村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

82.苦しいからと、自殺なんかするなよ、悩みなんか笑い飛ばせ

2007-03-23 07:32:30 | 人生
  悩むことは若者の特権だ
   若い時は障害物競走
   壮年は短距離競争
   老人はゆっくりマラソンだ
  山登りのように、それぞれの時期を「そういうもんだ」
  と逆転の発想で楽しむくらいの気分
  で生きることが大切だ
  つらいこと=真面目に生きている証なのだ

 ①戴いたかけがいのない生命
 ②二度とこの世に生まれないぞ
 ③自分が生まれる確率は全宇宙の塵一つの確率だ
 ④なにしろすごい貴重な命なんだぞ
 ⑤自分が一人で勝手に悩んでいるだけさ(一人相撲というやつさ)
 ⑥どんな困難も必ず解決できる
 ⑦まずその苦や困難から遠ざかれ
 ⑧まずその苦や困難を忘れろ
 ⑨そのためにはまず寝ろ
 ⑩そのためには旅をしろ
 ⑪そのためには他人にそのことを聞いてもらえ
 ⑫巨大台風も必ず終わる、晴れの日が来る
 ⑬ずーと雨や風が吹き続けることはない
 ⑭苦難は神様が与える試練だ、甘んじて受けるしかない
 ⑮苦難はつらいものだ、気を休める場所や人や遊びを持て
 ⑯全ての苦難を解決するのは時間だ、なにしろじっと待て
 ⑰大きな苦難は争うのでなくじっと耐えろ・静かに耐えていろ、じたばたするな
 ⑱若者や苦難の人にも明るい未来は必ずあることを信じろ
 ⑲肩の力を抜け人間なんてそんなに強くも有能でも立派でもない
 ⑳他人は皆立派に見えるが案外皆悩んで暮らしている耐えている、自分だけじゃない 
ちなみに私なんかも何回も苦しい状況があった、入社して2年目、ノイローゼになって半年休職したこともある、
会社を辞めて次の会社が見つからなかったこともある、奥さんが癌で介護しながら会社勤めしたこともある・・・・
自分が癌になったこともある、まだまだ沢山ある、でもそれらを乗り越えてきた。若い時の苦難は、全て皆始めての体験だから大変なのは当り前だ。歳とって思い出すと、さほど大したことなかったことがわかるのだが。例えばゴルフでも最初から連続パーやバーデイーなんか出ん、OBやチョロやセブンパットばかりだ。ゴルフでも最初の2年くらいは失敗ばかり、そんなこと一々悩むか?悩む以前の問題だろうに。
64歳の私は、さすが今はそういう苦難が来ても「いらっしゃーい・ご無沙汰」なんていう感じにやっとなってきた。
そうなるまでに60年間かかった。若い人や苦難に喘いでいる人もまあ耐えることです。打開の道を求めることだ。
まあ人生とはつらいものだが、そのつらさを幾度と乗り越えることが、やがてその人を立派な人へと成長させていくのだ。
またつらい時の相談相手を得ることも大事だが、いそうでいないんだ、腹わって相談できる人が。そういう話相手の人を作るように努めることだ。
私でよければ、いつでも相談して戴いてもいいですよ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自殺は人殺し・殺人ですよ、なぜそんな恐ろしいことをするんだ?
殺す貴方はいいとしても、殺される貴方は可哀想だ
殺人は相手が憎いからやるんだが、自分が憎いはずがない

人生谷あり・山あり、若きウエルテルの悩み、雨のち晴れ、
人の一生は、重荷を負うて、遠き道を行くがごとし急ぐべからず(徳川家康)

私くらいの歳になると、全てがはっきり見えてくるんだが
若者は、全体が見えないから、悩むのが仕事だ、悩みが栄養源
悩まない若者のほうが、おかしいんだ、悩むこと=正常な姿
悩むというのは、若者の特権であり、若者であることの証だ

まあ障害物競走みたいなもんで、その障害を全部くぐり抜け
ゴールまでゆっくり走ればそれでいいんで、途中で止めることはない
人生そんなもんですから、若者よ若いうちに多いに悩もうではないか
そういう意味では、悩みのない人・悩まない人こそ問題なんだ

悩み=成病=為闇・・・⇒むしろ明るく受け止める/笑い飛ばす
桜は厳しい寒さに耐えて後に、暖かい春を迎え花を咲かす
やって来い悩み・俺は歓迎するぜ・悩みと付き合ってやるぜ
「悩みさん一緒に楽しくやろうじゃないか、つきあうぜ」

「嫌なもの=必しも悪いではなく」、「嫌なもの=非常に良いこと」
逆に「良いもの=必しも良いものでなく」、「良いもの=悪いもの」
楽は苦の種/苦は楽の種、今の世、あまりに楽し過ぎている

逆説的だが、意外にそうなんだ、物事さかさまに考える
と意外と正解が見えてくるし、悩むことも少なくなるのだが

『急がなくていいから、悩みと戦って、大きな大きな人間になれよ』
http://www.meico.org/p19.html

それともう一つ、悩める若者同士が苛めあうなんて、愚かしいことは止めような
悩める若者同士、互いに励ましあわなくてどうするんだ
苛めるお前こそ、同志を苛めるなんてお粗末な自分を大いに悩め
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81.ISO14001審査が不評な理由、審査はかくあるべしを提案

2007-03-15 09:12:15 | ISO
審査とか検査とか診断とかあるがどれもあまり好きにはなれませんね。しかし癌の恐れがあれば健康診断をしたほうがいいし、電気の漏電があれば電気保安協会に定期検査してもらうことは望ましいことです。まあこういう検査は嫌であってもそれなりにお金を払っても価値のあるものです。「ありがとうございました。早速手術しますとか、漏電箇所がわかったので早速修理します」となるのです。
ところがISO9001やISO14001審査では、初回の審査の認証合格は価値もあり、嬉しいものですが、それ以降毎年来る審査は有難くも価値もなく、現行の審査のやり方では多額の費用を払い、手間がかけて受ける意味がないのです。
癌がありません、漏電ありませんという場合は、それで十分価値のあることなんですが、ISO14001審査では、指摘がないと意味がないということで、何らかの指摘をしないといけないことになっているらしいのです。「指摘のできない審査員は無能」みたいな評価らしいのです。その結果として、どういう指摘になるかというとわかりきったことなのです。

①細かい問題を探す
②あら捜し
③どうでもいいことを指摘
④無理やり不適合にこじつける
⑤指摘が会社のためになるかは論外
⑥とにかく必死になって探す
⑦指摘しなくてもいいことまで指摘する
⑧意味のわからない指摘が増える
⑨不適合でなくても不適合にしたてる
⑩暗黙のうちに「すみませんが不適合で飲んで下さい」になる
⑪苛め・恫喝まがいになってくる
⑫ISO14001とは何だと疑うような指摘になる

日本の50年100年前の嫁いびり・丁稚苛めみたいな姿になってしまうのです。
1)お前達わしの言うことを聞け
2)つべこべ言うな
3)文句を言わずに言うとおりにしろ
4)良く見ろ、この裏に、隅っこに、手で触れて「これこのとおり埃だらけだ」とやる
5)高額なお金もらって1~2日も手間かかているから指摘でもしてやらんとな

まあ以上のとおりで
1)歓迎されない審査
2)役立たない審査
3)負担ばかり多い審査
4)余計な手間ばかり増やす審査
まあ会社いびり審査になってしまうということなんです。

こんな無意味・無価値な審査でなく、ISO14001環境マネジメントシステムは、初年度はマネジメント審査、二年目以降の審査は環境パフォーマンス審査であるべきなんです。
家の場合もそうでしょ。
建てた時は、新築の家の構造や強度などの検査、それ以降は故障箇所や改善事項の検査になるはずなんです。毎年同じように構造や強度の検査なんかやってもしかたないのです。
ところがISO9001でもISO14001審査でも基本的にはマネジメントシステム審査を毎年実施するのです。無料ならともかく、車検制度のように、迷惑な話ですISO9001は品質ISO14001は環境の改善が大切なことなんですがね?

あるべきISO14001審査制度の私見(村上和隆)
1)初年度:システム審査(文書審査に近い)
2)2年目:運用審査(文書どおり運用されているか)
3)3年目パフォーマンス審査(効果をあげているか)
  環境報告書開示
4)4年目自立確認審査(自主的にやっていけるかどうか)
5)これで合格すると→以降は5年毎の確認審査のみ(どちらかというとパフォーマンス審査)
まあなんとかしないとISO14001審査も日本の与党自民党の政治のように数年後には崩壊する危険が目に見えます。
http://www.meico.org/ISOsinsafuman.html
http://www.meico.org/ISOsinsakikanhehitokoto.html
http://www.meico.org/ISO14001gokai.html
まあマネジメントのマの字もわからんレベルの低い審査員が単に公的な資格を有するということでもっともらしくやっているのがISO14001審査であり
まあレベルの低い政治家が単に選挙で当選したからということで、もっともらしくやっているのが日本の政治であり、
その他国家資格者や学校の先生や僧侶も同様ですが、「資格があれば何でもありだ」という日本の姿勢が気になる今日この頃です。
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80.環境問題ではなく人間問題・文明問題ではないのか?

2007-03-07 09:10:01 | 環境
一体、文明の進歩というのは何のためにあるのでしょうか?
文明が進歩するということは一般にどのように認識されているのでしょうか?

驚くことに、歴史上の多くの文明は100%確実に滅亡している。その点、日本なんかは例外なのかもしれない。しかし現代ではその日本も例外ではなくなりつつあることを心配する。現実に世界に冠たる日本の良き文化や伝統も、悪しき文化の欧米化を早め、根こそぎ猛烈な勢いで破壊され続けている

文明の進歩・発展=
①素晴らしい
②人を幸せにする
③世の中が進歩する
④世の中の平和に貢献する
⑤豊かになる
⑥便利になる
⑦経済が発展する
⑧人類が進歩する
⑨健康になる
⑩心にゆとりができる
⑪次世代に良いものが引き継がれる
⑫和み・快活になり・世の中が明るくなる

人間は、一見よさそうなものや、自分にとって心地良い物事を無批判に良いものと認識してしまう悪癖がある。
・「美人は素晴らしい」
・「真面目な人は信用できる」
・「坊主や警察官は偉い」
・「頑張ることはいい」
・「忙しいということは働いている」
・・・・・・・・・・・・
こういう安易に認識してしまうことを一般に『認識の関』と呼んでいますが、
人間は、「認識間違い=安易に誤解する生き物」なのです。
薬でも大量に飲めば死ぬ。食事を大量にとれば肥満になり成人病になる・・・・・・何でも行き過ぎると、いいどころか、むしろとんでもない害悪になることは承知しているのですが、物事は一本調子の発展を許さない、行き過ぎれば、ブレーキがかかるというように常にバランスをとるのです。
自動車の場合を考えてみますと、スピードを出し過ぎれば、そのブレーキは急ブレーキになり大事故の原因になるのです。特に急ブレーキの場所やタイミングを間違えば100%確実にスリップ・転覆横転・するのです。
ブレーキは早めに踏むのが鉄則ですが、スピ-ド狂は急ブレーキのスリルをむしろ好み事故を起こす。
ところが、文明の話になると「文明の進歩は、どうもブレーキをかけなくていい」「否、文明の進歩はブレーキをかけてはならない」というような間違った認識がある。

・何事も作用あれば反作用あり
・過ぎたるは及ばざるがごとし
・禍福はあざなえる縄のごとし
・奢る平家は久しからず
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『であって文明の進歩=考えるまでもなく良いことだ』
ではないことはこの数十年の日本が証明してきた。

良いはずの文明の進歩が何故こんな結果をまねいたのだろうか、真剣に考えてみたことがありますか?霊長類である多くの人間が良かれと思ってやってきたことが、逆の結果になるなんて「しんじられなーい」のだが、
人間の思いと逆の結果になる「文明の進歩」について何も考えず・是正策もとらず、否むしろもっと文明の進歩をして何とかしようとしているのだ。更に更にしんじられなーい。

 ・文明の進歩のあるべき規準を設定しないで無闇に文明を進歩させてもいいのだろうか?(文明進歩規制法ってとこかな?)
 ・文明の進歩は、地球や人類を取り返しのできない事態に陥らせてしまわないのか?
 ・文明の進歩に限度を決めないといけないのではないか?
 ・「何をやっても文明の進歩だからいい」という考えは、はたして正しいのか?
 ・生れながらに高度な文明を与えられた人は、それで当り前になってしまわないか?
  (当り前なんかではないのに、お金持ちの家に生まれた子供が「自分は金持ちで偉いんだ」と勝手に思い込むのと似ている)
 ・文明が肥大化し、維持できなくはならないのか?
 ・文明の進歩によって、人間の精神は正常に維持できるのか?
 ・文明の進歩によって、人間の肉体は正常に維持できるのか?
 ・文明の進歩によって、地球や自然は正常に維持できるのか?

そういう根本的な問題はそっちのけで、未だにその失敗を反省すらしないで、文明の進歩を礼賛している。何の疑問も不安も抱かない。
だが待てよ、「そんなんでいいのだろうか?」確かに昔人口も少なく、人々の生活水準が極めて低い時代であれば、さほど問題にはならなかっただろう。しかし物事は行き過ぎる限界というのがある。超えてはならない限度というものがあるのだ。
法律ではそういう限界や限度を設定して制定・公布・取り締まっているのだ。
・自動車は60km以上の速度を出してはいけません
・騒音は50db以上ではいけません
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし肝心な文明の進歩というものには規制値がないのだ。そういうことに人間はまだ気づいていない。個々の事案について問題にはするが、根本のことについての規制・抑制・阻止・禁止ができていない。
法律において大事なことは個々の法律ではなく、その元になる憲法なんです。ところが憲法というものの重要性についての認識が欠落している。平和とか最低の暮らしとか教育を受ける権利なんてことの決まりはあるが、「文明の進歩や経済発展を抑制しろ」なんて憲法がないのだ。それでいいのだろうか?
「憲法は守る・改正する」なんて議論でなはく憲法が時代にあったものかを常時検証して行くことが大切なんです。
私は憲法の更に前に理念というものを制定すべきだとも思う。誰も否定も反対もできない「国民の継続的な平和や暮らしの維持の根本」となる根本理念が大切なんです。
その憲法に、そろそろ文明の進歩の抑制ということが一つあってしかるべきではないかと思うのです。
しかし多分100%そういうことは不可能であり、日本も、悪しき欧米化に飲み込まれ、崩壊していく運命なんでしょうね。もう「どうにも止まらない」のであります。
http://www.meico.org/p14.html
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