古い資料に目を通す必要があって、随分昔のハードディスクを繋いでみたら、懐かしい写真が色々と出てきて、ついついそちらを眺めてしまいました。
そのひとつがイスタンブールを旅した時のもの。
当時はカメラに凝っていて、白黒のフィルムで撮ったものなんですが、何故か後日何枚かスキャンしてハードディスクに残していたみたいです。
旧式のレンジファインダーのカメラを使っていたので、ズームインもズームアウトも出来ず、被写体に合わせて自分の身体を寄せるか引くかしかなく、当時人物描写に興味のあった僕は、本当は旅人が立ち入ってはいけないかもしれない場所も含めて、地元の人や子供達に近づいてはシャッターを押して、ついでに身振り手振りの“会話”で仲良くなったりもしました。
ホテルの横のモスクからは、夜が明けるかどうかという早朝から拡声器を通した大音量のコラーンの朗読が響き、しかしそれにもすぐに慣れてしまい、平気で寝ているという自分の逞しさも今となっては懐かしい気がします。
人に話すのも恥ずかしいような大失敗ばかりの旅や、後から考えたらよく死なずに戻ってこられたといった危ない経験もし、また逆に人の親切に触れて泣きそうになったこともありますが、そういう旅は何故か写真のようにリアルでなく、脳裏にとても抽象的な画像で残っています。“心象のレンズ”というのはまた別に存在しているみたいです。
そのひとつがイスタンブールを旅した時のもの。
当時はカメラに凝っていて、白黒のフィルムで撮ったものなんですが、何故か後日何枚かスキャンしてハードディスクに残していたみたいです。
旧式のレンジファインダーのカメラを使っていたので、ズームインもズームアウトも出来ず、被写体に合わせて自分の身体を寄せるか引くかしかなく、当時人物描写に興味のあった僕は、本当は旅人が立ち入ってはいけないかもしれない場所も含めて、地元の人や子供達に近づいてはシャッターを押して、ついでに身振り手振りの“会話”で仲良くなったりもしました。
ホテルの横のモスクからは、夜が明けるかどうかという早朝から拡声器を通した大音量のコラーンの朗読が響き、しかしそれにもすぐに慣れてしまい、平気で寝ているという自分の逞しさも今となっては懐かしい気がします。
人に話すのも恥ずかしいような大失敗ばかりの旅や、後から考えたらよく死なずに戻ってこられたといった危ない経験もし、また逆に人の親切に触れて泣きそうになったこともありますが、そういう旅は何故か写真のようにリアルでなく、脳裏にとても抽象的な画像で残っています。“心象のレンズ”というのはまた別に存在しているみたいです。