HOBNOBlog

ロンドンから徒然に

ブルーマングループ ~ オフ・ブロードウェイ・ミュージカル

2007-09-10 | 映画・演劇
 90年代半ばだったかな?何回目かのニューヨークへの旅でしたが、その当時のブロードウェイは『オペラ座の怪人』を始めとするロンドン産のミュージカルに席巻されて、すっかりアメリカらしさを失っていました。
 僕もそのあたりのミュージカルは全部ロンドンでオリジナルを観ていたので、何か他に面白いものをやってないの?と現地のアメリカ人に尋ねました。すると、“オフ・ブロードウェイ”に行ってみたら、と言って薦められたのが、BLUEMAN GROUP "TUBES" でした。

 グリニッジ・ヴィレッジにある小ぶりな劇場アスター・プレイス・シアターで行われたこの演劇は、ミュージカルと呼ぶには少し前衛的な、観客参加型のものでした。
 客席に近い順番に数列の観客はポンチョを渡されます。実はこれを着ていないと大変な目に!ステージの3人組がカラフルなペンキの入ったドラム缶を叩く度にそれが客席まで飛び散るのです。
 また、エンディングでは入る時に渡された紙テープ(頭に巻く)が蛍光色に光る中、客席をトイレット・ペーパーが飛び交い、皆必死で他の観客に渡して行きます。
 このブルーマングループの東京公演が12月から始まるということで、渋谷の駅の壁などには、青く塗りたくった顔の3人組の巨大なポスターが貼られています。

 こうして、いまやメジャー感漂うブルーマングループですが、そもそもオフ・ブロードウェイは1960年代に、当時タブーだった人種問題やゲイ、ドラッグなどを取り上げた問題作や実験的な作品を公演しようという動きから始まったものでした。『コーラス・ライン』なんてブロードウェイを代表する作品のように思われがちですが(僕が最初にブロードウェイで観たのがこの作品でした)、実はオフ・ブロードウェイから始まったのです。
 オフ・ブロードウェイ作品は、ブロードウェイ作品のように何億円もの制作費をかけないまでも、やはり何千万円はかかります。この資金を回収するにはどうしても、極端に前衛的だったり、実験的だったりということができなくなるようです。
 いまやブロードウェイ、オフ・ブロードウェイと呼称を分けることをやめて、両者をまとめてコマーシャル(営利的)・シアターと呼ぼうとする動きもあります(New York Timesの主張)

 いつの時代も、芸術の本質を追求することと、ビジネスとのバランスというのは大問題なんですね。今、オフ・オフ・ブロードウェイはどんな状況なんでしょう?

東京でも始まるミシュランの評価

2007-09-09 | 日常
 フランス料理というと何を思い浮かべますか?それぞれに好みはあるでしょうが“カエルの腿肉 パセリのソース添え”なんかはきっと誰かが挙げるアイテムでしょう。これを考案したのがベルナール・ロワゾーです。
 バターをたっぷりと使う伝統的なフランス料理の手法に対して、焼き汁を水でデグラセしてソースを作る“水の料理”を確立したシェフです。
 そのベルナール・ロワゾーが猟銃自殺というショッキングなかたちでこの世を去ったのが2003年のことでした。彼のレストラン“ラ・コート・ドール”に対するゴーミヨやミシュランの評価が落ちると通告されたのが原因だと言われています。

 フランスにおけるミシュランの評価はそこまで影響があるものなのか、確かラセールの星が減る時も自殺したシェフがいたと記憶していますし、他にも行方不明になったシェフがいたり、逆にそれならば掲載を拒否すると開き直るレストランが出てきたりといったこともありました。

 さて、ミシュランの東京版がこの11月に発刊されます。既に去年の夏から調査に入っているようで、外国人と日本人の組み合わせで訪れては、素材だとか調理法だとかをしつこく訊いていく客がいるという噂は聞いていました。
 かつて、元調査員による暴露本『裏ミシュラン』がヒットしたように、数少ない調査員で本当に莫大な数のレストランを調査できるのかとか、そもそも本当にちゃんと調査しているのかとか、本当にコネも圧力もないのかとか、色々と問題も漏れ聞きますが、まぁ話題になることは間違いないでしょう。僕も自分なりの評価と比べてみようと思います。

 かつてミシュラン三ツ星の大スター・シェフでありながら、宣言通り50歳で引退したロビュションは、この評価の重圧から離れたところで伸び伸びとやりたい料理をプロデュースしてみたいという意向で、東京に何軒かレストランを持ってますが、さてこの地でもミシュランの評価が始まるとなると、本人はともかくスタッフなんかは戦々恐々でしょうね。

 あぁ、書いているうちに生唾が.....(笑)

ブルース!~ ブラック・スネーク・モーン

2007-09-08 | 映画・演劇
 デルタ・ブルースと呼ばれるジャンルがあります。ミシシッピ州の綿花栽培地帯であるデルタ地方で生まれたブルースで、アコースティック・ギターをリズミカルに弾き、スライド奏法を多用、感情を激しく表現するブルースです。
 サン・ハウスはその中でも伝説と呼ばれるブルース・マン。酒場で演奏中に客から暴行を受け、その客を逆に射殺してしまい服役したり、行方知れずになっていたのに、60年代のブルース・ブームでその価値を見直されて新たにレコーディングしたり(この時の録音は今でも聴くことができます)で、その伝説をさらに彩っています。

 そのサン・ハウスの古い白黒のライヴ映像が映し出され、「ブルースは男女のもつれから生まれる」と語ります。そうして始まった『ブラック・スネーク・モーン』。全編にブルースが流れ、感情の波を揺さぶります。
 いつも映画を観に行く時は、ストーリーはもとより、あまり前知識を入れずに先入観なく観ようと努めています。で、今日映画館にかかったポスターを見てみたら、跪く半裸のクリスティーナ・リッチの腰に重たい鎖を巻きつけて、その端を手に持つサミュエル・L・ジャクソンの姿。あれっ、これってちょっとやばそうな映画なのかな、と心配半分・期待半分(笑)で観ました。

 サン・ハウスが言うように「ブルースは男女のもつれ」なら、この主人公ふたりの物語は十分にブルースでしょう。妻を自分の実の弟に寝取られた元ブルース・マン。幼い頃の性的虐待がトラウマとなってセックス依存症になり、愛する男がいるにも拘わらず町中の男に身体を許してしまう女。前半はとにかく感情的な“痛さ”が突き刺ささります。そのバックに流れるブルースも痛い!
 
 ここまで読むと、暗い映画、あるいは変に性的な映画と思われるかもしれませんが、全体的にはヒューマンな暖かさに包まれた映画です。むしろ僕なんか偏屈なので(笑)そこが物足りないと思うくらいですが。

 それと、観終わると、あまり馴染みのない人もブルースを聴いてみようかと思うかもしれませんね。
 ちなみに、映画の制作者がサミュエル・L・ジャクソンに歌とギターはできるかと質問した時に、彼はこう答えたそうです。「ブルースというものは、心を込めさえすれば誰でも歌えるもんさ」

激女 !? エイミー・ワインハウスやっと日本盤発売

2007-09-06 | 音楽
 二日続けてセカンド・アルバムのことを書いたので、ついでにもう一枚。エイミー・ワインハウスの『バック・トゥ・ブラック』です。といっても、日本ではこれがファースト・アルバムということになります。実はこれこそがファンの間の謎で、日本ではどうしてエイミーのアルバムが発売されないのだろう、と色々な憶測を呼んでいました。

 ちなみに一昨日と昨日書いたラウル・ミドンとKTタンストールのアルバムはいずれも世界に先駆けて“日本先行発売”です。
 エイミーのデビュー作『Frank』は2003年に発売され100万枚以上のヒットになり、Brit Awardsにもノミネートされたのに日本で発売の動きはなし。昨年の秋に出たこの『Back to black』は全英1位になり、再びノミネートされたBrit Awardsでは最優秀女性シンガーに選ばれました。それなのにまだ日本盤の動きなし。そしてやっと1年近くなった今になって日本デビューということになりました。

 日本の業界の場合、洋楽のアーティストを売り出す時にはよくTVやラジオでのプロモーションのためかあるいは小さなクラブでのライヴを兼ねて来日させ、そのタイミングに合わせてアルバムを出します。エイミーの場合も当然そう考えたでしょうが、何しろ一筋縄では行かないと評判の彼女のこと、スケジュールを立ててもドタキャンになるのを恐れたのかもしれません。
 イギリスではゴシップ合戦になったように、彼女をめぐるこの手の噂は枚挙に遑がありません。何しろ10代で酒と男に溺れ、15歳で放校処分を受け、アルコール依存症、薬物中毒、身体にはピアスとタトゥーだらけ、直前になってライヴはキャンセル.............見かねたマネージャーがリハビリ施設に行かせようとするとこれを徹底的に拒否した挙句、逆にマネージャーを首にしたという話です。さらにこの経緯を歌にしたのがアルバムからのシングルテイク『リハブ』です。

 そんなこんなで日本盤の帯に書かれたキャッチコピーが“激女(ゲキオンナ)” でも、こんなタイプの人は裏返すと繊細で傷つき易い人が多いんですよね。ダイナミックな曲の裏にものすごく強い感性を感じます。
 アルバムはとてもいいですよ。ますます60年代風なノリに磨きがかかって、1曲1曲が全てキャッチーです。歌唱力はもう文句なし。これっておそらく機材もアナログのものを使って録音したのかな、と思えるような太くて荒っぽい音です。

 是非日本でライヴ見たいけれど、チケット買ってても最後の最後まで来るかどうか心配しなくちゃならないんだろうな(笑)

KT タンストール 再び

2007-09-05 | 音楽
 本人にとって良いことなのか悪いことなのかは分かりませんが、この情報社会ではデビューしてすぐに世界中の人気者になり、たちまち大きな会場でしかライヴを聴くことができなくなるアーティストは少なくありません。
 これはと思うアーティストを見つけたら、できるだけ早い時期にクラブ・レベルの狭い会場で聴きたいものです。目の前で熱唱するアーティストとの一体感はやはり狭いところの方が醸し出し易いと思います。かつてビョークやアラニス・モリセットを海外のクラブで初めて聴いた時は鳥肌ものでした。

 大ヒットした映画『プラダを着た悪魔』のオープニング曲に『サドゥンリー・アイ・シー』が使われた勢いで、ファーストアルバムが世界中で350万枚のセールスを記録したKTタンストールの昨年の初来日公演は、渋谷のCLUB QUATTROでした。200~300人だけの幸運な観客の中に僕もいて、ノリにノッたステージを楽しむことができました。
 ちなみに、彼女もギターをパーカッションのように叩いてループを作ります。言っときますが、僕は彼女の公演を観る前からHOBNOBのステージでやってましたからね(笑)

 さて、そのKTのセカンド・アルバムが世界に先駆けて日本で発売されました。Gibsonのファイアー・バードを抱えた姿のジャケットを見て、あれっロックに転向したのかなと心配と期待が入り混じりました。確かに前作よりはリズムのノリがいい曲が増えたような気はしますが、やはりフォーキーな感じは残って、アコースティック感は健在です。
 初回限定盤はCD本体以外は全てがリサイクル可のエコ・パック仕様になっています。成功者の責任をしっかり果たして環境に気をつかっているんですね。

 おそらく近いうちにまた日本公演があると期待していますが、これだけ人気者になったらもう小さなクラブでの演奏は無理ですかね。

ラウル・ミドン再び

2007-09-04 | 音楽
 アリフ・マーディンという有名なプロデューサーがいました。アトランティック・レーベルを中心に数々の有名なアーティストをプロデュースして来ました。ダイアナ・ロス、アレサ・フランクリン、ロバータ・フラック、チャカ・カーン、あるいはビージーズ、ホール・アンド・オーツ、フィル・コリンズ、etc.......ちょっと挙げただけでも錚々たるメンバーばかりです。
 残念なことに昨年の夏、膵臓癌で亡くなりました。74歳でした。

 晩年に手がけたアーティストとして最も成功したのはノラ・ジョーンズでしょう。では、本当に最後の最後に世に送り出したアーティストは?
 実はこれが息子のジョー・マーディンと共同プロデュースしたラウル・ミドンなのです。驚異的なテクニックの盲目のギタリストでシンガー&ソング・ライター。ハイ・トーンのファルセットとバリトンを自由自在に使い分けるヴォーカリストでもあり、おまけに自分の口をまるでトランペットのように鳴らすことまでやってのけます。

 昔、同じく盲目のギタリストでシンガー&ソング・ライター長谷川きよしさんの演奏を聴いた時に、そのテクニックとリズムの凄さに驚愕しましたが、その後に改めてすごいなぁと思ったのが、そのギター・テクニック以上の歌の表現力でした。あんな驚異的なギターを弾きながら、歌の隅々まで気持ちが行っているのに感動しました。
 
 ラウルもそう。昨年1月に渋谷AXで見たライヴは最高でした。たったひとりの2時間近くのステージに客席は皆ずっと興奮状態でした。
 打楽器のようにギターを叩き、ハーモニクスを効果的に使い、早弾きでメロを取り、時にはループを使い、ソウルフルながらも、ポップだったり、ラテンの要素があったり、そこに例のバリトン、ハイトーン、マウストランペットと縦横無尽なヴォーカルが乗ります。

 そのラウルのセカンド・アルバムが出ました。今1回流してみましたが、第一印象はちょっと前より落ち着いた感じかな?変にテクニックの強調がない分、より曲としての重みみたいなものがあるような。
 重みと言えば、今回はけっこう歌詞が意味深な気がします。(ボーナス・トラックを除けば)最後の曲“peace on earth”なんて『希望も未来もない』と言い切った歌詞から始まって、終わりには『全ての人が武器を持てば平和が来る』なんて歌っています。反語的表現だとは思いますが、過激な!
 さて、もう1回聴いてみることにします。

ノッティング・ヒルの思い出

2007-09-03 | 旅・イベント
 今日から学校生活が再開した子供達も多いでしょう。お母さん達は逆に楽になったのかな?暑さが戻ったとはいえ、さすがに風は優しく、夏の終わりを感じます。
 ところで、ロンドンではノッティング・ヒルの駅のすぐ近くに住んでいました。8月の最終の週末にはカーニヴァルが2日続きで盛大に行われ、翌日のゴミが風に吹かれるのを見て、あぁ夏も終わりだなと思ったものです。

 このカーニヴァル、一帯に住むアフロ・カリビアン系の人達を中心に行われるのですが、ロンドン中から同系の人達が集まって来て、ノッティング・ヒル一帯を埋め尽くします。
 スティール・ドラムの生演奏があったり、巨大なサウンドシステムを積んだトラックが停められて、さながら野外クラブ状態だったり、派手な衣装に身を包んだ一群が次々とサンバを踊りながら行進したり、リオのカーニヴァルを彷彿させる、わくわくするエネルギーに溢れたお祭りです。

 ノッティング・ヒルは他にもスペイン系やポルトガル系の人達など様々な人種が住む、コスモポリタンなロンドンの町を凝縮したような地域です。普通のうちに見えるようなところが、実は奥でお国の家庭料理を供してくれたりします。
 この雰囲気に惹かれた貧乏芸術家が住み着くかと思うと、かたやで大会社の社長や、超有名な芸能人が住んでいたりする高給住宅地も存在します。洒落たレストランやホテルもあり、本当に刺激的な街でした。

 行ったことのない人も映画『ノッティング・ヒルの恋人』でその様子を観たことがあるかもしれません。主人公ウィリアムが経営する旅行専門書店も(映画ではセットでしたが)実際に存在しますし、アナと一緒に映画を観るコロネット・シネマには僕もよく行きました。余談ですが、この映画館に初めて入った時、中でタバコを吸っている人がいて、ひどいなぁと思ったものですが、この映画館、実はロンドンで唯一タバコを吸える場所だったのです。今はどうなんでしょうね?さすがにもう禁止かな。

 この映画で多くの人が好きなシーンのひとつに挙げるでしょうね、失恋してノッティングヒルを歩くウィリアムを追ったトレッキング・ショットを。ワンショットの間に雪や花で季節の移ろいを見せ、最初に現れた妊婦が最後にもう一度現れた時には子供を抱いていて、十ヶ月の時が流れたと分からせたあのショットです。どんなに人が悲しみに沈んでいても時は流れるし、その時の経過が人を癒してもくれるんだ、とやさしく観ている人達に語りかけた場面です。
 あぁ、何だか感傷的になって来ました。やっぱり秋が近いのかな。


超能力? ~ 宮部みゆき 『楽園』

2007-09-02 | 文学
 笑われるかもしれませんが、実は僕、子供の頃に“超能力”がありました。ちょっと未来が見えてしまうのです。といっても、それによって世の中が変わってしまうほどの大きな出来事が予測できるわけではありません。いや、もしかしたら感じたことの中にそんなこともあったかもしれませんが、何しろ子供ですから理解できなかったのかもしれません。
 “見える”のはもっぱら自分に関心のある身の周りのことだけで、それによって実際にささやかなアドバンテージも悲しいことも経験してもいます。具体的な例を今書くのはプライベートにも関わるので止めておきますが。

 ここまで読んで冗談と思ったでしょ?でも、違うんです。本当にそうとしか説明しようのないことを何度も経験しているのです。でも、それはあくまで子供の頃にそう思ったことなので、やっぱり超能力なわけがないし、いつか何らかの説明ができるに違いないと思っているうちにおとなになってしまいました。
 だから、宮部みゆきの新刊 『楽園』の上巻を読み終えた時は、..........あ、これから先はまだ読んでいない人は先入観持つとまずいので止めておいて下さい。ストーリーにもちょっと関連するかもしれないし..........男の子の予知能力(結局、どちらかというと人の心が見えるという能力でしたが)がどう説明あるいは種明かしされるのか、すごい期待を持って下巻に入り、一日で読み終えてしまいました。

 ところが、この能力は認めた上で、話は進んでしまうのですね。それはそれとしても、9年前のあの事件の絵も、誰の記憶だったのか(通りすがりの事件関連者でしたっけ?)結局あまり納得の行く説明ではないままに終わり、他の事件にしても、何だか大きく広げた謎の割には結論は途中から予想できる範囲の中で片付いてしまいました。子殺しも、自分の家に死体を埋めた事件も、実際にあった事件ですがそう新しいモチーフとも感じません。
 ということで、『理由』だとか『模倣犯』を読んだ時に感じた、その時の世相にリアルタイムで深く切り込んだような驚きのある凄みはなかったです。もしかしたら、新聞に連載されたものだとのことなので、その時間差が災いしているのかもしれませんが。

 とはいえ宮部みゆき、面白くないわけがありません。語り口もテンポも軽妙なので、ついつい次が気になって一気に読み進んでしまいます。中心になる両家族を描いた章などは圧巻です。もしかしたら、犯罪などのモチーフより何より、この“家族”をテーマとしてしっかり書きたかったのかもしれませんね。
 僕の書いたのも決して悪口ではなく、期待するところが大きすぎるゆえの愚痴ですから(笑)。今後も面白いものを書き続けて下さい。

まねぶ ~ 森村泰昌

2007-09-01 | アート
 バンドをやっている人たちは、大抵まずは自分達の好きなバンドのコピーから入るでしょう。憧れのアーティストにできるだけ近づこうと、寸分違わぬ音とプレーを目指して、日夜練習に励み、やがてほぼオリジナルに近い演奏ができるようになります。
 これをずっと続けると、今度はオリジナルとの“ズレ”が生じて来ます。このズレの部分が、おそらくは自分のオリジナリティで、それを発展させて自分達で詩や曲を作り、個性あるバンドになって行きます。

 “まねぶ”という言葉は“まねる”と同源で、これが“まなぶ”に繋がります。若き画家達が偉大な絵の模写から入り、やがて自分の画風を確立するのも、こうして学んで行く過程なのでしょう。
 ところが、ここにオリジナルとの“ズレ”そのものの追求を芸術の高みにまで押し上げてしまった人がいます。森村泰昌です。横浜美術館で開催されている『森村泰昌 美の教室、静聴せよ』に行って来ました。

 芸術なんて本来観る人が自由に感じればいいんだよ、というのがむしろ彼の本来の思いなんでしょうが、その自分の本音さえパロディーにしてしまったのか、今回の展覧会は“教室”という形式で、彼自身の解説が貸し出されたイヤホンから流れます。
 『ホームルーム』でガイダンスがあった後、1時間目『フェルメール・ルーム』、2時間目『ゴッホ・ルーム』、3時間目『レンブラント・ルーム』、4時間目『モナリザ・ルーム』、5時間目『フリーダ・ルーム』、6時間目『ゴヤ・ルーム』と続きます。
 作品自体はこれまでによく知られているもの中心なのですが、再編して解説が加わるという作業で、新鮮に見えました。
 むしろ、意味をどう汲み取ったらいいのかと悩んだのが“放課後”に設定された『ミシマ・ルーム』です。自衛隊市谷駐屯地での自決直前の三島由紀夫の演説を真似て、日本の芸術の衰退を嘆いています。

 全部の“授業”が終わった後には卒業試験が出ます。さて、どんな問題だったでしょう?僕は無事に卒業できたかな?(笑)