悩み・苦悩を放置せず自分で改善するか相談する良き師を持て
清く・正しく・美しく・明るく・元気・多くに挑戦・謙虚に・質素に
(国の指導者や会社社長がこういう事が出来ていて健全かつ平和でありたい)
履歴:東京台東区育英小学校⇒台東中学校⇒白鷗高等学校⇒東京工業大学⇒大阪松下電器⇒エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業自営
住居:東京浅草猿若町誕生⇒埼玉県川越疎開⇒東京浅草三筋町、夏は藤沢市鵠沼⇒大阪(門真⇒萱島)⇒京都⇒滋賀(長尾⇒田中)
専門:IE・VE・無駄取改善・生産管理・環境管理・経営管理・人生・会話・田舎暮・PC
人生関係:人生勉強・会話・老後・健康管理・運動・確定申告・異文化・資産管理
趣味:大工・剪定・テニス・スケート・読書・ネット・ブログ・太極拳・卓球・水彩画・楽器(昔の趣味は省略)
**物事は起きてからではなく起きる前にやる 村上原基人生勉強会**
都会と田舎の違い、及び、田舎くらしの勧め
家が高い・家が狭い・窮屈・水の確保が難しい・災害に弱い・不自由
見かけはよいが中身はない・いざというと弱い・インフラが脆い
私は東京⇒大阪⇒京都の大都会から今は滋賀県の田舎に住み続けています。田舎と言えども昔に比べると都会化してしまっていますが都会に比べるとその違いは、まだかなり大きい、私は55歳までの都会暮らしを捨て
『自然+不便さ+自由+過疎な環境』の山や田舎町に30年近く住んできました。そういう暮らしは都会に比べて私にとっては、すごく快適で楽しくストレスがレスなものなんです。
簡単に言えば都会では、新技術や新製品や新店舗や過密にどっぷり浸かってそれを良しとしていることが実は問題なんです。過密さがますます暮らしの自由度を結果的に奪っているのです。また過密はお金(税金も個人の出費も)がかかり、一見すると便利なようですが、結果的に不便が多く、かつ、インフラの老朽化、いざ災害という場合にも脆弱なんです。私も3つの大都会で55年間暮らしてきましたが、その都会の経験は経験としては評価できますが、それは都会で暮らす辛さ繁栄の末の崩壊のリスクについてであり、田舎暮らしの良さが分かる比較の物差しでしかありませんでした。まあ、
都会の暮らしは、ある意味”生き地獄”だったように今となっては思っています。そういう都会に誘引され、都会のいろいろな一見美味しそうな甘い餌につられてその罠にはまり続けて、都会に依存してきた自分を山暮らしや田舎暮らしを通じてやっと見つけ、気づいたものです。
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都会は不自然・過密・複雑・大混雑・余裕無い・物価高い・不自由・大規模災害対応困難・インフラ劣化・財政逼迫・大規模停電等・柔軟性無い・食料自給無し・水の確保困難・狭い家・・・★
1.自然な環境は現在の都会の家の近くではほぼ得られないが、田舎では家も周辺も全域自然で満たされていて、そこが根本的に違う点で、自然はすぐそこにあり、散歩や自転車やバイクで気軽に行けるところに沢山あるのです。すなわち自然の真っただ中に住んでいるのです、魚が水の中を泳いでいるようなものです。自然というのはあくまでどこまでも無限に自然なのですが、都会は真逆で全てが不自然にならざるをえないのです。都会では、自然と言えども箱物や偽物に過ぎず、本物の自然ではないのです。
田舎の我が家の前の空き地や庭でも野菜や草花を育てていますが、そういうことが京都の家ではまず不可能なのです。都会で暮らし続けていると自然からひどく乖離して生きていることを認識すら出来なくなってしまうのです。東京の人が京都のことを永遠に理解できないように
都会の人は自然について一生かかっても理解できないのです。
2.不便さというのも、都会では「これでもか、これでもか」と、やたらと街中にあれこれお店や便利な場所があって、何でも簡単に出来たり、得られてしまうことの弊害の部分です。お金を出せば周辺に何でもあるというのは、昔の暮らしでは、ほとんどなかったことですが、田舎には昔のような不便さがまだ当たり前に残っていますし、その不便さを許容しています。都会では、
何でも専門の職人やお店でお金を出して安易に物や楽しみを得てしまうということや、やたらと便利さに頼る癖、無意識に不便を避ける癖が身についてしまうのです。そして、
何やらしても出来ない薄っぺらい魅力のない人間になってしまうのです。便利さはあってよい、でも便利さは100のうち50まででよい、それを70とか80とかまで求め、場合によっては120とか200とかを求めるようになるとそれはもはや人間とは言えないようなことになりかねない。
程よいところで止める(足るを知る)というのが人間の人間たる所以なのです。知らぬ間に麻薬患者のようになってしまいますよ。例えば平和にどっぷりつかっていると戦争なんか起きることを全く考えなくなってしまいます、また巨大地震などが長く経験していないとそんなものは来ないものと思い込んでしまいますが、その結果予防や準備を忘れ結果的にある日突然悲惨な目に遭ってしまうようなものです。同様に都会に暮らし過度に便利にどっぷり浸かっていると碌なことがありません。
私の住む人口の少ない小ぽけな田舎町でも大手スーパーは3つ、大手ドラッグストアーも3つ、病院やほとんどの店もあり、スポーツ施設も4つ、私はほぼ毎週ネットのアマゾンで買い物もしていますので全く不便はないのですが・・・
3.依存というのは簡単に言うと、”自分自身で何かやる”という意識が希薄になり、誰か他人にやってもらうのが当然ということです。ところが私の住む田舎で私がモットーにしているのは自分で何でもやることです、
例えば、家事、大工、散髪、野菜つくり、草木の選定、ちょっとした修理や修繕、私は散髪もここ30年、自分でやっています。依存すると何かやりたくてもさほどお金もなく、自分でも出来ないので「やめとこ」と我慢してしまう。主体性や独自性がなくなり、またチャレンジ精神が湧いてこなくなってしまいます。
4.自由ということは
例えば大工なんかを自分でやるにも都会では騒音が出せず、大工をする広い場所もありません。また田舎では、自動車で目的地に時間通りに行けるし、どこでも無料で駐車出来、これはかなり都会より自由を感じます。水も近くで得られますし、食料も現地で調達できます。ことほど左様にストレスをあまり感じません。また例えば最近、都会ではお米が高く、量も十分買えないということがあるそうですが、田舎では業者を通さず農家からお米を直接買えているのです。必要な野菜は自分で作ればよいのです。田舎では比較的何でもやろうとすればできます。私の家の庭には手作りの卓球台を設置していますし、家の前の空き地は野菜や草花を育てています。また意外にクラブ活動への参加がた易く出来るのも良い点です。私も高齢ですが水彩画や卓球などに気軽に参加しています。
最後の
5.過疎な環境というのは、
都会は何しろ人が多過ぎるということです。その多くの人の目に晒されている又は赤の他人からもいろいろな影響を受けやすいということが一つ。そして過疎ということは土地も家も格段に安く広い家が安く買えるということにもなるのです。田舎のほうがご近所の目を気にすると思っている人が多いですが、私のような都会の人は、新しく出来た街に住む場合が多く、土地の人の住む村の真ん中に住むのではないので、そういう弊害はさほど感じません。半面田舎では人付き合いをしようとする人には案外良い場所かもしれません。
これは私だけのことかもしれませんが、田舎の山に移り住んで、およそ10年後に「ふっと我に返った」「今まで都会に暮らし続けてきて、つまらないことであれこれ悩んだり、苦しんでいた」というように、過去を悔いるようになってきました。あれもこれもと欲深く求めるのではなく、あれもこれも何もないみたいな場所で暮らすことで、
他人の目を気にせず、他人の中の自分ではなく、自分主体に大きく生き方が変わり、過去の欲深な汚れやゆがんだ人間関係を一切合切捨てきり、洗い落とすことが大事だと思っています。そうでないと、自分が自分でないまま老い、死んでいくことになってしまいます。すなわち自分として生まれながら、自分自身を見出す事もできないのです。
◆都会暮らしとは想像を超えるすごい高い土地代で小さな土地に10階とか20階のコンクリートの牢屋みたいな家を何千万円とか億円で購入し、借金を30年必死に返し続け、豪邸とは言え、庭もなく駐車場もない、一日中その牢屋にこもりテレビを眺めて暮らす、野菜なんて育てられない。どこかに行くのも大変、万一、自家用車を持っていても駐車場代金が高くしかも混雑していてうかうか出かけられない、道は混んでいて時間通りに目的地には着けない。近くに山や川はないし温泉なんかもない。電車に乗るとすごい混雑、停電なんかが起きたら最悪で、普段便利に使っているものが使えなくてパニックになる。情報網に何か起こると物が買えなくなるなんてこともある。大災害が起きれば電車も交通も停滞し家に帰れないとかどこにも行けない・・・・何もなければよいが何か起きればどうしようもない、日常もとにかく自由がない、むろん自然もない。どこか田舎に出かけるしかない。こんなところにすき好んで住んでいる人の気持ちが全く理解できない。◆何か勘違いしているんだろうな・・・
田舎生まれの沢山の若者が都会に出て行って、田舎は高齢者ばかり残る、でも
都会であれこれやって汚れ切ったら最後、60歳くらいで元の田舎に戻って暮らしてほしいものです。現代のあまりに過密で稼ぐ場所で便利なようで意外に不便で自由なようで意外とかなり不自由な都会という場所は、最終の棲家ではないですよということです。「ちょっと出かけてくる」と都会に出て行って、戻るべき家を忘れて都会の片隅で窮屈に老いて、薄汚いごみ屑のように死んでいくなんて、実に悲しいこと、あってはならないことだと私は思っています。
人生の最後くらい自然一杯の静かな田舎で庭付きの広い家に住み、野菜つくりやいろいろな趣味をじっくり楽しみながら、つまらん多くの他人との付き合いも減らして、穏やかに生きて老いて行くそれが人間でしょうが・・・
◆田舎は広い家、庭も駐車場もある、畑まである、車も少ないので車でどこへも時間どり行ける。トイレも玄関も風呂もゆったり広いがとにかく驚くほど安い。山も川も湖もある、自然だらけ、気軽に温泉も行ける、人はあまりいない、町の道路に横たわっていても平気、とにかく静か、家の庭や空き地で野菜なんかも作れる、お近所や友人から野菜ももらう、お米は近くの農家から農家価格で買える、暇で退屈ならば外に出て野菜や草木の手入れでもする。温泉にでも出かけてゆったりもできる。田舎でもスーパーやドラッグストアは沢山ある、当然病院もある、趣味も大体できるし、スポーツする場所も近くに沢山ある、アマゾンなどネットで買い物もできる。ストレスは少ない◆田舎は自由だ
さて、こんな私の話を都会の人が読むと「何を偉そうに言ってやがる、この田舎者が」と思う人も多いだろうし、少し読み始めて「つまらん、くだらん」と全部を読むのをしない人も多いだろうが、私の経験では
「何でも頭ごなしにつまらんことと片付けてしまう、逃げてしまうような人間にだけはならなくて良かった」と思っています。まあ普通の人はやらないようなことでも、敢えてやってきた自分の生き方を今になってみれば「良かったなー」という思いがしております。
田舎暮らしをしないのは勝手ですが、そういう人は可哀そうとしか言いようがありません
★
早くしましょう、遅くなれば土地や家の価格も上がってしまい、適当な場所も少なくなり、メリットが減ってしまう★
『
何事によらず、物事はやらない人には永遠に分かるはずがない
踊るアホーに、見るアホー、同じアホーなら踊らにゃ損損
(田舎住まいのアホーに、都会住まいのアホー、同じアホーなら田舎に住まわにゃ損損)
成せば成る、為さねば成らぬ』
やっと春そして夏到来、家の前の空き地も一挙に芝さくらが満開、そして4月中にあれこれ次々に花が咲き出す。手入れは毎日やっていますが、それも田舎での楽しい仕事の一つ。左側の真ん中辺には毎年恒例の玉ねぎとラッキョウが元気に成長を続けています。京都の家ではこんな程度のことも全然出来ません・・・

前の空き地には秋に植えた玉ねぎ

庭にはレタス、豆、三つ葉、ジャガイモ、キンカン