

3月10日 日 ピトケアン諸島、何の変哲もない絶海に浮かぶ小島です。驚くなかれ、太平洋における唯一のイギリスの海外領土です。ピトケアン島をはじめとする5つの島からなり、バウンティ号反乱に参加した水兵の子孫ら約60名が住んでいます。バウンティ号反乱の顛末は、何度も映画化されました。その舞台が、タヒチから2千キロ離れたこの島々だったのです。さて、その反乱ですが、18世紀末近く、ジャマイカへ運ぶ奴隷用食糧のパンノキの苗木を入手するためタヒチ島へ向けて英国を出航した英軍艦バウンティ号、その船長は、乗務員を酷使し、ちょっとした罪でも拷問したり、鞭打ち刑などを処しため、船員たちの反乱が起き、映画チックなドラマが起きました。船内でも、変哲もないどうってことないこの島の沖を通ると言うので大騒ぎでした。ブリッジから、大げさな案内放送が何度もされました。見る角度のよってこのように


日が前後しますが、3月7日”洋上夏祭り”が行われました。私は、写真を少し撮っただけで参加しませんでした。私が思うに、寄港地のない日が長く続き、退屈(特に、厳しい日本での現実的生活がちらつき始める若者のフラストレーション)を発散させる行事と私は、偏屈しました。この日のために、浴衣を持ってきている人がたくさんいるのに私は驚くやら、でした。



3月10日 日 上記と同様のような”ポリネシアンナイト”が深夜まで行われたようです。私は、ほんの少し見ただけで引き上げました。

3月12日 火 ブリーッジを見学できるツアーが何回かありました。いつも申し込みは長蛇の列でした。今回は最終回でしたが、並ばずに申し込めました。海に落とすとドラムが自力で開き、35人乗りのまゆ型救命イカダになります。
位置情報を発信する装置


ブリッジ・操舵室 レーダー






左右に、船腹を見ることが出来る出っ張ったところ


出港の時使うドラ 今では使われなくなったフロッピィ


公式時計


自動操舵なのでここは触ってもいいです。 このツアー中、職員は二人だけでした。


スタビライザースイッチ(揺れが激しい時、これを船腹から出して揺れを軽減させるもの) 図は引用


レーダー アルファベットの手旗信号


3/21、3/22、3/24、3/26、3/28 1時間の時差調整 3月20日、急病人緊急搬送のためサモアのアピアに戻りました。その翌日(3/21)また急病人が出たため、サモアのアピアに再度戻りました。明け方の4時頃でしょうか、私は船の異常音で目が覚めました。私は、船が故障したのかと思い、外を見るとアピア港に入港するためにバックしていたのです。船は、バックする時大きな音になります。救急車らしきものが見え、しばらくして船から病人が搬送されるのが見えました。数日後、緊急搬送で予定の日程が遅れたので硫黄島沖は通らないとの一方的な知らせがありました。その翌日、また新たな緊急搬送人が出ました。今度は一番近いグアムに向かうことになりました。グアムでは接岸しないでヘリコプターで搬送することになりました。航路の大幅な遅れが生じたため、硫黄島沖を通り、横浜では無く神戸に向かうとの今度もまた一方的報告のみがありました。硫黄島については詳しい説明があったのに、その詳しい事情、そう判断した理由や根拠、個人が予約していたホテルや飛行便がキャンセル料などについての説明は、皆無でした。船内では、帰国後の仕事の予定が立たない、故郷へ帰る手段の不安や不満などがあちこちで噴出、あっちでひそひそこっちでひそひその「大動揺」でしたが、この事件の不始末の顛末については、重要かつ長くなるので、項を改めて記します。
硫黄島 3月29日 金


地図を見ると細長くないですが、目で見ると延々と続く感じの長さでした。


映画で有名になった硫黄島擂り鉢山


反対側からの硫黄島 二度ほど鯨のジャンプを見ましたが、カメラではしっぽだけでした。


映画ですっかり有名になった硫黄島です。後の沖縄戦への前提としての軍事攻撃と言われます。おりしも3月26日、日米の組織的戦闘は終結しました。日米合わせて5万人近くの将兵が戦死、負傷し、フィリピンの戦い、沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線の最激戦地と言われます。私には、これらの戦史について詳しく知りませんし、その分析・評価は私の手に負えるものではありませんが、島を眺めている時私は、日米双方の指導者の「無能さ・無責任さ」を痛感しました。とても不謹慎ですが、物量を誇るアメリカに至っては、もっと空と海から徹底して破壊しつくせば、自軍にこんなに多くの犠牲者を出す「陸上戦」を避けることが出来ただろうに、そこにはきっと何か深い思惑・意図があったのだと、強く疑問に思いました。
3月10日 Emily-Rose Reidさんの『マオリ語』、3月18日『マオリの神話と歌』に参加しました。ちなみに、ニュージーランドの人口は約470万人弱、「自分はマオリである」と答えた人は60万人(人口の14%弱)ほど、その中でマオリ語を話せる人は人口の1/5にあたる12万人、3%言われています。ちなみにニュージーランドの公用語は三つ=英語、マオリ語、そして手話です。「わずか3%」のマオリ語を公用語にしたのです。手話人口はおそらくもっと少ないでしょう。でもニュージーランドは、世界で初めて手話を公用語にしました。また、ニュージーランドは世界で初めて女性参政権を認めた国でもあります(1893年[明治26年])。私が、一番尊敬する国です。この学習会でまず基本的挨拶を学びました。この紹介・詳細は省きます。興味深かったのは、自己紹介です。名前・住所は当然ですが、自分の祖先がどこから来たのか、自然環境(山や川など)等のルーツと現在つまり自分の”アイデンティティ”を紹介する、文化でした。タトゥやトーテムポールにも同様の意味があると聞いたことがあるように思います。ポリネシア人の自然観・宗教心=感情には日本と同様、「万物、特に様々な自然の中に神々が宿る」=アニミズムがあり、共感を覚えます。『Maor Legends and Song』も楽しかったです。彼女が紹介してくれた、神話に関するビデオ神話1、Panginui and Papatuanuku (パンギヌイとパパトゥアヌク) 神話5、Te Orokotimatanga o te ao (第二次世界大戦)
ビデオにある、スティックダンス[パフォーマンス](若いマオリの戦士がスティックを使って訓練した)のお遊びをしました。私も参加しましたが、とても難しかったです。マオリ人のファイトパフォーマンス=ハカの言葉の中に、”Ka mate au”があります。私には「ガンバッテ」と聞こえるのですが、「Alas I will die.」の意味=「悲しいかな、私は死ぬだろう」でした。3月12日 アシュリーさんの『ユダヤ教の祭日』の講演を聞きました。食べ物や行動様式など日常生活の忌避的事項は、半端ではありません。挨拶[Shalom]や過ぎ越し祭り、脱エジプトなども学びました。しかし、私は、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教などの一神教はやはり「非寛容」と思います。また、ユダヤ教の「選民意識の強固さ」には、私はどうしても違和感を覚えました。
3月21日 アシュリーさんの『ラテン語学習会』に参加しました。今日、ラテン語はすでに「死語」だそうです。なのにどうして学ぶ意味・意義があるのでしょうか? ラテン語は、イタリア語、英語、スペイン語などヨーロッパの主要言語の”大語源”です。古代ローマの教養語はラテン語、ギリシャ語でした。アシュリーさんが言うには、ラテン語学習にとって重要なのは、「読み」ではなく、とにかく「文法」、語源だというのです。ラテン語のAguaは、英語の水ですが、スペイン語ではagua、イタリア語ではacqua です。Agricolaは、英語では、farmerで、農業はagriculture、スペイン語ではagiricultorAmo,Amareは、英語ではlove、イタリア語ではamore Doneは、英語はgive、寄付はdonation Aquariumは水族館、英語ではaquarium、イタリア語ではacquario、スペイン語ではacuarioなどなど、フランス語やドイツ語は調べませんでしたが、とても興味深いです。私が一番好きなカエサルの有名な手紙、「来た、見た、勝った」は、ラテン語では、「Veni,vidi,vici」でした。
3月26日GETの『スピーチフェスティバル』が行われました。一人2分間

落語の「ときそば」を元に私がオリジナルに考えました。だじゃれ・親父ギャグの下らないものですが、私は結構面白いと自負していたのですが、外人にはなかなか難しくわかりにくかったようです。でもスピーチフェスティバルの指導教官のSam Hongさんは「おもしろい」と言ってくれました。多くのスピーカーが「感動的・教訓的」内容を話す中、砕けた話をしたのは、山形の若い女性の「ヤマガタラーメン」と私の二人だけでした。長く話すのは易しいですが2分間のスピーチは本当に短く、難しいです。ほとんどの人は、聞いていないのですが、私は楽しかったです。翌日、3月27日 GETの卒業式がありました。私のクラスは、参加者が少なくびっくりしました。同日、『The Final(最後の発表会)』が一日中ありました。このクルーズ中、ダンスや楽器演奏など色々な習い事・アクティビティがあり、その発表会です。沢山の観客で満員の大盛況でした、が私はほんの少し覗いただけで帰りました。3月20日以降、カルチャースクールなどの発表会、おりづるプロジェクト演劇発表会、ピースガイド発表会、地球大学発表会などが連日行われました。私が参加した英語スピーチフェスティバルもそうですが、これらはいわば「生涯学習の発表会」のようなものです。私は、英語スピーチフェスティバル以外はいずれも参加しませんでした。3月29日、『フェアウェルセレモニー&ディナー』がありました。航路の変更のため、セレモニーの雰囲気は陰気で、スタッフ紹介が長々と続く退屈極まりものでした。私は、シャンパンをお代わりしましたが。3月30日は、下船に向けての荷造りデーでした。この作業日程[宅配申し込み、宅配荷物事前預けなど]の混乱・変更もありました。3月28日には「4月1日神戸発→横浜への無料送迎バスの案内(申込)」のペーパーが配られました。トイレ休憩は、あるものの途中下車は認められません。(昼間便の料金は、1800円~程です。) この項は、多くの時間がかかってしまいました。今回のクルーズのブログの<各論>は、今回で終わり、次回は最終回《まとめ》です。 【終わり】