村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

366.現代人はヤドカリ

2014-05-24 09:15:58 | 暮らし
村上和隆 
   京都事務所:京都市伏見区深草出羽屋敷町23ファミール伏見B905
   滋賀支所:滋賀県高島市安曇川町長尾字上塚野1189-10
村上和隆総合支援&村上原基人生勉強会
関西ISOシニアコンサルタントネットワーク
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
いつでも気軽に人生相談や人生談義にお越し下さい滋賀人生勉強会
村上原基今日の一言    ⇒    村上爺さんのツイッター

人からは嘘・誤魔化しと愚かさを学べ ・自然からは真理、神の意思を学べ ・歴史文化からは知恵を学べ

自然に戻れない、触れない人間は、幸福を求め続けるが、永遠に悩み苦しむ人生を歩みつづける


多くの人を山にお誘いするが、実際にわざわざ手間暇かけて来る人そのものが少ないのだが
都会から友人・知人がやってきて山菜採りやバーべキューで山の一日を楽しんだ後
友人達「今日は楽しかったです、それでは、そろそろ帰ります、ありがとうございました」
そんな時、いつも私は思う「あんたがた、一体どこに帰るって言うのかい?
多分私がそう思うのは東京~大阪~京都の都会暮らしの後16年も山で暮したからであろう
「あんたらは今朝この山に帰ってきたばかりじゃなかったのかい?」私はそう思うのだ
「いえいえ、俺たちは今朝この山にやって来たんだ」「暗くなってきたから、帰るだけですよ」
「いやいや、それは大間違いだよ、帰るんじゃなくて、都会に出て行ってたんだから」

昔は自動車も家電もなかった、現代はあるのが当然のようだが、
本来は自分の足と手でやるんだ自動車も家電も携帯もネットも皆、本来はない仮のものなんだ
政治や役所や医者やコンビニ、あらゆることを支えてくれるが、それも当然のことではない
”山から都会へ”同様に自給自足・自立・人の手足から便利な道具やサービス依存に、移り住んでしまった
現代人は全てにおいて、引き返すことのできない虚構の状況に自分を追い込んでいるのである
一度入ると抜けられない仕掛けに喜んで入ってしまうウナギやアナゴのように

「あんたらは、わざわざ都会に帰る必要なんかない、元々ここ山の中に住んでいたんだよ、忘れたのかい?」
「せめて今日ぐらい、一日くらいは、久しぶりに、ここでゆっくり泊まっていけばいいのに」
帰る必要もないのに「帰る帰る」と騒ぎ立てる、喚きたてる人々
本人は、何か急いで帰らないといけない重要な事情があると心底思い込んでいる
この山に大層立派な別荘をお持ちの人々も同様に日帰りの人が多い、永住組は私を含めて僅かだ
一万~二万坪くらいの山が数人で贅沢に占有されているに過ぎない
お店も明りもない暗い寂しい夜の山なんかに一日いることなんか到底受容できそうもないと強く思っている
「今日は山で一日ゆったり過ごせて、ものすごく幸せだった」と思っているのは確かだが、それだけ
なぜか、そわそわして早く都会に帰りたいらしいのだ、私としてはせつなさ・滑稽さを禁じえない
都会から来た幼児以外の人の全ては「良かった」という半面、夜が近づくと、なぜか落ち着かない
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうやら日本人は遊ぶときも、ゆったりするときも基本的に働いているようだ
一日中休まず働き続ける農民だった証かもしれない、頭も手足も決して休んでない
酒飲むときなんかも何かせわしない、そして強い固定観念や依存体質にも発展するのだろうか


現代人は、あらゆる面で本来自分が帰るべき場所を完全に忘れている、失っている
高度成長期故郷を出て東京や大阪に大量に若者が流出したのが、そもそもの始まりだった
彼等の帰る場所は今住んでいる所や家しかなく、とりあえず身近なものに逃げ込むヤドカリだ
現代人は皆ヤドカリなんだ,ヤドカリに成り下がった ⇒ 改めて、脱依存・自立だ
ヤドカリという蟹がいるが、現代人は全員ヤドカリ人であり、借り物、依存、自己を失っている
ヤドカリ人は勉強した、成長したなどと言うが、借り物、依存の上、何の意味も価値もない
やがては、むなしく崩壊するものなのだから
一度、まずは本来の家に戻って勉強なり成長しないと、人間として時間の無駄使いに過ぎない

算盤で「ご破算に願いましては」というのがあるが、現代はご破算に願うことが大事だ、急務なのだ
今年、山での4~11月はインターネットを止めた,止めてみると案外やめられるものだ
これ以外にも最近、着実に断捨離:「ご破算に願いましては」を実施しているが効果は絶大だ
ごみ屋敷の大量のごみを思い切って一掃したあと、大きな荷物を下ろした清々しい気分に似ている
昭和の戦後20年以降までは、田舎・自然・山に暮らす人は圧倒的に多かったが、
経済成長という素晴らしい状況が皮肉にも人間を本来の家から追い出し、ヤドカリ人間に駆り立ててきた
急速に物凄い勢いで都会に移り住むことになってしまい、今も田舎・山からの脱出の勢いは止まらない
多くの人が一騎に同じ行動をすることは危険信号だ、ついに限界集落なんてものが生まれた
限界集落というより、大半の人間が逃げ出した巨大廃墟なのだ、見捨てられた地である
そういうことに、するどく警告を発する人は少ないために、限界集落が改善されることはない
しかし、そんな惨めな山奥の限界集落にひっそり暮す人がいるのがせめてもの望みかもしれない
現代には、このような見捨てられた状況があまりにも多過ぎる、それらの間違いに一向に気づかない
大量のネズミが大挙して町からどこともなく同じ方向に集団で暴走・逃避行するのと似ている

全員平常心を失い、精神病院患者様状態・総ヒステリー行動状態になってしまうと怖い
”集団的な大勘違い”の怖さが最近私にもわかってきた
しかも完璧な間違いなので、かえって気付かない、完璧に騙されかねない
かつて歴史に国民が全員が、明らかない間違いに突き進んだ事例が沢山あった
精神病院の患者さんに言うように「あのな、あんたの家はここなんだよ」みたいなことなのだ
自分自身がわからなくなっている、自分の状況も全くわからなくなってっているのだ
自分はこうだ、自分の状況はこうだと、大きな力によって思い込まされているに過ぎない
是非、今の状況を根本から疑ってみて欲しい、そして勇気を出して本来の場所に戻って欲しい
そうしないと、ヒステリーな大集団は断崖絶壁の崖淵をめがけて突進をやめようとしない

「村上さん、そうだ山こそが本来の我が家だ、都会に帰る必要は全くないなー」と言って欲しいものだ
自分の本来の家を見失った人の心は不安で満ちている、絶対に安心や自信を確立することはできない
人は、又は生き物は、自分が根をはる場所に根を降ろすべきなんだ
山暮らしをしてきた私にとっては、コンクリートとやアスファルトの上に根を降ろすべき生き物とは思えない
冷静に考え直すと「人間は都会に住むべきだ」なんて誰が真面目に信じられますか?
都会=狭い、煩い、汚い、臭い、窮屈、怖い、孤立、冷たい、無機質、争い、依存
ところが現実は住むのは都会なんですねー、なぜー???

人間とは生まれ育った環境で、年齢とともに多くの固定観念に縛られて生きている
固定観念には1.自分が納得してしまっているもの2.逆に納得せず逃れたいもの
の二つがある前者1.の場合はかなり強く、しっかり、縛りつけられている
都会に住むというのはその典型なのだ、ほとんど疑問を持ってない
”疑問をもたずに頭ごなしに受け入れてしまっている”っていうことは恐ろしいことですよ,悲しいことです
コメント
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