今年も後半となりましたが、嬉しい誤算が日本に飛び込んできましたね。ラグビー界の王者南アフリカを日本がすばらしい試合運びで撃破してしまったのです。その後もサモア、アメリカを打ち負かすなど、日本でもちょっとしたラグビーブームが巻き起こりつつあります。
日本ではラグビーはサッカーの試合で、ある青年がボールを手に持って走ったのがその発祥とする話を聞くことあります。しかし、どうやらこれは、FootballをSoccerのことと勘違いしたことから始まっているようです。Soccerという名称を使っているのは、アメリカ、日本とイギリスの一部です。その他の国では単にFootballと呼んでいます。
19世紀のイギリスでは、Footballと呼びながら多種多様な「足でボールを蹴る」文字通りの"Foot Ball"が、ルール無用な村祭りの景気付けとして各地で行われていたようです。それが、学校教育に段々と取り入れられてくると、各校独自のルールによるFootballが実施されるようになりました。ただ、その中でも、最低限の共通ルールはあったようで、それは現在のアメフトに似ていて、「ボールを取ったら、そのまま後ろに下がる。取ったボールをその場で蹴る。ボールを地上に置いて、味方の誰かに蹴ってもらう。」のどれか最低1つは守ることだけで、ボールを手で持ってはいけないというルールはありませんでした。
そんな1823年の秋のある日、ラグビー発祥のきっかけを作ったと呼ばれているウィリアム・ウェッブ・エリス(William Webb Ellis)というイングランドのラグビー校に在籍していた青年が、当時のFootballの試合中にボールを受け取ったまま「後」ではなく「前」に進んで、ゴールに走り込んで(Running-in)しまったのです。なので、「ボールを手に持って走った」のがルール違反なのではなく、「ボールを持って前のゴールに走りこんでしまった」のがルール違反なのでした。
しかし、これが、直ちにラグビーというスポーツに繋がったのではなく、ラグビー校がこのゴールに走り込む(ランニング・イン)を正式に容認したのは1845年のことでした。それは、エリス青年が同校を卒業した20年後でした。では、何故、これがラクビー発祥のきっかけと呼ばれているのかと言うと、これ以外に公式の記録がないと言うのがその真相のようです。
つまり、ラグビー(Rugby football)とサッカー(Soccer: Football)はそれぞれ独自に発達したフットボールなのです。
イギリスの正式名称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国となります(略称はThe UK:United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)。イギリスは、元々それぞれの王や大公を戴いた独立国家であったイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド(現在は北アイルランド地域のみ)の4つの王国で構成されています。
第一回目はその国家成立の歴史から見ていきましょう。と言っても、長く、複雑な歴史なので、かなりザックリとした説明になってしまう事をご容赦ください。まず、イングランドの歴史から始めていきましょう。史実として推定できるのは、グレートブリテン島にケルト人が入植した紀元前5世紀頃からです。それ以降も色々な民族の興亡がありましたが、紀元前55年にローマのユリウス・カエサルが入植を開始し、43年にはクラウディウスによってグレートブリテン島の大部分が占領されました。この頃のケルト人は現在のスコットランド地域に追いやられていましたが、度々南部のローマ支配地域に侵入していました。そこで、中国の万里の長城と同じように、現在のイングランドとスコットランドの境界付近にハドリアヌスが長城を建設したのです。
ローマの支配地域はブリタニアと呼ばれ、これがブリテンという名称の元となりました。またブリタニア支配の拠点としてロンディニウムが建設され、これが現在のロンドンの起源となっています。そして、ローマ人は現地のケルト人をブリトン人と呼びました。ローマ衰退に伴い、ゲルマン人の侵入もあって、ローマ帝国分裂後の西ローマ帝国の皇帝ホノリウスは、410年にブリタニアへの入植継続を断念しました。その後、449年からゲルマン系のアングロ・サクソン人がグレートブリテン島を攻略し始め、土着のケルト人はアングロ・サクソン人に征服されて同化していきました。
グレートブリテン島に定着したアングロ・サクソン人は、イングランドの地域にノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、エセックス、ウェセックス、ケント、サセックスなど7つの王国を建設しました。この7つの王国が並立した829年までの380年間は、七王国時代と呼ばれています。七王国時代に、デンマークからバイキングとも呼ばれたデーン人の侵入が活発になっていきました。1016年に、デンマークのクヌート大王によってアングロ・サクソン系の王がイングランドから追い出され、デーン朝(北海帝国:イングランド・デンマーク・ノルウェーの3国の王を兼ね、スウェーデン南部も支配する国家連合)が成立しました。しかし、1035年にクヌート大王が亡くなると、数年してからイングランドにアングロ・サクソン系王朝が復位し、北海帝国は崩壊しました。
アングロ・サクソン系王朝を復興したエドワード懺悔王は王と言うより修道士であり、名目上の妻であったエディスとの間に子供を残しませんでした。エドワード王が1066年に死亡し、嗣子がいなかったのでエディスの兄のハロルド・ゴドウィンソンがハロルド2世として王位に就きました。しかし、同年、ノルマンディー公ギョームとノルウェー王ハーラル3世が異議を申し立て、ノルウェー軍がイングランドに侵入しました。ハロルド王はこれを撃退しましたが、ノルマンディー軍に敗北してハロルド王は戦死しました。ロンドンを占領したノルマンディー公ギョームはエドワード懺悔王が建設したウェストミンスター寺院においてイングランド王に即位し、ウィリアム1世を名乗りました。これによりアングロ・サクソン人による王朝は途絶え、ノルマン朝が成立しました。ノルマン朝は征服王朝でしたから、国王に権限が集中し、これがイングランドに他に先駆けて絶対王政が確立した原因と考えられています。
しかし、イングランド王ウィリアム1世としてはフランス王と対等であっても、ノルマンディー大公ギヨームとしてはフランス王の臣下という奇妙な立場になってしまいました。そして、これ以降、イングランド王朝はフランス王家の影響を強く受けるようになったのです。
こんなときは英語でなんて言うの
"We should give it a try."「やってみようよ」
"We should try it"でも似た意味になりますが、"We should give it a try."の方が「頑張ってみる」という意味合いが強くなります。
1.できるわけないかな?
A.They're holding a big audition this Sunday.
(今度の日曜日、大きなオーディションが開催されるんだ。 )
B.And? What are you thinking?
(それで?何を考えているんだい?)
A.I think we should give it a try, shouldn't we?
(挑戦してみるべきだと思うんだ、だろ?)
2.当たって砕けろ
A. You need to get in contact with her somehow.
(何とか彼女に連絡つけたほうがいいよ。)
B. I know she won't pick up my phone.
(電話に出てくれないに決まってる。)
A. You should at least give it a try.
(やるだけ、やってみなよ。)