村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

395.表面的是正で留まらずに、更に心の深くに厳しい自分を埋め込むために

2015-03-29 08:54:29 | 人生
村上和隆 
   京都事務所:京都市伏見区深草出羽屋敷町23ファミール伏見B905
   滋賀支所:滋賀県高島市安曇川町長尾字上塚野1189-10
村上和隆総合支援&村上原基人生勉強会⇒是非お読み下さい
関西ISOシニアコンサルタントネットワーク
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
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村上原基今日の一言    ⇒    村上爺さんのツイッター

人生には一生悩みが多い、その悩みとの争いが人生であると言ってもよい
そうやって人間は成長し、自律・自立し、大人になっていく
20歳で大人だなんて、絶対にありあえない、大人になるのはせいぜい60歳以降
しかし60歳になっても大人どころか犬畜生にも劣る人間も多い
そういう人間は別にして、そこそこ努力してきた人はある程度出来ても必しも満足はしていない
そして悶々とする

部屋の物の断捨離をしたくてもなかなか進まない以上に、自分の心の断捨離は全く進まない
その壁をぶち破るには、エイヤーとばかり一気に突き破る気力が必要になる
それは理屈ややる気の問題ではなく、決意と勢いである
私も物の断捨離がある程度目処が突き出したので、次は自分の心の断捨離にとりかかろうとしている
凡人の私は誠に稚拙なことだが、次のような張り紙をしてこれを普通に守れる鍛錬をしようと決意した


今までとは次元の違うことなので、いままでは1m2mの崖から飛び込むようなことだったが
今度は10m20mという高所から飛び込むような感覚がしている、なかなか難しいが
むしろそれだけに、やり遂げようという意欲が沸いている72歳の春である
心の奥深くに長年住み込む自分の間違った数々の思いを完全に矯正することが必要なのだ

表面をいかに矯正したところで、それは女が化粧し着飾る程度の嘘・誤魔化しでしかない
世間でよく見るのは、あくまで表面をいかに誤魔化すかのノウハウに過ぎない
そんなノウハウ本や講演を聞いて感動してせっせとやったところで心の底では何も変わらない
弱い人間が何とか、つらい思いや努力をせずに、嘘・誤魔化しですまそうとすることなのだ

東福寺前にワンルームマンションを購入した。すぐ前が東福寺と泉涌寺だ
(明け渡し直後で空家、賃貸募集中、この辺でこれだけの物件で空家はない、年貸もします)


まだ観光客も少なく静かに自然豊な春の東福寺の境内を散策した
都会の真ん中に広大な静かなお寺と自然があることを嬉しく思った

マンションのすぐ前に中門がある、広大な敷地で四季おりおりの風情が楽しめる

何とも風情ある坂道、ここは山と言ってもいいほど静かで自然が豊かだ

明暗寺の境内、苔がなんとも美しい
:京都市東山区にある普化正宗総本山の寺院。山号は虚霊山
 本尊は虚竹禅師像。尺八根本道場
 時代劇でよく虚無僧が「明暗」という文字を掲げた偈箱を着けており
 一見宗教的な意味を持っているように見えるが
 実際は「私は明暗寺の所属である」という程度の意味
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394.スザンヌの離婚に思う、出来るから安易に分かれてしまう

2015-03-19 09:39:15 | 人生
今日も女優のスザンヌが3年で離婚との報道があった「エッー」
斉藤という旦那にも問題はありそうだが、離婚は両方に問題がある
一方だけが悪いなんてのは、どんな場合もまずない
・騙すほうも悪いが、騙されるほうも悪い     とか
・苛めるほうも悪いが、苛められるほうも悪い   のである
スザンヌなんかもテレビでは、いかにも明るい素敵な女性に見えたが
お前もか?やっぱりなー、幻滅ー、いとも簡単に離婚する多くの有名人
マスコミも離婚する有名人に甘いから、ますます安易に結婚し離婚する
スザンヌも、実態は真逆な我が儘で自分勝手な女性なんだろうと推測する
  (あくまで推測ですが、多分当たっている)

結婚相手も、期待が大きいから、あまりに幼稚でお粗末な現実に幻滅するのだろう
多分実態は3日で飽きる程度の人間なんだろう「よく3年も我慢したもんだ」と私は思う
有名人で20年とか30年結婚生活を続け、離婚する人は、ある意味ご立派だ
離婚しない有名人は少ないが、観察するとやはり、すごくしっかりしている人だ

よくあるタイプが
テレビでは可愛い女優なのに、家はゴミ屋敷だなんて人
麻薬を吸っている超有名人気女優なんてのもいたなー
有名人というのは、普通人一般人に比較して弱い、脆い、だらしない
外面は良いが、自分自身がきちんと確立できていない、幼児なんてのが多い
人気ある俳優や歌手は簡単に離婚する、まあそんなもんなんだろう
「ちやほやされる人間ほどお粗末なものはない」というのが私の経験からの認識だ

離婚できるほど裕福なのだろう、離婚は金持ちでないと難しい
金は怖い、金で安易に処理してしまうのは間違った金の使い方だ
金で解決するのは、人間を弱く、ダメにする元だ、傲慢になる元
金・財力というのは、良かれ悪しかれ、怖いものなのだ、金以外にも
脳力・美力・権力・腕力も同様で本質的原因を解決せず
財力や何がしかの力を悪用して安易に解決してしまう、そういう人は、
優しくなれない・謙虚になれない・我慢できない・気配りできない人間なのだ

離婚する俳優や歌手などを私なりに見ていると
正しい・深い人生感が欠落している、漫然と何となく生きている
依存・誤魔化し・安易・傲慢・責任転嫁・苦労回避・堕落・自己愛・我が儘

女優や歌手やスポーツ選手など有名人を応援したり、尊敬するのは愚かしい
真実の姿を知らずに、外面だけで、好きになる、愚か者のファンが多い
人間的に尊敬出来る人は、そんなちゃらちゃらした人ではない
結婚相手としても、そんなちゃらちゃらした人、金持ちを選ばないことだ

私は決して俳優や歌手やスポーツ選手を好きになったり、尊敬はしない
表の顔しか見ていない人を好きになったり尊敬して失敗する人のなんと多いことか
表面を見て信じやすいのは、人間の本質的弱点・アキレス腱だ
詐欺にあう、騙される、搾取される、嘘・誤魔化しの人生を続けてしまう
美人・美男を安易に好きになるなんて人多いですよ、やめましょう、弱点ですから

きっぱり女優業を離れ普通の一般人になれない俳優や歌手は結婚向きではないのだろう
スザンヌもまた女優に戻ればいいのではないの?彼女はああいうキャラの女優が最適
家庭で夫とうまくやっていける日本女性には見えない、主婦業向きではないのだろう
女優業も大変だが家庭の主婦業もすごく大変なこと、結婚は墓場、結婚はバラ色ではない

  有名人・金持ち・秀才・美男・美人・権力者には近寄らないこと
  ましてや結婚なんか絶対にしてはならない
  見かけとは真逆でつまらん、むしろ問題だらけの人だから
  ちやほやされる人間は弱く、だらしない、頼りない


有名人は目立つ、派手な面だけが見えてしまう、いかにも素晴らしく見えてしまう
他人の目を気にして生きる、こせこせと異常な生活をしている人なのだ
なんで好き好んで、そんな異常な世界の人を愛し、結婚するの?
素人は、あまりに異常な暮らしに耐えられず、3日で離婚を考えるはずだ

ところで、人に好かれる人とか、人に尊敬される人とか、人脈の広い人なんてのも
意外に本質的には、過剰に自信を持ち、独りよがりで傲慢な傾向があるので要注意だ
周囲から、あまりにちやほやされる人に共通の危険が潜んでいる(謙虚で平凡な人がいい)
例を挙げると、社長・先生・評論家・有識者・八方美人・著述家・リーダー
私の経験でも周囲にそんな人がいたし、歴史上も異常な先導者がいたことを忘れてはならない

人生勉強会の立場から人間としてあるべき姿からのアドバイスは
まあ人生勉強会では何度も同じこと言っていますが、改めて
 自立・自律
 自戒・反省
 分度・節度
 謙虚・質素
 苦労・失敗経験
 点検・監視・測定
 先見・予防
 自分で考え・行動する
 他人の目や世間の評価を気にし過ぎない
 固定観念打破
 経験・行動
 改善・工夫
 健康・体力・元気
 規則・遵守・見直し
 断捨離・無・空
 自然・山川草木
 整理整頓清掃
 異文化体験
 会話・対話
 我慢・忍耐
 禁酒・禁煙
 抑制・禁欲・腹八分目
 平常心・平静
 人格・中庸・風格
 調査・分析・結論
 原点・基本・基礎・原理原則
 品性・品格
 分別・分散
 バランス・調和
 模範・率先垂範
 優しさ・暖かさ
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393.親や先生自分自身が、まず、自分が謙虚にちゃんとすることの大事さ

2015-03-01 09:25:00 | 人生
村上和隆 
   京都事務所:京都市伏見区深草出羽屋敷町23ファミール伏見B905
   滋賀支所:滋賀県高島市安曇川町長尾字上塚野1189-10
村上和隆総合支援&村上原基人生勉強会
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台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
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村上原基今日の一言    ⇒    村上爺さんのツイッター

人は偉そうなこと言ってはならない、他人に言うほど自分はちゃんとしてない
謙虚に自分が何事にも、ちゃんとできていないことを自覚・認識せいという話をします
20歳で大人ではない、40歳でも50歳でも大人ではない、生涯勉強だ
人は、美人だから、金持ちだから、出世したから、秀才だからそれで良いではないのだ
ちゃんと出来る人ちゃんとやる人になろうと日々努力せずして何とする

”ちゃんとする”の反対は”だらし無い”だが、だらしなくても平気という人がほとんどだ
「ちゃんとしている」と言う人を、よく診てみると、いい加減さが、あるはあるは、ひどいものだ
いい加減なことがボロボロ出てくる、半年風呂に入らなかった時のようにぼろぼろ垢が出てくるのだ

人間は、一旦大きな事が起きたり、自分が窮地に陥ると、やたら基本に帰って真面目なことを言う
やれ「絆が大事だとか」「もたいない精神」「ちゃんとせないかん」だとか、真面目腐ったこと・・
乙女じゃあるまいし、何、おセンチに感傷に浸っているんだ
大事が起こってやっと気づくなんてのは、実に情けないのだが、まあ気付かないよりましだ
しおらしく「病気をして健康の有難味を知った」「ちゃんと健康管理しないといかん」てな事を言う
そんなしおらしさも数か月で忘れて、以前より不健康でいい加減なひどい暮らしに戻ってしまう
せっかく、きっかけをつかみ、一瞬真面目になっただけのことで、リバウンドしてしまうのだ
かく言う私もつい少し前迄は、同じ程度だったのだが、人間なんてその程度のものだ

人間は、えてして大災害や大事故や大病して初めてちゃんとするきっかけをつかむのである
ということは、
大災害や大事故や大病をしない人間は一生たいした人間にはなれないことを意味する
まずは、自分がちゃんとしてないことを深く深く自覚しないといけないのだ
だから大きな不幸や事故に出会うということは、ある意味非常にラッキーチャンスなのだ
まあ、不幸に会わなくても、ちゃんと出来る人にならないといけないのではあるが
普通の状況や、平穏無事な状況では、そう簡単にそういう心境には至らないものだ

ピンチはチャンス
現実に発展した企業はほとんどピンチをチャンスに変えている
私の過去を振り返ってもそうだった、いろいろなつらいピンチがあった
それらのピンチだけが私をチャンスにと誘ってくれていたことを今になって思い出す
”チャンスはピンチになり、ピンチはチャンスになる”を憶えておこう
ピンチに出会うことによって人も会社もちゃんとするきっかけを掴むのである

人間は、”ちゃんと”していない。 ちなみに私も、ちゃんとした人に出会ったことはない
近所の人、付き合っている人やテレビなんかに出てくる人を見ていると実にいい加減だ
外面だけ、きちんとした模範的な人を演じている人を見ることはあるが、
はたして家に帰ったら、普段はどうなのか、本当の姿は、全てにちゃんとしているのか?疑わしい
ある面だけはちゃんとしているが、その他の大半は、からっきし駄目なんていう人が多い

私の想定では、人間は立派な人でも、せいぜい1%くらいしかちゃんと出来ていない
それよりも、反対に100%だらしない、さまざまな害毒垂れ流し、なんて人も多い
そういう人の悩み・苦しみや不幸は半端なものではない
人間とは、ちゃんとすることが苦手な生き物であり、駄目なわりに随分と偉そうなことを言う
”ただやる”と”ちゃんとやる”とは、同じように見えて、大きく違うことなのだ

実は成功者や幸福な人とは
   あれこれ何でも、ちゃんとしている人なのだ

 実に単純明快だ、だがこんな簡単なことが出来ない、だから失敗ばかりで不幸なのだ

スポーツでも習い事でも先生のを見て、わかりました。⇒そして真似てやってみるが
立派な人はいかにも簡単そうに楽々やっているが、素人がすぐに簡単に出来るものではない
「観て盗め」と言うが、そんなに簡単に誰もが出来るものではない、余程の人でないと難しい
そこそこ出来はするが、先生のとは程遠く、ちょっとの努力で容易に出来るものではない

人間同士の諍いを見ていると、双方「自分こそ正しい」「お前さんは間違っている」という姿勢だ
嫁姑や上司部下や夫婦や子供同士や政治家の喧嘩はその典型だ
特に西欧社会では、何だかんだと自分を正当化するのが、立派で尊敬に値する人らしい
ところが、反対に、日本人は世界で際立って謙虚で争いを避ける国民である
日本人は「駄目な私です」と謙遜する、自分が本質的に”ちゃんと”していないとは自覚しているのだ
西欧は日本流に謙遜したり、相手に譲ることは絶対にしない、自己主張が強い弱肉強食の文化なのだ

だが、世界的に謙虚で礼儀正しいはずの日本人でも最近はかなり傲慢でだらしなくなっている
「自分こそ正しい」「お前は間違っている」という思いは人間にとって捨て切れない
それが証拠には、会社にも家庭にも学校にもそれぞれ嫁姑のような諍いが頻繁に起きている

72歳になって遅まきながら私が思うことは、人間は一生かけて”ちゃんと”すべきだということ
それほど過ぎた72年の歳月、ちゃんとするという認識が欠落していたことを悔やんでいる

現実問題、ちゃんとしないと高齢者の私は、かなり危ないし大きな災いの元になりつつある
年齢的にも死ぬまでに、いい加減な自分をちゃんとしておきたい誘惑にかられている
高僧までいかなくても、例え半歩でも自律し、ちゃんとした人間として老後を生きたい
「歳とって、引退後暇でしかたない」なんて嘆いている場合ではない、ちゃんと道は膨大だ
  素晴らしく歳をとる=ちゃんとなる=人間の完成・仕上げ=真の幸福なのだ

①争いや喧嘩しないこと、人格・品格を磨くこと
②自立する、自律すること、自活すること、俺がしてやったと思わないこと
③ちゃんとする、きちんとすること、整理整頓清潔清掃、家事は自分でやること
④良いことは続ける、悪いことはしないこと・やめること
⑤分散する、バランスをとること
⑥他人に依存、他人のせいにしない、自分が悪いのだと思うこと
⑦日々反省し、問題を見つけ、創意工夫、改善すること
⑧諦めないこと、挑戦すること
⑨がっかりしない、くよくよしないこと、心配し過ぎない事
⑩本を読み・経験を積み・文章を書く・誰とも気さくに会話すること
⑪数値で状況を正しくつかむこと、先を読むこと、予防すること
⑫自分の分度に合わせて、質素倹約・節制し、明るく元気に暮らすこと
しかもそれぞれに一般的、平均的な人より、より深く、より丁寧にやることが大事なのだ
ちゃんとは、縦×横×高さ=体積なのだ

普通の人は線や面程度で”ちゃんと度”を見ているが、これは大きな間違いの元だ
ちゃんとは、すごく膨大な・広大な・奥行の深い、一生かかるようなものなのだ
いい加減なレベルでちゃん度を満足・妥協してしまうことは非常にマイナスなのだ

昔の日本では
丁稚奉公や弟子入りすると最初の3~5年ぐらいは掃除・洗濯・炊事をさせられた
まず、自分のだらし無さ・駄目さを思い知らし、ちゃんとすることを叩き込まれたのだ
自分の年齢に関わらず、まず自分を丁稚奉公の一からやり直すことを勧める
中途半端に自分が一人前のちゃんとした大人という自惚れ、傲慢さを断捨離しないといけない

簡単に言うと、ちゃんとすべき項目の幅×それぞれの項目の奥行×質
①どれだけのことをきちんとするか
②どのレベルを目指すか
③現実にどの程度きちんと出来ているか質の高さ
当たり前のことが、できるだけ広い範囲に、高いレベルをめざしきっちり、
しかもスムースに継続的に、さほど苦労せずに出来るようになることが大事だ

例えば歯磨きを例にすると
私以外の周囲の人の歯磨きほど、呆れるほどいい加減だ、しかも大きな間違をしている
①歯磨きを含め、自分は暮らしのどこまでちゃんとを意識してやっているか
②歯磨きについてどれほど知識や経験を積み最適な歯磨き方法を定めているか
③それが現実に毎日続けて実施出来ているか
である

①歯磨きだけはちゃんとやっていても、その他はまるで駄目ではいけないし
②歯磨きについて私の場合は毎食後と就寝前に計4回磨いているし
 特に就寝前は丁寧に磨いている、間食は絶対にしない、もし間食したら磨く
 そして歯磨きも5種類くらいを使って磨き、歯間や舌のカスも念入りに除去する
 練り歯磨きも2種類使っている歯ブラシ自身も3種類使っている
 さあ皆様の歯磨きはそこまでちゃんと検討されてルール化されているだろうか?
③立派なルールが出来ても継続して適切に実施してなければちゃんとにはならない

ところが皆さんの歯磨きをよく観てみると、
「ちゃんとやっています」という人でも①②③のどれか又は全部がちゃんと出来てない
食後の歯磨きはするが寝る前には磨かない、磨いてから間食する、30秒くらいしか磨かない
磨き方が間違っている、・・・・・
私の目から診ると99%がいい加減ですが、彼等は「ちゃんと磨いている」と思い込んでいる
そして歯周病だの虫歯だの、恐ろしいほど歯がガタガタ・ボロボロになってしまうのだ

歯磨き一つをとっても、人間はちゃんとしないで、平然としているものなのだ
実は、正しい歯磨きも、私が人生勉強会なるものを立上げたきっかけの一つ

但し我が家で私は正しい歯磨きのあるべき姿を毎日見せてはいるが、子供に一切小言は言わない
何故かというと、
人生は自分で考え行動すべきものだから、自分が全責任を持つ、自分が懲りて真剣になる迄は
何も身につかないことを知っているからだ  「俺様から盗め」という信念を貫いている
虫歯にならないようにではなく、むしろ、虫歯になってしまえ、自分の駄目さに早く気づけ、なのだ

まず歯磨きのような身近なことからコツコツとちゃんとしていかなくてはならない
基本的な暮らしから一つづつ潰していかないと、一生かかっても、何一つちゃんと出来ない
幅広く奥深いが、身近なことからコツコツ一つづつやっていかなくてはならない

無論、何が何でも全て100%”ちゃんとする”必要はないし、そんな事出来っこない
私も、自分にとってどうでもいいことまで、全て完璧にしようなんて思わない
でも、ちゃんとやり続けると、少々のことは、自然に出来てしまうようになっていく
ちゃんとが染み付いて行く、ちゃんとが馴染んで行く、水平展開出来るようになるのだ
”ちゃんとする”には、各自、目的・目標や、又は得たい効果を明確にすべきだ
若い人が駄目な理由は①経験も知識も未熟で②効果を強く認識できないことだ
でも困ったことにやがて歳とともに、だらしないことによる大きな害がどんどん見えてくる
資産運用のように”ちゃんとする努力”と”ちゃんとしたことによる効果”の意識が大事だ

あくまで自分に関係する暮らし方について絞って、ちゃんとやるようにしている
現実には、忙しいとか、しんどい場合、手抜きをすることも多いが、
それはそれで罪悪感を抱いて、分かって手抜きしている分ましなのである
困るのは、だらしないにも関わらず、罪悪感もなく「自分は全てに、ちゃんと出来てる」と
勝手に認識し、ゴミ屋敷やゴミ女みたいに、いい加減、出鱈目で平気の平左でいる人である

ちゃんとするにはどうしたらよいかというと、
会社でやったことのある改善の手順にヒントがある
会社はかなりちゃんとしているが、その反動なのか、家庭はどんどんだらしなくなっているのだ

①現状把握のために現状を調べる
②多角的に問題点を分析し洗い出す(根本から疑う)
③正しいやり方などを調べたりして、改善対策を立てる(広く調べる)
④試験的に実行する(試行錯誤の連続、失敗が続くはず)
⑤その結果を検証し、駄目なら更に是正する又は一から他の方法を検討する
⑥大方、数回でうまく行くことはない、必ずもっと適切な方法が見つかる
⑦そういう試行ー実施ー改善を繰り返す、これは人のセンスや能力でによる個人差が大きい
⑧大概の人は間違ったやり方を続けたり、中途半端なやり方で満足してしまう
 なぜかというと人間は面倒を避けて、便利や簡単なやり方を選んでしまうものだ
⑨大事なことは面倒でつらいことでも正しい最適なやり方を実行することだ
⑩そうして完璧又は完璧に近いものがやっとのことで見つかり継続する
⑪最適なやり方で結果・効果が分かってくる
⑫そしてついに”やっとのことでちゃんと”したことが定着するのである
 しかし完璧になっても更に改善をし続けることが大事なことである
 『改善は永遠なり』であるとは改善は一回で成功するのではないということだ
  改善・改善と何十回も改善を繰り返してやっと理想のものに到達できるのだ
 決して一度や二度の改善で終わりにしてはならない、それはむしろ害になる

その他ちゃんとする管理技術手法を参考にあげておくと
①ルール化
②定期点検・日常点検
③目で見えるように
④検査・監視・測定
⑤KAIZEN(改善は今や寿司同様に世界的に通用するようになっている)
⑥定期補修・修理・清掃・給油
⑦5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)
⑧第三者監査、他からの提言
⑨水平展開
⑩IE/VE手法(なぜ、なんのためにあるか?他により良い方法は?)
⑪バカよけ
⑫予防・再発防止処置
ちゃんとやるにも、より科学的な手法を併用することも大事だ
私の場合、大工や電気の工事や整理整頓などの幅広い知識や技能があることも有利な点である
日本では学校で大工や工事や管理技術教育がされていないが、残念でならない

たった一つのことだけでも、ちゃんとやるには5年10年かかる
社会的な地位の高い先生や経営者や政治家は、ちゃんとしていると思い込んでいるが
むしろ、そんな立派であるはずの人こそ、当り前のことがちゃんと出来ていないものだ
私の経験でもインテリや社会的地位が高い人は、何とも付き合い難い人が多かった
そういう社会的地位が高い人ほど整理整頓や大工や家事更に挨拶さえもちゃんと出来ない
料理も大工も健康管理も家事もネットも携帯も大工も電気配線さえも満足にできないものだ、
そんな駄目人間が職場や学校で「掃除など家事は大事だなんて」口先で教えている人なのだ

頭の良い人は、頭と口先だけで、意外にいい加減な人が多い
かえって頭の良い人とは付き合い難いという面もあるのだ
偉そうなこと言うわりに頼りない、信頼できないのだから

最近テレビでこういうことを知った
アメリカでは、自分に非があることが明らかな場合でも決して謝らないそうだ
ところが日本人があまりに I,m sorry.を乱発するので、
最近は日本人に学ぼう、見習おうということになってきたそうだ
そして全米各州で
「I,m sorry.と言っても裁判のときにそれが不利に扱う根拠にはならない」
        とわざわざ決めたそうだ
アメリカでさえ、やっと日本流のちゃんと文化の大切さに気づいたのかもしれないのだ
柔道・カラオケ・家電製品・和食だけではなく、日本の精神文化を世界に広めるべきなのだ

日本人は謙虚に物事に対し、とことん突き詰め改善し尽くす辛抱強さがある
改善を繰り返し、「死ぬまで改善です」なんてタイプの日本人が多いために
日本には素晴らしい奥深い技術や技能や芸術が残っていて伝承されている
外国人は日本の技術の高さや日本人があまりにちゃんとやっているのびっくりするらしい
例えば、時間を守る、電車待ちで並ぶ、学校で学生が掃除する、礼儀正しい・・・

古来の日本人の理に叶った暮らし方や行動は今の日本人にも引き継がれてはいる
外国からも何ごとにおいても、ちゃんとする日本人は尊敬と驚きで見られている
しかし、そんな日本でも、やはりかなり崩れているのが実態だ
私の生まれ育った昭和20年頃も親の暮らし方生き方はちゃんとしていた
それが今になっても私世代の脳にメモリーされており、親のようにちゃんとしようする
”ちゃんと文化”を継承していかねばならないのだ、口で言うのでなくやって見せる文化

日本でも最近の若い人は、かなりひどいか、ましな部類の若者であっても、ダメよダメダメ
若い人は、経験不足で、ちゃんとする必要性を全く実感できないから
便利で豊な現代は、更に、ちゃんとする認識が欠落している若者は多い
パソコンとネットとゲームと携帯とテレビ依存もだらし無さを助長している

昔のように、立派な師匠からの丁稚奉公的な時期や機会が少ない、すぐに転職してしまう
若者の責任というより、世の中の急激な進歩が万事についてちゃんと出来ない風潮を生む
若者は未熟だがある程度歳とると、いっぱし自分はかなり大人になったと錯覚する
未熟者の慢心は怖い、考え方がお粗末なまま固定してしまう、固まってしまう
若い人の危険なことは、ちゃんとすることなく大人になり老人になってしまうことだ
そういう若者の人生や末路は、病気・貧困・不和・・・あまり良いものにはならない

大人は、子供や若者を見て反面教師的に自分の問題に気付くことも多いが
未熟な若者を見て、当然、自分は、かなりましだと認識してしまうと逆効果だ
本当に立派な大人は、自分がましだと思わず、むしろ駄目な自分をいつまでも認識し続ける
でも、いつの時代も、年寄りは若者にあれこれ苦情や小言を言うものだ
年寄りというものは、自分が未熟でいい加減な人間でも、若者に対しては文句を言う
しかし、よく見ると、年寄りもちゃんと出来ていないものであって、何とも悲しい

年寄りが若者にあれこれ忠告しても馬の耳に念仏、糠に釘、何ら効き目はない
年寄りは、つい言ってしまう「最近の若者はちゃんとしていない」と
嫁姑問題なんてのも、原因はいかにも偉そうに年上目線で小言を言うためだ
でも、現実に親や先生や上司が格段に素晴らしい行いをしているとは見えない

口というものは災いの元だから、自分でやってみせることだ、口で言うのは簡単だが誤解を招く
安易に若者に言えば言うほど効果なく、むしろ逆効果になってしまうのがおち
若者は年寄りの忠告を受け入れるだけの高い資質・力量・技能を持っていないのだ
「親しき中こそ礼儀あり」というのが私の信条だ、目下だからどんどん口撃してもいいではない
 私は子供に小言は言わないようにしている、黙って自分がちゃんとやるだけだ
自分はちゃんとしないのに、口うるさいのが最近の親・先生・上司なのだ
「親しくない人に礼儀正しい」のは当然であるが「親しい人ほど礼儀が必要」なのだ

親や先生が未熟な場合、親の躾や指導は子供にプラスどころか大きいマイナスになってしまう
このことを親・先生・指導者は認識しないと、悪い影響を子供に与え、おぞましいことになる
親や先生や上司は、「自分は駄目だ」「もっと自分自身がちゃんとしなければ」と思うべきだ
昨今では子供を虐待する親が「躾のためにやりました」なんてことを言う
躾が虐待になってしまう、肉体的暴力だけではなく、子育て全般に目に見えぬ虐待が存在する
躾けるべきは、子供ではなく、親や先生や上司自身であったりするのだ
躾は大切だが、躾をする親の素質・人格や心がけによっては子供をますます悪くしてしまう

というより
現代では、私の知る範囲でも、多くの親・先生・指導者はかなり程度が悪く、低い、
親や先生や上司の質は最悪であり、口で躾ばかり、まさに口害であり、与える害は大きい
「お前には言われたくない」「こんな親や上司にはなりたくない」という反面教師としての効果だけだ

「まず自分の行いをちゃんと」すべきなのだが、人格・品格・力量・努力忍耐力が足りない
中国や韓国の元首のマナーや品格のないこと、あんなのは指導者ではない、安倍さん頼みますよ
最低限、品格だけは保って欲しい、デモや抗議をしても良いが
他人に危害を加えたり国旗を焼くのは厳禁だ、理性と相手に対する礼儀を失ってはならないのだ

私は思うのだが、
上下関係がある・ないに拘わらず、例え目下の相手でも、あれこれ言うのは良くない
言う側の人、例えば親とか姑とか先輩などが、まず思っているほど完璧ではないのだ
案外未熟で、素晴らしくもないし、むしろよく観ると、年寄りもかなりいい加減だ
他人にあれこれ言うより自分自身がちゃんとすれば、それで十分なのだ
人間は,日本人でも完璧な人は少ない、それぞれの人の年齢や経験によって、妥協している
すなわち基準が人によってばらばらであり、人間はそれぞれで納得してしまっている
多くは「自分が一番きちんと出来ているなんて」勘違いをしているから、何とも偉そうに言うのだ

若いからとか、歳とっているから、どうのということはない、
ちゃんと出来ていないという点では、年齢による差はごく僅かな違いしかない
ドングリの背比べなのだ
人によっては、歳とればとるほど、むしろ、ひどくなっている人も多い
そんないい加減な先輩から、何のかんのと言われたら若者も、たまったもんではない
人間というのはそんなものだ、懸命に生き歳を重ねた人でないとこの間違いを正せない
人格の優れた人が忠告や説教するに値するのだが、そんな年寄りは案外少ない

もし他人にあれこれ言うのであれば、まず自分自身を
せめて80%くらいは完璧に出来るようにしておくことが絶対条件なのだ

80%くらい出来たら、いちいち口に出して言わなくても十分物言わぬ忠告者になれるのだ
すなわち、貴方の日頃の行為を見て周囲もかなりの程度見習うものなのだ
いちいち口に出して小言なんか言う必要はない、むしろ言うべきではない
日本の職人が「教えるな」「盗ませろ」ということなのだ
親方や先輩に盗まれるほどのものがない場合、弟子は盗もうともしないのだ
逆に他人が見て、自分をせっせと見習うくらい磨きあげておかないといけないのだ
他人のことをとやかく言う以前に自分のことをとやかく反省(説教)するべきなのだ
でも一般的に自分のいい加減さは厳しく見ようとしないし、見えてないのである

日本では古来、職人の世界でも、師匠はあれこれ口に出して指導をしない
口に出すことを良しとしない、というか悪しと認識してきたのである
あーだ、こーだと教えてしまうことは、一見手っ取り早いように思うし
西欧流では、マニュアルなどがあって、細大漏らさず、懇切丁寧に明確に教えることを好む
欧米のデイベイトというのは口先だけで相手を負かすという日本人には最悪の手法なのだ
しかし、日本流はこれは間違った教育という思想が古来から根強くあった
観て・盗んで・自ら考えて・あれこれ試行錯誤して、自分で結論を出すことを教育と称している
そうしないと深い技術・技能は掴み取れず、伝達も出来ないと考えたのだろう

言葉などで教えちゃ駄目、教えられちゃ駄目、自分で考え、体得するのだ
「例え立派な師匠でも自分が教えられるほどそんなに完璧でない」ということだ
こういうことを常に頭の中にとどめておくことが大事だ
お粗末な自分が相手に誠しやかに教えてしまうことは大きな弊害になる

他人を見て盗み、更にあくまで自分で考え、自分で結論を出す
子供にも小さな時から、自分で考えさせる訓練をし癖を付けさせるべきなのである
「あんたはどう思うの式」「あんたはどうするの」「あんたはどうしたの」である
教えるのでなく疑問を持たせるのだ、子供や弟子は必死に答えを出そうと考える、行動するのだ
「口やマニュアルでは教えない」これをやっておかないと一生自立/自律できない
親や先生が考える・親や先生が結論を出す・親がやらせる ⇒ だから責任は親や先生にある
となるのである。永遠に自分では考えない・決断しない
失敗もしないかもしれないが、大した成功もしない⇒結果的には不幸・不遇な人生になるのだ

私などは自分の自立度は平均から見ると高いと思うが完璧な人間から診ると全然駄目だと思う
まず親や他人依存からの旅立ちである、そのためには親元から離すことだ
「可愛い子には旅(つらい厳しい旅・遠方への単身赴任)をさせよ」である
「他人の飯を喰うわせよ」である
そこで初めて自分の幼稚さに気づくのである、人によっては絶望しノイローゼになる者も多い

ある歳に達したら、親子でなく師匠と弟子という認識が必要である
その歳とは20歳では遅い、せいぜい15歳中学、できれば10歳からと言いたい
10歳くらいから、少しづつそういう感覚で子どもを育てることを勧める
ということは10歳までに親自身がそこそこ親らしく師匠らしく成長していないといけない

自分は果たしてちゃんと出来ているのか?これが意外に自分自身でわからない
チャント度というような概念を自分自身で作っておくことが大事だ
自分がどの程度ちゃんとしているのか90点なのか50点なのか?
ちゃんとにもレベルというか次元がある、浅い人もいるすごく深い人もいる
これを一緒くたにすると大間違いをしてしまう
私は、ちゃんとの次元を6つに階層分けしている
ちゃんと度①85点以上(師範級)更に最高度の英知が組み込まれ、輝くような振る舞いを実現している
ちゃんと度②70点以上(上級)自分なりの創意工夫が人並み以上であり、きちんと継続実行されている
ちゃんと度③55点以上(中級)自分なりの創意工夫が少しだが定着しており、ちゃんと出来始めている
ちゃんと度④40点以上(初級)自分なりの創意工夫が入り出して、努力も始めている
ちゃんと度⑤35点以上(少年級)世間常識的なことがやっとのこと出来ているまだ低いレベル
ちゃんと度⑥34点以下(幼児級)ちゃんとできてないかなり低いレベル

親子・先生生徒・上司部下の関係で不幸なことは、相互の差がそれほど大きくないことだ
すなわちどっこい・どっこいなんだが、理想はかなり大きく差がついていることだ
例えばちゃんと度①の親や上司や先生とちゃんと度④⑤⑥の子供や部下や生徒の組み合わせが理想なのだ
現代の関係は
ちゃんと度④の親や上司や先生とちゃんと度⑤⑥の子供や部下や生徒の組み合わせなんてのが多い
少しだけ上ということで歪んだ指導・叱責場合によっては虐待が行われるのだ

結婚時期が遅くなっているわりに、親自身がかなりまだ幼稚なんて未熟な日本人の親が増えている
子供を持たないので、親としての自覚も薄れてしまっており、大人の幼児化が定着している
・自分で考えない
・自分で決断しない
・経済的にも持ち家や財産形成のプランを実行してない
・自分の健康管理ができていない、喫煙・飲酒・夜更しはし放題
・炊事・洗濯・掃除などの家事はほとんど出来ない
・すぐに怒る・腹立てる・くよくよする・心配症・暗い
・他人と気さくに会話できない
・大工も電器の設置・修理などほとんどやらない
・家は整理整頓できていない
・夫婦関係もおざなり
・・・・・
そんな体たらくで子供に偉そうなこと言えるか?

●宮沢賢治が次のようなことを言っている「注文の多い料理店」の中の一節
私が先生になったとき
自分が真理から目をそむけて
本当のことが語れるか

私が先生になったとき
自分が未来から目をそむけて
子どもたちに明日のことが語れるか

私が先生になったとき
自分が理想を持たないで
子どもたちにどうして夢が語れるか

私が先生になったとき
自分に誇りを持たないで
子どもたちに胸をはれと言えるか

私が先生になったとき
自分がスクラムの外にいて
子どもたちに仲良くしろと言えるか

私が先生になったとき
自分の闘いから目をそむけて
どうして子どもたちに勇気を持てと言えるか

さあどうだろう、人生の先生・先輩としてきちんと努力してきましたか?
が問われるのだ
そして子供も将来同じ挫折感を味わうことになるのだ
自分は良いが子供は立派に育てなくてはね
やはり親とか先生とか上司は、それなりに相当の立派な自覚や覚悟が必要なのだ

私の場合であれば
・村上さんはいつも当たり前にやっている
・村上さんはその結果非常に良い成果を得ている
・村上さんの生き方は好きだ
・俺も真似てみたい
⇒だったら、俺もやってみようとなるのである
そこまで自分を仕上げることこそ必要なことで、自分が未だいい加減なレベルなのに
目下や若者に偉そうに口に出して、中途半端な出来損ないの忠告なんかしてはならない

上司や先輩が「ちゃんとやれ」と言うと部下や後輩が「ちゃんとやっています」なんて言う
この会話には間違いが2件ある
「ちゃんとやれ」ではなく「具体的に何をどうどのようにしろ」でなくてはいけない
「ちゃんとしてます」ではなく「具体的に何をどう、どのようにしています」でなくてはいけない
安易な「ちゃんとやれ、やってます」が、いかに、いい加減な言葉かを深く反省すべきだ

「継続は力なり」と言うが継続とは単に続けることではない
継続とは最善の事を当たり前にきちんと確実に苦労とも面倒とも思わずにひたすらやることである
続けりゃ何でもよいと思うのは大間違いだ、そうではなく、”改善と継続は力”なのだ
又は最善の継続は力なのだ、最悪や悪の継続は力ではなく、力をそぎ落としかねない

いい加減な言葉使いには、みんな、ぜったい、すごく、急いで、一生懸命・・・などもそうだ
まあいい加減な人間の言うこと、指示側と受けての認識がとてつもなく食い違っている

昔日本では親や先輩のやるのを見ていて盗むというのが基本になっていた
ところが豊かで便利になった現代では、親や先輩はかなり堕落している、
そんな堕落した親や先輩に「ちやんとしろ」と言うのは、極めておかしなことだ
「ちゃんとしろ」というのは自分に言うべきことなのだ
親や先輩はかなりレベルが高い見識や人格や立ち居振る舞いが基本なのだ
政治家や警官や先生でさえ、最近はちゃんとしない人が増えているのだ
むしろ国民や市民や生徒が「もっとちゃんとして欲しい」と嘆いている

少なくとも昭和30年くらいまでの親や先生は質素で黙々と真面目にちゃんと暮らしていた
私の母親など大変な家事を毎日早朝から夜遅くまで文句一つ言わずにちゃんとやっていた
もはや現代では「ちゃんと」という言葉が通じない、その結果いさかいが起きてしまうのだ

昔の嫁姑問題は一方的に姑が何でも無理強いすることによるものだったのだが
現代は「具体的に何をどう、どのようにしろ」という指示なり忠告に切り替えなくてはならない
上司部下の争い、先輩後輩の争い、嫁姑の争いというものはまずそういうことが原因で生じるのだ
また上の者が下の者を駄目と決めつけて、悪意や小言を言ってやろうと観ている態度も原因している

見せて・やらせて・確認し・褒めてやらねば子供や生徒や部下は成長しない
大事なことは、口で言って、すますのではなく辛抱強く”見せて”示すことである
 ・”見せて”  これが一番大事、自分が模範にならないといけない、悪い見本になっては駄目
 ・”やらせて” あくまで自分で自主的にやろうとするのをじっと待つべきである
 ・”確認し”  どの程度自分なりに考え・工夫し継続実行しているかをそれとなく観察するのだ
 ・”褒めて” やたらに褒めるというより、本人が自覚を持った時に大きくなんとなく褒めることだ
やたらにあれこれ褒めるのは場合によって・人によってはマイナスになりかねない
褒めることは褒め方によって副作用を伴うものである
まあ本人が自覚して良いと思ったことをやっているのであるから、
褒めなくてもそれなりに本人は満足しているものだ
そういうつみ重ねで綜合的に自分が完璧に半歩でも近づけば、
それが自分自身の更なる成長へのばねになるのである

家の断捨離コツコツやってます
一年前、二年前の居間の姿を思い出すと物で溢れ、レイアウトも全然なっていない
暮らしやすさや美しさが最低・最悪であったことをまざまざと思い出す
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