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ロンドンから徒然に

白雪姫ブーム?

2012-03-24 | 映画・演劇
 何だか慌ただしい一週間でした。土・日や夜中まで仕事していたら曜日感覚がおかしくなって、なんとずっと楽しみにしていたStingのライヴの日を間違えて見逃してしまいました。あぁ残念。良い席だったのに!落ち込むなぁ。

 生活にはやっぱりある種のリズムが必要みたいで、これが(感覚的なことなので分かってもらえるかどうか)忙しいか暇かにかかわらず平坦に感じられるようになると、どこか狂いが生じてミスが出てしまうみたいです。

 僕の場合は、このリズムの刻みのひとこまが映画だったり、音楽だったり、美術だったりするわけですが、特に映画はまるでテストが近づくと小説が読みたくなる学生みたいに観たくなってしまいます。

 まぁ、あまり「観たくなる」映画の部類ではないんでしょうが、今日は地下鉄の移動中に《Mirror Mirror》の広告が目に留まりました。
 白雪姫役のリリー・コリンズと意地悪な継母を演じる(!)ジュリア・ロバーツの特大写真の間に本物の鏡を置いています。目立つ広告です。



 ところで、この『白雪姫』をモチーフにした映画がもう1本制作されています。タイトルは《Snow White and the Huntsman》。先の映画がコメディなのに対して、こちらは映画会社がよく言うところの“アクション・アドベンチャー”で、予告編を見る限りではかなりダークな雰囲気です。
 ここでの白雪姫は《トワイライト》シリーズのヒロイン、クリステン・スチュワート。そして悪の女王を演じるのがなんとシャーリーズ・セロンと来ました。

 ジュリア・ロバーツにしろ、シャーリーズ・セロンにしろ、もう美人のヒロインをやるのは飽きたのか、それとも今後の長い女優人生を考えると、こういう役で幅を広げておいた方が特と考えたのか、いずれにしろふたりとも随分と楽しんでいるようにも見えます。

 そう言えば、最近シャーリーズ・セロン主演の《Young Adult》という映画を観ましたが、これが最高に面白い!もう若くはない自己チューの自称ライターを演じる彼女は、かつて《モンスター》で演じた汚れ役とはまた違った境地を見出していたように思えました。
 綺麗過ぎる女優さんって大抵は面白みを感じないんだけれど、彼女はその意味では例外ですね。

 ところで、何で今『白雪姫』なんだろう?

インドに舞台を変えた悲劇

2012-03-17 | 映画・演劇
 世界中からのあらゆる民族(僕もそのひとり)が暮らしているロンドンですから、いわゆるQueen’s Englishに出会う機会はむしろ少なく、なまりの強い英語を聴く機会の方が多いわけです。
 インターネット関連で問い合わせたりすると、明らかにインド系のアクセントの係が電話口に出ることが特に多い。それだけインド人はそういった分野に秀でているということかもしれません。

 経済的にも成長著しいそのインドで、豊かな生活を皆が享受しているかというとそれは間違いで、やはり昔ながらの非近代的な生活を送っている人達がかたやでいるわけです。
 イギリスだって、遡って19世紀の生活を考えたら、産業革命を経て急激に進んだ機械化や都市化による歪みで、同じような環境にあったんじゃないかと思います。

 トーマス・ハーディが《ダーバヴィル家のテス》を書いたそういった時代を現代のインドに準えようとしたのか、マイケル・ウィンターボトムはその原作をインドに設定し直して映画化しました。名前はもちろんインド風に《トリシュナTrishna》。



 マイケル・ウィンターボトムは僕の大好きな監督のひとりで、一応新作の度に観ていますが、毎回その制作テーマが大きく異なり、タイムリーな政治問題を扱ったかと思うと、SFやサスペンスに取り組み、その一方で幻想的な作品を仕上げたり、またセックスと麻薬を扱って批判されたりと、まったく飽きさせません。

 今回主役に据えたのは《スラムドッグ$ミリオネア》以来活躍の目立つフリーダ・ピントーFrieda Pinto。悲劇の主人公を上手に演じていたと思います。

 インドの環境や女性の価値観など色んな要素をもとに、それらしいもっともな言葉でこの衝撃的なラストシーンを解釈することもできるんでしょうが、僕の感じ取ったのはもっと生理的で官能的な、自分ではどうにもならない人間の性が起こす悲劇。
 どうにも艶めかしく、また悲しい映画でした。

ロンドンと京都

2012-03-15 | 日常
 ロンドンの街を歩いていると、頻繁にこういった光景に出会します。馬専用の信号機があったりするくらいですしね。



 これはひとつの例に過ぎませんが、何だかもう現実とはかけ離れた異空間が厳然として存在している感があります。

 この感覚ってどこかで経験した気がするんですが……あぁ、そうだ京都だな。どちらの街もある意味保守的で、しかしながら革新的で。
 古典芸能や代々受け継がれた風習を重んじる一方で、斬新な音楽や革新的な技術を生み出したりしている点も似ているのかも。

 街の度量といったものがもしあるとすれば、こういった正反対のものを受け入れて熟成させる広さ・大きさを持つ街が豊かで好きですね。

 ただ、最近のロンドンは(そして京都も)さて、どうなんだろう?何だか少しせせこましくなっているような気がしないでもないんだけど。

葉加瀬太郎さんの活動

2012-03-13 | 音楽
 今でこそ多くのミュージシャンがあの大震災へ向けてのチャリティ・コンサートを行って寄付金を集めたり、被災地の方々を元気付けるため現地でのコンサートを行ったりするのが頻繁に行われていますが、1年前の状況を思い出してみて下さい。

 あの直後にコンサートを開くことはミュージシャンにとっては相当勇気が必要だったんです。
 原発事故のための電力不足も絡んで、照明にも音響にも電気が必要なコンサートには非難の目が向けられたし、被災地の方々が苦しんでいる時に音楽を“楽しむ”とはなにごとだ、という雰囲気があったし。
 またミュージシャン個々人の問題としても、音楽で一体何ができるんだろうという無力感にうちひしがれてしまって身動きできない方々が多かったと思います。

 そんな中、葉加瀬太郎さんは、自分にできることはやはり音楽で、その力で少しでも被災地のために役に立とうという強い信念を持って、震災直後から凄い行動力であちこちを飛び回り演奏を続けました。デパート内や教会、また駅構内でのバスキングなど、場所を厭わず積極的に演奏し、各所で寄付金を募ったんです。
 もちろん日本とは状況の違うロンドンだからやれたことでもあるかもしれません。それでもやはりあの精力的な行動は他の方には真似できなかったんじゃないかと思います。
 そしてその一連の活動の締め括りがCadogan Hallでのコンサートでした。



 震災から丁度1年経った3月11日、そのCadogan Hall でのコンサートがまた開かれました。今回の収益金は全て「東北レインボーハウス(あしなが育英会)」に寄付され、震災遺児のために使われるとのことです。



 日曜日ということもあって、夕方やや早く17:30から始まったコンサートは、最初に《Sicilienne》の厳かな響きの後ろで、被災地の映像が流されました。今更ながらその悲惨さに涙が出そうになります。

 葉加瀬さんの交友の広さを物語るように、趣旨に賛同した数々のゲストも参加し、二部構成のコンサートが進んでいきます。クラシック曲ももちろんですが、やはり彼のオリジナル曲が素晴らしい!現地のイギリス人にもやはりこちらの方が受けていたような気がします。

 コンサートは愛娘向日葵(ひまり)ちゃんを交えての《ひまわり》で締め括られましたが、この時バックで流れた映像には被災地での子供達の笑顔がたくさん映し出されて、希望の灯を見たような気がしました。
 


長澤知之くんの歌詞

2012-03-11 | 音楽
 今日(3月10日)の朝日新聞に作家の阿部和重氏が寄稿していた《言葉もまた壊された》という文章が心に染みました。
 3・11によって失われた多くのものの中には言葉や情報への信頼も含まれているという考えをベースに、今日本で人々が抱いている不信感や疑心暗鬼の原因、言葉への信頼を取り戻すための思索、そういった内容を歯切れの良い“信頼できる”文章で綴っています。

 それを読みながら、つい準えてしまったのは、今の日本の(いや世界中そうなのかな)音楽に対する“信頼”ということ。
 皆が知っているように、音楽業界が不況と言われて久しいけれど、これってもしかしてこれまでの音楽に対する不信感が募ってのことじゃないのかな。

 前述の阿部氏の文章は、言葉に対する信頼感を失わせた元凶の具体例として“ステマ”(ステルスマーケティング)を挙げています。
 ステルスマーケティングとは要するに「消費者に宣伝と気付かれないように宣伝行為をすること」。視点を変えれば、消費者をだますことによってしかこれは目的を果たせないということになるわけです。
 したがって、消費者はひとたびこれに気付けば、今度は警戒感を抱かざるをえず、そこに強い不信感が生まれることになるわけです。

 音楽もそうで、アーティストの本心とは違う綺麗事の歌詞が、(実は売れることを第一義的に考えているのに)そうとは気付かせまいと盛り込まれていることが多々あるんじゃないでしょうか。
 でも、この“売れる”という考えが実はくせもので、幅広く通用させようという計算は、実はリスナーの想像力をバカにしているんじゃないかとも思うんです。

 シンガー&ソング・ライターの長澤知之くんのブログにこういう一節がありました。(長澤くん、ごめん、一部だけというのは不本意かもしれないけれど、ここで引用させてもらうね)
 《聴き手になつきまくって、世間のイメージに合わせる物乞いのようなやり方より、相手の想像力をなめず、嫌われたら「あらあら、嫌われちゃいましたねえ」ってノリのほうが俺はずっと好きだ。》
 この一見荒っぽい文章の中に、むしろリスナーに対する尊敬が感じられさえします。

 今度は阿部氏の文章から引用させてもらうと、《真偽や確度が曖昧で、質の低い諸情報と今後もつきあってゆくために、それらを見分ける基準となる信頼の場の再建が急がれる…》

 僕はデビュー以来ずっと長澤くんの作る歌を聴いてきたけれど、それこそ今日本で一番“信頼の場”となる歌詞を書くアーティストじゃないかと思っています。これからもその姿勢を崩さずに続けていってほしいと思います。



自然史博物館内の神戸スーパーマーケット

2012-03-07 | 日常
 VictoriaやWaterlooなど、鉄道の乗換のある地下鉄駅の出口がかなり混雑するのは想像が付くんですが、South Kensington駅の出口が、特に週末に家族連れで混み合うのは、ひとつはこれが理由じゃないかと思っています。

 ここには 自然史博物館Natural History Museumや科学博物館Science Museumという、いかにも子供達が喜びそうな博物館が2館揃っているんです。
 ご存じのように、ロンドンでは美術館や博物館は原則として入場無料です。かくして日本よりは平均して多くの子供達のいる家庭にとっては恰好のレジャー施設となります。

 冬に逆戻りした上に雨に祟られた先週末、Natural History Museumの広い空間で雨宿りしました。
 ここの象徴は何と言っても恐竜の化石。何だかそのイメージが立ってしまって、他の展示物の印象が僕の中では薄れていました。



 そう頻繁に足を運ぶような場所ではないので、本当に久々の来館だったんですが、以前とはかなり内装が変わってRed、Orange、Green、BlueなどのZone分けがなされ、それぞれ違うコンセプトで展示がなされています。



 全体に以前より洗練されたコーナーが多い中、ふと見つけたやけに素朴な一角。よく見ると日本語の文字で《神戸スーパーマーケット》
 えっ、こんなところに売店?しかも《スーパードライ》の広告まで。こんな子供の多い場所でお酒はまずいんじゃないの?



 なんて思っていたら、いきなり地面が揺れ始めました。
 これ、火山や地震のことを扱うゾーンの一部で、神戸の地震を取り扱っていたんですね。もちろんあの時と同じ揺れなんてことになったら大変なわけで、ほんの少し振動するだけなんですが、それでも地震を体験することのないイギリス人にとっては大きな揺れに感じるみたいです。

 資料としての写真やビデオもその場にあり、見ていて思わず当時のことを思い出し、涙ぐみそうになりました。
 語弊があるかもしれないけれど、それでも神戸の場合は、立ち直ろうとする力がシンプルに前向きに働き、復興もスムーズに進んだ気がします。

 かたやで東北の場合、原発事故が絡んでいることもあって、例えば瓦礫の処理や福島からの避難などの問題を取っても、どういう方向に向かうのが正解かを誰も言い切ることができず、そうかと思うと政治の世界は被災地のことはそっちのけで、愚かな政争にばかり走っており、災害からの復興の歩みの鈍さを歯痒く感じます。

 個人的にも、仕事ででも、寄付を含めて色んなことで役に立てるようにと頑張ったつもりだけれど、何だか時々虚無感に襲われて辛いことがあります。
 でも、ここでくじけちゃいけないんだろうな。

 もうすぐ1年になります。

街の卵

2012-03-05 | 旅・イベント
 先日(2月27日)公園に置かれている卵の写真を載せました。で、今度は街中を歩いている時に眼に留まった卵たちの写真を載せておきます。









 で、気付いたんですが、これらが置かれているのは一昨年象が置かれていたポジションと一緒なんですね。

 あ、卵だ象だと言われても、いつもブログを訪れてくれている人じゃないと何のことだと思われるかもしれませんね。時間に余裕があれば《象》だとか《elephant》だとかでブログ内検索をしてもらえれば出てくると思います。

 僕は確かあの時7回くらいこの象たちについて触れたんですよ。そのくらい何だか愛おしく思えてしまって、いつも通勤路にいる象には挨拶したいくらいの気持ちになりました(笑)

 でも今回は卵。さすがに卵に恋する気持ちにはなれず(そんなことになったら、これもいつか触れたことのある“変”愛小説の世界だ)初めての卵を見つけても、象の時ほどのワクワク感は湧いてきません。

 この違いは何なんだろう?
 もちろんかたや動物、かたや……(あれっ、どう例えたらいいんだろうな。卵も生き物には違いないし。)ともかく本来動くものとそうでないものの差があるには違いないんですが、それにしても…

 何だかね、卵って見れば見るほど“完成形”なんですよ。それ自体でひとつの世界が出来上がっているもので、外に向かって広がっていかないというか…
 象のごつごつして、どうにも洗練されない形、それゆえに何故かこちらの感情が受け入れられるような気がする点に比べると、卵は綺麗過ぎて、どこかちょっととりすましているような…
 いや、何もたかが卵をそこまで真剣に語る必要はないんですが(笑)

 それと季節のハンディもありますね。象が展示されたのは確か5月から6月にかけてという、言わばロンドンで最高の季節。
 今年は例年より暖かいとはいえ、今日なんかまた冬に逆戻りしたような寒さ。こんな中で“クール・ビューティ”の卵を展示されてもねぇ。

 春よ来い、早く来い!

弥生

2012-03-01 | 日常
 早いなぁ、ホントに。
 同じようにため息をついている人が多いと思いますが、もう3月。年齢を重ねるごとにこの感覚が増していくのはどうしてなんでしょうね。

 3月は陰暦で弥生。「いやおい」がもともとの読みで、それが「やよい」に変化したと言われていますが、「弥(いや)」「生(おい)」で、“いよいよ芽吹く”なんて意味なんでしょうかね。確かにそれにふさわしい季節です。何だかいくつになってもわくわくするような。



 その意味で、これから社会人になるとか大学に進むとかいう若い人達にとっては、もっとそれを実感する季節でしょう。
 このところ街を歩いていても、卒業旅行と思われる若い日本人観光客の姿をよく見かけます。昔に比べたら、普段は他のアジア圏の観光客に圧倒されている感が強いので、彼らがロンドンを楽しんでくれている姿を見るのは嬉しいです。

 それにしてもいいなぁ。若い人達の笑い声は。公園で花を見るのと同じ感覚かな。
 「年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし(藤原良房)」(実際にはちょっと皮肉な歌なんですが)