前のミニ悟りなんか悟りじゃないとか、勝手にミニ悟りなんて使うな・・・なんてことはどうでもいい。
便宜上、悟りという言葉を使っているだけで、私にとって悟りらしきもので十分なのである
一般人が人生を真剣に取り組もうとする出発点である、多くの人は出発点に立とうとしないのだ
厳格に証明したり、誰かに証明して戴こうという気もない。迷惑をかけるわけでもなく、
自分にとって、ミニ悟りの状況を更にきっちり自身で維持発展させて行けばよいと考える

●私にとっては、悟ったかどうかはどうでもいい、新境地の自分に生まれ変わったことは確かなのだ
単なる73歳の老い耄れにとっては、その程度のことで十分なのだ。悟ることが目的ではない
私にとっては73歳と言えども新たな出発点なのだ。華々しくもない、格別凄いことでもないのだ。
格別世間に表明すべきようなものでもない、昨日も今日も同じなのだ。
ミニ悟りは私が一般人としてとりあえずの越えるべきハードルと思っているだけだ

概要
1.世間の状況     悟るとは私の体験では、ミニ悟りでさえも実に気分爽快なものだ
簡単に言えば、すっきりするのだ、長年つかえていたものが、とりあえずとり除かれるのだ
例えば、ゴミや物で溢れた汚い部屋からガラクタを捨て、整頓し清掃したあとのような状況だ

最近の若者は過程より結果を求める、本を読むと分かった、出来ると勘違いしてしまう
本を読まない人も困りものだが、本ばかり読んで行動や実践をしない人も困りものである
座学やインターネットで知ったり、分かっても実践や行動が伴わなければ実際に出来るはずがない
面倒なこと、つらいこと、時間がかかるやり方をしないから、悟りはますます遠ざかる

2.問題点     一般人にはミニ悟りでいいのだが、そういうものさえ得られない現代は哀しい
そもそもミニ悟でさえも、その価値にあまり関心がなくなってきた
現代は、面白可笑しいものが身近に沢山あるから、悟りなんてものはどうでもいいのだ
清水の舞台から飛び降りる、虎穴に入る、そういう経験を数多く積もうとする人が減って来た
ましてや悟りという尤も困難な課題を達成しようとも、出来るとも考えなくなった
少しは本を読んだり、考えはするが、やろうとしない、要領のいい人、頭のいい人が増えて来た
コンピューター、インターネット、携帯、便利なものが出てくると悟りなんてどうでもよくなる

3.私はどうしたのか、何をしたのか       55歳からの山暮らしが私を新たな心境へと導いてくれた
私は、戦争中に生まれ貧しい時代、ひたすら、いろいろな努力を続け、その後豊な時代へ、
東京工大合格、東京から大阪そして京都更に滋賀へ、都会から山奥へ、大企業から中小企業、
考えるより、良いと思うことを、あれこれやるということが、結果的に良い効果を生んできた
過去を振り返ると東京を離れ単身で関西に赴任して以来、自分の考えで状況を大胆に変えて来た
また、どちらかというと頭が悪く、身体も弱い、精神も軟弱なことがむしろ良かった

4.私はどうなったのか       お金持ち、金メダル、世界的発明、最高芸術・・・に関心はない
私は、能力・性格・行動・頑張り等むしろ駄目な人間であったことが、かえって幸いしたように思う
東京から関西へ、都会から山奥に長く暮して70歳くらいでミニ悟りを得たように思う
禅の僧侶には到底及ばないが、ミニ悟りは自分の生き方暮らし方で日頃の心がけで可能だ
一般人は便利で豊な都会で必死に働いた結果、嘘誤魔化しの生き方を続けて、年取る
今思えば山奥で一人自然と向き合い、案外忙しかった日々が座禅修行に似ていたかもしれない

山の暮し当初は暮らし方が分からず、万一の場合も対処できず、迷うばかり
55~65歳山暮し時期に、病気などで2回手術したり、必しも万事順調であったわけでもない
大半は荒れた山の清掃をしてきて、最近も次々に管理放棄の家の草ぼうぼうの土地を整備していった
また、10年目くらいで山の暮しをベースに人生勉強会を立ち上げblogを書き続けて来た
そのblogの内容も、あくまで自分の山暮らしを通じて考えたことから書き下ろしたもの
単に山暮らしをしていただけだが、山暮らしを通じて得た人生観を自分で考え書き留めていったのだ

師匠もいなかった18年の山での暮らしが、ミニ悟りの修行らしきものになったのではないか?
65歳くらいから、以前の私とは大きく変わり、あれこれ改善されて行き、心の乱れは大幅に減った

5.一体なにが原因で出来ないのか     欲張り、勘違い、楽したい、面倒臭い、固定観念・・・・・
何もしない、頭で考える、変わらない、人生に無関心な人は、一生を無駄に過ごしてしまう
人生に関する本を沢山読んだ末、本のとおり、出来るかというとそうはいかない
泳ぎ方を知ったら泳げるようにはならない、同様に、悟りも厳しい修行をしないと開けない
都会に住む現代人の多くは、山に続けて暮らすなんてことはしない
考えて、「つまらん、くだらん」と頭ごなしに否定し去ってしまい、行動をおこそうとしない

現代人は頭で考え過ぎる、頭で考えて分かったことは、本当に分かったことにはならないのだ
そういう意味では本もインターネットもテレビも困ったものだ、現代人の多くが錯覚しているのだ


6.提言       基本・原点に帰る⇒原基だ⇒元気だ⇒厳喜だ
都会に暮す現代人にとっては、きちんと修養して悟ること自体が意識にない
何事でも言えることだが、特に悟ということは、頭で考えたり、本を読むだけでは到達できない
そういう意識で悟ろうとしないと、一生懸命本を読んで「わかった」なんてのは何の価値もない
どうにかすると、人生は本を読み、頭で考えてわかればよいみたいな感覚に陥りがちだ
この20年山暮らしの結果がミニ悟りであったことが不思議、かつ、感激だ
本格的に座禅で悟るということもあるが、何も座禅だけが悟るための道、方法ではないのだ
座禅とは大違いではあるが、座禅と山での一人暮らしの共通点らしきものを考えてみた

  1)人や都会の雑音を遮断できる
  2)過去染み付いた都会の嘘誤魔化しから隔離出来る、良い意味の監獄生活だ
  3)自然との親密なふれあい、不自然な都会の暮らしを断捨離
  4)山で、周辺の清掃や山菜とりや野菜作りや土木大工や家事など一日中の多忙な作務
  5)本や過去の固定観念を捨てて一からやり直す、出直す暮らしの日々
  6)他人と接することがほとんどないので雑念を忘れる
  7)山でいろいろなことが起きるが助けを求められない、自分でやるしかない暮らし

1)捨てる  2)自然な環境に暮す  3)贅沢しない  4)自分でやる:自立  
5)不便を厭わない   6)続けて暮らす   ⇒ミニ悟り

言っておくが、山暮らしで悟ろうとか、山暮らしをとりたてて格別なものと思ってはいなかった
しかし時々都会から来る人の質問は「こんな山の中で何をしているのか?」であるが、
この質問こそが現代人の人生に対する後ろ向きで逃避的な態度の現れなのだろう
私があえて聞き返したいことは、「貴方はなぜ狭苦しい都会でせわしなくもがき苦しむのか?」だ
嘘誤魔化しで悩み・苦しみの生き方から脱出するには、頭で考えず、自然な環境に身を置くこと
都会から山に移り住む、しかしそれだけで、誰もが悟りに近づくことは保証できないのだが
私が馬鹿で、不器用で、能無しで、何やかやと、あれこれ無駄にやって来たのが幸いしたようだ
多くの本を読み、自分で考え抜き、人生が分かったというような18年では全くなかった
72歳から麓の田舎町に平屋を買い終の棲家としてひっそり、質素に、ひっそり静かに暮している

追伸
山暮らしでは悟ろうなんて思ったことはない、18年くらいして、なんとなく気づいたのだ
枯れかけ、腐りかけた原木のまま、朽ちて行くか、原木の中に潜む仏像(仏性)を彫り出すか
・人との付き合いは円満で楽しくなり  ・悩みや苦しみもあったがさほど気にならなくなった
・何でも自分で何とかするようになった  ・一人でいる時も複数の人と付き合う時も同じ
・自分なりの人生感をもてるようになった  ・贅沢をしなくなった、欲張りもなくなった
・淡々と暮らせる、退屈でも多忙でもない  ・固定観念に捕らわれない  ・気力もある
・悟ったと断言する自信もないが、昔のように悩み苦しむことはない  ・身体の調子もそこそこ良い
・付近の清掃も続いている、前の空き地を毎日少しづつ雑草を抜き、掃除し、整えている
・明るい、工夫して何でもこなせる、最近は苦手だった習字や卓球や読書も再開した
・毎日自転車で町まで買い物に、付近のポールウオーキングやストレッチ、筋肉強化も続けている
・気力が萎えて、歳とったなあと思っていたが、73歳読書など根を詰めることも復活してきた

私は山でもここ田中でも炊事場の汚れた水は下水に流さない、都度汚水を貯めて、草木にやるのである。
雨水は貯めて庭の草木や清掃などに使っている
こんな些細なこともやらない人ばかりとなった。「都会ではそんなこと出来ない」と言うが万事が万事だ
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