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ロンドンから徒然に

史上最悪の(?)独裁者~The Dictator

2012-05-27 | 映画・演劇

 先日書いた《Café de Flore》は全編フランス語の映画だったので、英語の字幕が入るんです。意外だったのは『ダウン症』の訳に『Mongoloid』が使われていたこと。これは今では侮蔑的な言葉と見なされているので通常使われることはなく、『Down’s syndrome』を当てるのが一般的です。

 おそらく舞台が1969年のパリと設定されていることから、その時代の差別的な状況を明確にし、主人公の置かれている立場の困難さを、より際立たせようとして、敢えてこちらの語彙を使ったんじゃないかと思います。

 肉体的なこと、精神的なこと、あるいは性的なことや人種的なこと...世の中の差別的なシーンは未だにたくさんあります。
 それに無神経でいる輩は論外としても、内面でそう思いつつ善人ぶっておくびにも出さない人達はたくさんいると思います。お前はそうじゃないのかと問われて自信ある人はむしろ少ないでしょうしね(もちろん僕もそう)。

 だから、そういった偽善ぶりをすっぱ抜かれるような皮肉たっぷりのギャグを見せられると、思わず『痛い』笑いがこぼれてしまいます。
 サーシャ・バロン・コーエンの新作は、傑作だった《Borat》や《Bruno》のもっと上を行くような強烈なブラック・ユーモア満載で痛快です。

 まずはティーザー広告の段階からやられました。街角に貼られた軍服姿の男の肖像画ポスターには、どこを見てもタイトルも何も書かれておらず、極端な話、一体それが映画の宣伝かどうかさえ窺えないんです。
 でも、何か予感はあったんだなぁ。彼の映画らしき匂いがぷんぷん。



 それがこの《The Dictator》。北アフリカに位置するThe North African Republic of Wadiy(もちろん架空の国。但し、あちこち状況が当てはまる国はありそう)の専制君主という設定。もう、紹介の段階でやることなすことハチャメチャ。その独裁ぶりはまさに史上最悪(笑)。それがある日アメリカに渡り、国連で演説することになるのですが、側近に裏切り者がいて……

 何だかこう聞くと、よくありがちな、最後には善を説くセンチメンタルなシーンを導き出しそうでしょ?でも彼の場合はそこに着地しようとするかと思わせてすぐにひょいと裏切って乾いた笑いに誘います。特に今回は政治風刺ときているので、情け容赦なく(?)徹底しています。「民主主義」を主張する連中が入れ込んでいる理由は自分達が商売で一儲けするため、というのを暴いているのもなかなか皮肉。

 周囲の人間もきっと彼との共演を楽しんでいるんでしょうね。ミーガン・フォックスやエドワード・ノートンまでがなんと俳優としての本人役でカメオ出演して、かなりきわどい役を演じています。それに同じく実名の壁の写真の数々(これは見てのお楽しみ)。こちらは果たして本人の許諾を取っているのかどうか甚だ疑問ですが。

 日本だと彼の映画はおそらく単館でひっそりとしか上映されないんだと思いますが、こちらはではメジャーのシネコンにかかって、なおかつ2スクリーンが使われているところまであります。先週の興行緒成績でもイギリスでナンバー・ワン。凄いっ!

 それにしても、時にはグロテスクでさえあって決して趣味が良いとは思えない彼のギャグがここまで受けるのは、おそらくその背後にある大きな愛情を感じ取っているからでしょうね。それにね、なんだかインテリジェンスまで感じるんですよ。

 だから中途半端な人が真似事してもきっと失敗すると思います。日本で同じようなことが期待できるとしたら北野武くらいかな、と個人的には思っています。そうだ北野監督にも一度こんな感じの映画を撮ってもらいたいな。



時を超えたコラージュ~Cafe de Flore

2012-05-24 | 映画・演劇
 おこがましくも「プランナー」と名乗って仕事をさせてもらっていますが、これがなかなか説明のし辛い職種です。でも、無から何か実態を創り出すというのは楽しい(時には苦しいけれど)作業で気に入ってはいます。
 ただ、何もないところから始まるからといって全て自由にできるわけでは当然なく、そこには予算やスケジュール等のリアルな制約もあれば、うまくは言えないけれど人間的なしがらみまであるわけです。

 長年の経験でそういうことが分かってくると、初めから全て丸く収めた優等生なプランを作ることは出来るようになるわけですが、その結果悪くはないけれどまぁあまり際立って特別でもないものになってしまうこともあります。そして自己嫌悪と欲求不満に襲われるという次第(苦笑)

 これっておそらくミュージシャンでもそうでしょうし、映画監督でもそうでしょうね。スポンサーやプロデューサーとの関わり、「売れる」という至上命令の中での作業、etc. その繰り返しが続くと…

 ジャン=マルク・ヴァレ監督が《The Young Victoria》を撮り終えた後に感じていたのがそういう気持ちだったとすると、新作の《Café de Flore》はおそらく自分がやりたい形の映画を好きなように制作してみた、ということになるのでしょう。



 そういう映画は時として監督の自己満足みたいな匂いを発するもので、それが鼻に付く場合は嫌悪されることもあって、事実この映画に対する酷評もあちこちの新聞や雑誌で見ました(Guardian紙なんて皮肉たっぷりで、評価が星ひとつなんだもの)。でも、結論から言うと僕自身は大好きです。今年になって観た映画の中でも上位に持ってきたいくらい。

 現在(2011年)のモントリオール(仏語圏なんですよね)と1969年のパリでのストーリーが並行して進み、そして最後に……このふたつの物語を結ぶロジックでさえ、多分感覚的にこの映画がイヤな人には納得し難いんでしょうね。でも僕にはすんなりと受け入れられました。

 そしてその結びつきを表象する大切なキーワードとして、映画タイトルと同名曲の『Café de Flore』が使われる他、全編に散りばめられた音楽達はどれもこの映画の独自のテンションを創り出すのに役立っています(特にシガー・ロスのアイスランド語が「It’s you…」と言っているように聞こえる例の曲)。

 こういう風に音楽が大切だから主人公をDJ役にしたのかなぁ(あるいは逆かもしれないけれど)?モントリオールを舞台の主人公には実際にミュージシャンでもあるケヴィン・パランKevin Parentが起用されています。なにひとつ不自由なく幸せな生活を送っているように見える主人公の隠れた苦悩...こちらのストーリーでは上の娘役の少女が感受性の強い繊細な感じをうまく出していたと思います。

 そしてパリを舞台の主人公はヴァネッサ・パラディ。
 かつて10代半ばでデビューしたアイドル・シンガーも今回は7才のダウン症の息子を持つ母親の役。ところがこれが非の打ち所が無い演技!おそらくは今よりももっと辛い環境であったに違いない60年代末に、障害を持つ息子をひとりでちゃんと育てていこうとする強い決意や深い悲しみ、そして子供のガールフレンド(こちらもダウン症の子供)に対する理不尽な嫉妬まで見事に演じ上げていて、改めて良い役者になったと感心しました。

 でも何と言ってもこちらのストーリーでも素晴らしいのが子役。ダウン症の息子を演じる少年に圧倒されます!あれって多分もう「演技」の枠を超えてしまっているんだと思います。(監督はどうやって「演技指導」するんだろう?)

 ここまで書いてみてふと思いましたが、この映画のリズム感のあるコラージュ的手法って、もしかしたらDJのクロスフェードとかけたのかなぁ?
 何だかもう一度観たくなってきました。

絵のモデル

2012-05-15 | アート
 昔フェルメールの話をしても誰も知っている人がいなかったくらいなのに、このところの日本での人気といったらどうでしょう。
 いつ頃から美術ファンだけでなく一般の人にまで知れ渡る“常識”となったのかと考えると、やっぱり2000年に大阪市立美術館で行われた《フェルメールとその時代》展の影響が大きかったんじゃないかと思います。
 何しろ日本で初めて公開された1968年から前年までの30年余りの間に、重複を除くと4点しか来ていなかった彼の作品を、一気に5点も見る機会ができたわけですからマスコミも放っておきません。

 ただ、僕が個人的にはけっこうこれも大きな理由じゃないかなと思っているのは、その5点の中に《真珠の耳飾りの少女》が含まれていたからということ。
 愛される絵というのはそのモデルに負うところも大きいと思いません?あの絵の中の少女に魅せられた人は相当多いと思います。

 さて、その観点からルシアン・フロイドの絵を見ると……
 以前もこのブログで取り上げたことがありますが、かつて存命画家の作品として史上最高値の3,400万ドルを付けたこともあって、誰もが思い浮かべるのはこの絵ではないでしょうか?『Benefits Supervisor Sleeping 眠る給付金管理者』。フェルメールの少女と比べることがいいかどうかはともかく、こちらもある意味皆に愛されている作品には違いありません。



 今National Portrait Galleryで開催中の展覧会《LUCIAN FREUD PORTRAITS》で、この絵を含む彼のポートレート約130点を見ることができます。寂しいのは、既に“存命画家”と言えなくなったことですね。



 通路まで含めると10に分かれたスペースで、1940年の作品から昨年亡くなる直前まで描かれていたと思われる作品まで、70年にも及ぶ彼のキャリアを堪能することができます。
 特に件の作品が展示されているスペースには、他にも彼女を描いた作品の幾つかと、男性としてはおそらくこちらも皆に知られているLeigh Boweryの肖像画があり、それら等身大の大きさの絵がこちらを威圧してくる様子は圧巻です。いや、本当に恐いくらい。

 フロイド自身は何かのインタビューで、自分は空想で絵を描くことは出来ず、目の前に見た実物だけを描く、と言っていますが、その“実物”というのは単に目に見えるものではなく、その内面まで入り込んだその人物の真理、真実みたいなもの。だから見ているこちら側も、逆に自分の内面が見透かされているみたいでちょっとおののいてしまうのかも。
 もしかしたら祖父(ジークムント・フロイト)みたいに精神分析医になっていたら、また違ったタイプとして成功していたかもしれませんね。

 この絵を見た夜、ジムに身体を動かしに行くと、奥の方の鏡の前で無心にポーズを取っている男性の姿が目立ちました。さて、フロイドが生きていたら彼の肉体に感心を示したかな?

“確認”の展覧会?

2012-05-11 | アート
 先日の新聞に“UK and Irish sport rich list”という欄があって、予想通りベッカムが1位でした。何でも資産が160ミリオン・ポンド(約210億円)ということなんですが、世界に目を向ければ上には上がいるもんで、タイガー・ウッズは538ミリオン・ポンド(約700億円)! 凄いですねぇ。

 もうひとつ面白い分野での金持ちリストがありました。
 “生存しているアーティスト”のリッチ・リストなんですが、こちらも予想通りトップに来たのはダミアン・ハースト。215ミリオン・ポンド(約280億円)とのことです。
 アートに“金”の物差しを据えるのもどうかとは思うのですが、ダミアン・ハーストほど、いつも金の話題と共に語られるアーティストもいないのでは。まぁ裏返せば、それほどの人気アーティストということでもあるんですが。

 そんな当代屈指の人気者ですから、長い順番待ちの列も不思議ではありません。今、テートモダンでダミアン・ハーストの展覧会が開かれています。



 90年代に彼の作品を初めて見た時のショックはやはり大きかったです。
 硝子のケースに入ったホルムアルデヒド漬けのサメ(どの角度から見ても恐い!)、同じく親子の牛(しかも身体をまっぷたつに切断されている。その真ん中を通り抜ける形で鑑賞するんです)、カラフルな薬瓶が並べられた棚(そう言えば、昔住んだノッティング・ヒルに彼の作品をフィーチャーしたPharmacyというレストランがあったな)、死んだ牛の頭と蛆と蠅の入った硝子ケース(牛から流れる血とまだ生きている蛆と蠅。聞いただけでおぞましいでしょ?)、etc……

 どの作品からも『生と死』という高尚なテーマが感じ取れますが、当然のようにこれが本当に芸術と呼べるものなのかどうかが議論にもなりました。
 今回の展覧会では、これらの作品群に加えて《スポット・ペインティング》や《スピン・ペインティング》といった彼の代表作品の殆どを見ることができます。

 僕も予告を見た時点から楽しみにしていて、わくわくしながら出かけたのですが、実は意外と充実感がなかったんです。何なんだろうこれは?

 すごく個人的な見解なのですが、最初に見た時のあの感動(もちろん“ショッキング”というのが先に来た感想ですが、それを通り越してすごく“感動”したのも正直な気持ちなんです)は、従来のアートの形式を壊したエネルギーだとか発想の新鮮さに負うところが多かったように思うのですが、そういったものは、やはり何度も見てしまって“確認”の段階に入ると、いまいち“感動”の域に入ってきてくれない感じがするんです。

 旅に例えれば分かりやすいかもしれませんが、どこかに出かけて何度でも“発見”に満ちている時と、単に知識や経験の“確認”に終わってしまう時とがあります。
 僕にとってアートの展覧会もそういった旅みたいなもので、やはり毎回どちらかを感じてしまい、当然“発見”があった時に思わぬ感動を覚えます。

 とはいえ、もちろん今回の展覧会も、(特にあまり彼の作品に馴染みがなければ)驚きの多い面白いものに違いはありません。
 僕も結局売店でまんまと術中にはまって、5種類も違うデザインで作られたポスターを全部買って、ほんのわずかとはいえ、また彼を金持ちにする片棒を担いでしまいました。

4人の笛吹きおじさん

2012-05-09 | 音楽
 海外でライヴをやるっていうのは、プロデュースする側から言わせてもらっても、本当に大変なことだと身に染みているけれど、彼らのスタンスはその音楽同様“のほほん”としていて素敵だな。
 栗コーダーカルテット。名前からして「くせもの」っぽいんですが、4人の(本人達が自ら言っているからこの表現でもいいよね)“笛吹きおじさん達”が奏でるそのユニークな音楽は一度聴いたら忘れられず、ちょっと中毒になってしまいます。

 昨年から始めた海外ツアー。今年もパリで4回、アムステルダムで2回の公演をこなした後ユーロスター経由でロンドンに乗り込んで来ました。
 諸事情あって初日のロンドンでは正式な公演というより、某スペースを借りてのプライベート・パーティ風な様相になりましたが、このライヴの雑用をちょっと手伝ってきました。

 彼らが日数の割に回数をこなせるのは、到着したその日にもう公演をやってしまうから。この日もロンドン到着が午後2時過ぎ。宿泊施設(このあたりも多分費用抑えているんだろうな・笑)にチェックイン後、会場入りしたのが4時半くらいだったかな?そしてリハもそこそこに6時半開場7時開演です。しかもセットリストも会場に入ってから決めるんだもの。

 招待したお客さん以外には無事入国(最近のUKは厳しいんですよ)確認後の告知になったため、そう大勢のオーディエンスを見込めるわけもなく、予定したこぢんまりした部屋をさらに小さな部屋に変更したのだけれど、これが大正解。大きな窓からリージェント・パークが望める上に、PAも使わずに生でやるのに丁度良い大きさ。



 しかもほど良いリバーブ感です。実は昨年僕が震災後の東京でPAも照明も使わない生楽器のライヴをプロデュースしたのですが、この時に会場とした使った教会が(通常教会だと音が響きすぎて困るのに)あまりにデッドな空間で苦しんだので、うらやましいくらいのバランスでした。

 さて、そのライヴ。以前お客さんのリストを見た時に“Universal Pictures”の会社名がありました。これって“Universal Music”の間違いじゃないの?と問いただしたんですが、実はこれでよかったんです。
 先月出した彼らの最新アルバムが《ウクレレ栗コーダー2~Universal 100th Anniversary》というタイトルで、文字通りユニバーサル・ピクチャーズの100周年を祝い、名画のサントラをカバーしているんです。

 『第三の男』、『ムーンライト・セレナーデ』、『ケ・セラ・セラ』、『シャレード』などの名曲も含まれていますが、もちろん彼らの演奏する曲のこと、普通のカバーであるわけがなく、タイトルが示すようにウクレレとリコーダーをフィーチャーした音楽は、どこか和やかでつい微笑んでしまいます。こういった編成で『ジョーズ』のテーマ曲までやるんですよ。想像できます?(笑)

 ライヴはその他にも『ピタゴラスイッチのテーマ』を含む彼らのオリジナル曲やクラシックのカバーを含めて2部に分けて行われましたが、どれもが全て彼らならではのオリジナリティに溢れていて素晴らしかったです。オーディエンスの顔が皆ほころんでいたのは言うまでもありません。
 ずっと冬のような寒さが続いていたロンドンで、ひとときほんのりと暖かかった時間でした。

 追記:翌日もロンドンのライヴハウスで公演した後、その翌日には朝早くからなんとタイに渡り、またも着いた当日にもう演奏したみたいです。その翌日の公演も含めてソールド・アウトの盛況だったらしく、しかもTVの生出演まで。いやいや世界的スターだな(笑)今日あたり日本に戻ったんですかね。

Big and Small

2012-05-01 | 映画・演劇
 最近は演劇の舞台に有名な映画俳優や女優(最近はactressを使わずに男女問わずactorということが多いから、わざわざ分ける必要はないかな?)が出演することが多いですね。著名な分だけ注目度も高いので、賞賛にしても酷評にしても目立ちますが、この人は間違いなく前者でしょう。それも特上級の。もっとも、その経歴を考えると、もともと舞台出身な上に旦那様も劇作家ときているので、その素晴らしさも納得できますが。

 ケイト・ブランシェットが主演する《Big and Small(原題:Gross und Klein)》の最終日公演をBarbicanで観てきました。



 原題が示すようにオリジナルは70年代に制作されたドイツの作品。内容もシュール・リアルなもので、ストーリーを説明するのは僕にはちょっと無理なんですが、インターバルの20分を含めて合計160分、つまり2時間20分の実質的な長さの舞台をずっと出突っ張りの彼女の演技の素晴らしさに圧倒されっぱなしでした。

 それこそ泣き、叫び、ささやき、怒り、ユーモアたっぷりに皆を笑わせたかと思ったら、次には狂ったように踊り出したり、またシリアスに涙を流したり……強弱変幻自在の演技で、あれよあれよという間に終幕まで来ていました。

 それにしても、タイトルのBig and Smallが意味するものは何なんだろう?
 この作品の中で主人公が終始感じている疎外感や孤独感を、《不思議の国のアリス》みたいに、周りの人にとっては“大きすぎたり”“小さすぎたり”して、きちんと認識されない、といった感覚に準えているのかな?

 実は上演の発表があった昨年6月(ほぼ1年前だ!)にすぐにチケットを購入したので、前から4番目の列の真ん中というすごくラッキーな席でした。おかげでケイトは本当に目の前(彼女が上演中に吸う煙草の煙がこちらまで漂って煙たいくらい・笑)。
 
 当然チケットはソールド・アウトで、この日も最上階まで一杯の観客。その殆どがスタンディング・オベーションというのを見ても、この公演が成功だったのが分かると思います。
 いやはやここまで力のある人が演じるんだから、どの映画も凄いはずだ。