松実ブログ

松実の教員が書き込んでいます。面白い先生がたくさんいますよ☆

口1 目2 耳2

2011年02月22日 22時22分22秒 | Weblog

「神様は、私たち人間に口を一つ、目を二つ、耳を二つをくださった。
 教師や親はついそれを忘れて、生徒や子供に話しすぎたり、
 言いすぎたり、口が二つにも三つにもなりがちです。
 二つずつある目と耳で、子供や生徒をよく見て、
 子供や生徒の話をよく聞いてあげる。それを大事にしてください。」

今日の朝礼でK先生がそう話してくださった。

子育てや教育の原点ではないでしょうか。
松実の教師にもそれが強く求められていると日々感じます。

オイラも毎日の学園生活の中では、生徒に対して、
「ああしろ、こうしろ。」とドンドンと言いたくなることがあります。
だらしない、遅刻する、提出物を期限までに出さないなど、
日々の教育活動では、頭にくることが山ほどあります(笑)

おそらく家庭でも同様でしょう。
朝起きない、ふてくされる、携帯ばかりいじっているなど、
親子の毎日の生活では、頭にくることが山ほどあるでしょう。

もちろん、学園でも家庭でも、叱るべき時は叱り、注意するべき時は注意する。
それは絶対に必要です。
だらしないことも、遅刻することも、提出物が遅れることも、
朝起きないことも、ふてくされることも、携帯ばかりいじることも、
毅然とした態度で、教師や親が叱り、注意しなければならない。

しかし、それらの行動の裏にある原因や要因を知ろうとしているでしょうか。
なぜそのような行動を取るのか、そこをしっかり見ているか、聞いているでしょうか。

ついつい、教師や親は自分の口を使って「言う」「叱る」「注意する」ことが先にきて、
後にも先にも「聞いてみる」「見つめる」ということが抜けることがあります。


例えば、車がビュンビュン走る道路を、赤信号なのに渡ろうとしている子供や生徒に対して、
「なぜ赤信号なのに渡るんだい?
 渡ってしまいたくなるような、苦しく悲しい気持ちでもあるのかい?」
そんなことは聞かなくていいのです。問答無用で頭ごなしに叱りつけるべきでしょう。
「危ないだろう、二度と同じような真似はするなよ!」と。

これは生命の危険にかかわることだからです。

しかし、我々教師や親は細かいことまでいちいち、グチグチと言いませんか。
しかも怒りにまかせて、行為の否定だけでなく人格の否定までもしていませんか。


行動の裏には心があります。

トゲトゲしい言葉遣いをする子供や生徒がいるならば、
その子の心はトゲトゲしい状態であるということです。
昔はそんな言葉遣いではなかったのに、
今は「死ね」だの「うぜーんだよ」と口癖のように言うのなら、
最近心を曇らせるような何かが起きているのです。


その「死ね」だの「うぜーんだよ」という言葉を、
頭ごなしに否定することも、とても重要です。
なぜならその言葉を聞いて悲しんだり傷つく人間が発生するからです。

しかし、なぜそんな言葉を口走るのか、なぜその言葉を出さざるを得なかったのか、
そこを考えてやらないと、一時的な言葉遣いの指導に終始してしまうと思うのです。

「なんでそんな言葉遣うんや?」というフォローをしてやらないといけないと思うのです。
「だって腹が立つことばかりなんだもん。・・・・・。」
「何にそんなに腹を立てとるんや?何かあったんかいな?」

そのように聞いていくだけで、子供や生徒は結構話してくれるものです。

しかも、その話を聞いていくと、大人でも厳しいようなことに耐えていたり、
我慢していたりすることが多くあったりするものです。
または、聞いているうちに、
「自分も中学生や高校生の頃は、そんなことに腹を立てていたな~。」と、
懐かしくなったりすることもあります。
「今、この子はこんなことに悩んでいるんだ」って、分かることがあります。

子供や生徒は、自分が悩んでいたり苦しんでいることを「大人に話せた」ということで、
大きな安心感と喜びを得ます。
その子と教師の間には、目には見えない心の中の糸と糸で繋がります。
「何かあったらこの先生に話そう。」「また相談してみよう。」という気持ちを持てた生徒は、
学園での生活も見違えるように安定するし、落ち着くものです。
それが教師が生徒に「寄り添う」ことの一つだと考えています。
最近は、自分も含めて、「忙しい」を理由に、
「見る」「聞く」「寄り添う」を怠ってはいないでしょうか。


今日、卒業式の式場の下見をしてきました。
日が迫っているのに、今までなぜか実感がわいてこなかったのですが、
今日その式場を見たら、やっと実感がわいてきました。

卒業していく生徒たちにどれだけ寄り添えただろう。
どれだけ彼ら彼女らの声に、悩みに、苦しみに耳を傾けただろう。
元気のない様子に「何か心配ごとでもあるのかな」と、どれだけ目をかけられただろう。
どれだけ、耳と目と心を配れたのだろうか。どれだけ寄り添えたのだろうか。


そんなことを感じながら式場の下見は終了しました。


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