And Li Po also died drunk

勝手に好きな音楽、映画、本を書き連ねる。

Stevens ist der Dichter.

2014-08-30 12:46:23 | 日記
エリオットをアメリカ詩人にいれるなら、エリオットも含めてもアメリカ現代詩の訳はそう多くない。
シェーンベルクを現代音楽とする分け方と同じに考え、20世紀初めに出てきた詩人を現代と考えても。
エズラ・パウンドの詩集など訳しても誰が買うんだろうと思う。ウィリアムズとカミングスは思潮社の海外詩文庫で出たし、
ウィリアムズなど「パターソン」の全訳も出ていた。その後の世代、オルソン、ブライ、アッシュベリも訳が出て
前にも書いたが、「パターソン」よりももっと長いオルソンの「マクシマスポエムズ」が全訳されている。
ジェイムス・ジョイスの「フィネガンズウェイク」の全訳とまでいくと訳することに意味あるのと思うが。
ギンズバーグは時代が過ぎると風化してしまって、今でも読まれているのだろうか。
古本で見つけたハート・クレインの「橋」の訳。プラス、レヴァトフの女流詩人はこれからも新しい訳が出てもおかしくない。
でここからが本論。自分の好きなウォレス・スティーブンスの訳をほとんど見たことがない。
新潮社から出ていた世界詩人全集の中の現代詩集「アメリカ、イギリス」編で読んだのが初めて。
古い本も結構探したが、「スティーブンス詩集」と名のついた1冊の詩集は見たことがない。
「アイスクリームの皇帝」「壺の逸話」のような思想のない軽い詩。「日曜日の朝」のような落ち着いた観念。
英語で読んだほうが絶対面白いとは思うのだが、わからない英語をとばすより意味のわからない日本語をとばして読むほうが
詩としての読み方は正しいのではと思う。ジョン・アッシュベリなど典型なのだが、日本語で読んでもさっぱりわからない。
それを英語で読んだってわからないじゃないか。でもやはりこの落ち着いた観念を感じるには原書で読まないとだめか。

ストラヴィンスキーも死んだ

2014-08-30 00:18:18 | 日記
クラシックを聴き始めて、ストラヴィンスキーを現代音楽として聴いた。
その頃ももはやストラヴィンスキーは現代音楽ではなく、「春の祭典」など人気曲だったのだが、
クラシックといえばイムジチの四季みたいなイメージがあったので、
「春の祭典」を聴くと何か現代音楽に立ち向かっているような気分でのめり込めた。
そして多くの人がやるように「春の祭典」を何種類も集めて、これはいいこれはだめだと友人と批評していた。
全種類集めてやろうと思い、無名な指揮者のも買った。作曲家自身の戦前の演奏も買った。
CDになって自作自演のボックスも買ったが、いいのは3大バレエだけだったのだと知ると急に興味がなくなり、ほとんど聴かなくなってしまった。
時は流れ「春の祭典」が2種類入ったCDとか出て珍しいと思ったら、なんと「春の祭典」ばかりのボックスがでて驚いた。
70年代まではレコードで集めたものがほとんどだったので懐かしく聴いたのだけれど・・・つまらない。
唯一面白かったのが初演を再現したDVD。音楽で大騒ぎになったのではなく、バレエの演出が問題だったというのがわかった。
最近ので興味引いたのはオーマンディの「ペトルーシュカ」。演奏会用エンディングというので中途半端に終わる。
昔のブーレーズの「火の鳥」組曲版、フィナーレがないというのと同じく腹の立つもどかしさ。
昔買うだけ買ってほとんど聴かなかった自作自演のボックス何枚か聴いたが、新古典の時代も無調の時代も聴くだけ時間の無駄。
オーネット・コールマンと一緒で、出現したということだけで役割終わりではないだろうか。
さようならストラヴィンスキー。