第63回ピースボート・地球一周の船旅5 コーチン/インド[9/29]編
コーチン着は、8時の予定であったが、モンスーンと海流の影響で3時間ほど遅れ、11時15分であった。コーチンも良港である。いくつかの島と川が湾を作っている。

だが、ダナン、シンガポールとは様子がだいぶ違う。ダナンは落ち着いている、シンガポールは近代的できれいだが、コーチンは遅れたアジアという印象だ。近代的高層ビルが見えないと言うだけではなく、船上から見える建物はいずれも古く汚く貧しく見える。桟橋もきれいではなかった。私はバスでの『コーチン観光』をオプションしていた。当初の予定はエルナクラムという新市街地を2時間弱自由散策する予定であったがこれは省略され、まずレストランで昼食となった。
様々なカレー・スパイス味のルーがバナナの葉の上に配られる。それは独特のスパイスなのだが、私には美味とは言えなかった。その様々な緩いかなり水様のルーをライスと手で混ぜて手で食すのがインド式なのだが、手からこぼれてしまうので多くの人がスプーンを頼んで食べた。カレーはスパイスは利いているのだがコク・旨みが少ないように思う。米の粉をベースにココナツミルクなどを加えた三種類の飲物が出たがいずれもとても甘い。デザートはモンキーバナナとドライバナナであったが、これも日本のものより味は落ちた。カレーは野菜が主で、小さなチキンと魚の入ったチキンが少量入っていた。インドの日射しは強かったが、真夏が過ぎていたせいか気温はそれほど高くは無かったように思う。また、緯度もシンガポールと比べるとずいぶん高いのでその分気温が低いのかもしれない。インドでは生水は厳禁で、歯磨きの水も生水はだめと言われた。だが、いずれにしろ、暑さには香辛料と甘さが必要なのかもしれない。レストランでも飲むのはミネラルウォーターである。食事の途中から、カタカリダンスというインドの古典芸能・ダンスが披露された。このダンス、通常では一つの演目が10時間ほどもかかるそうで、我々にはさわりだけが演じられたが、これもお世辞にも美しく楽しいものとはいえなかった。

たとえば日本の伝統芸能、たとえば能、舞踊や歌舞伎の知識がない外国人にはそれらの鑑賞はそれほど楽しくはないだろう、と同様に。インドはトイレ事情もよくないと事前に注意を受けた。トイレットペーパーは持参し、それは水洗便所に流さず、備え付けの汚物入れに入れる、水洗パイプがつまらないようにである。公衆・有料トイレはない。[もっとも、トイレ事情は、インドだけが劣悪なのではなく、ニュージーランド・オーストラリアを除くほとんどの国、地域でも同様であった] 観光客用に絨毯屋のトイレが開放されたが、旅行会社が料金は払っているのだろう。ここのトイレも男性用は小便器と大便器がそれぞれ一つだけ、それも仕切なしであっただけだ。このレストランのトイレはとてもきれいであったが、男子便器の高さはインドでも異常に高かった。その後、旧市街地に移動し、セントフランシスコ教会を見た。ヴァスコ・ダ・ガマの埋葬の跡

この教会は、1510年ポルトガル時代に建てられた最古のキリスト教会で、この地で亡くなったヴァスコ・ダ・ガマも一時ここの埋葬されていたという。外観はきれいに塗装されていたが、かなり痛んでいて、メンテナンスは十分に行われていないようであった。海辺に戻り『チャイニーズ・フィッシングネット』を見た。これは古い漁法で現在では観光用だけのようだ。

ダッチ・パレス[建物の写真は撮ったが失敗した、内部は禁撮影]。コーチン王のためにポルトガル人が作った宮殿で、現在は博物館となっている。かなり古いものだが、ここも痛みが進んでいて、メンテナンスが不十分だ。ユダヤ人のシナゴーグは開放されていなかっため、外観だけを見た。この一帯はユダヤ人街と言われるいわゆるお土産屋だ。

かつてコーチンにはユダヤ人が多く住んでいて香辛料貿易などで財をなしたが現在は数家族のみ居住しているという。私はお土産は必要ないのでほとんど覗かなかったが、日本語での呼び込みはすごいもので、彼らと目が合うものならそのしつこいことしつこいこと。米ドルでの買い物もできるが、絵はがき6枚一米ドル。ただ、インドでは売り子は子どもではなく大人だ。インドでは子どもの教育は重要視されているようで、子どもの売り子は見なかった。ちょうど学校が終わった時刻で子どもたちの帰宅時であった。こぎれいな制服を着ている子どもが多かったが、民族衣装の学校もあるようだ。道路は狭く、バイク、三輪タクシのオートリキシャと乗り合いバスでいつも渋滞し騒々しい。排気ガスとゴミで街は臭く、くすんだ感じだ。リキシャはメーター制ではなく交渉制で、三人まで乗れ50円ほどのようだ。乗り合いバスは日本円で10円ほどで乗客は多い。私は少し怖かったがお土産街を離れて少し歩いた。
郵便局 消防署

銀行の支店や警察・警察官のアパートや郵便局があったがいずれも小さく立派な建物とはいえず、金持ちの個人の家の方が遙かに立派であった。廃屋の跡地はゴミの山で、通りのあちこちにゴミが散乱している。男たちは平然と立ち小便であった。時折牛が誰にも引かれずに悠然と歩いている、野良犬も闊歩している。そんな中黙々とタマネギなどを山ほど積んだ大八車を運ぶ二人組がいた、私はそれを見てつらかった。

街を歩く大人はほとんどサンダルだ、女性の服装はこぎれいだ。インドの、しかも南部の港町・古都コーチンのほんの一部しか見ていないのに、インドを語るのは乱暴だが、私が見たコーチンの街は、貧富の格差は服装や持ち物、履き物[裸足・サンダル・靴]、建物・車、そして商売などに強く大きく感じた。街は不潔でゴミが散乱している、人々はとても多い、子ども特に女の子は美形で服もきれいだ。小さなお店が延々と軒を連ねている。物乞いもいる、いろんなものがごっちゃに混ざり合っている、と言う感じであった。人々の数は多く、活気と停滞を同時に感じた。人々の外観は、生活の日常=格差が即時に見て取れるように感じた。同時に私は、インドには、今なおカースト制度が色濃く残っている、と感じた。カーストは、職業の選択の自由・結婚の自由もない、という。何千年と続いてきたこのカースト制度は、人々の流動性を制限してきた。限られた地域・血縁の中で生活してきた不可触民と思われる彼らの身体には、明らかに遺伝的障害が少なからず蓄積されているように感じた。バラモン教の輪廻思想はこのカースト制度を根で支えているように私には思える。輪廻思想は、諦念・現状追認の思想のように思えるからだ。私は、インドがこのカースト制度と貧困を克服するのは容易ではないだろうと感じた。次の寄港地は、エリトリアのマッサワ、約一週間のクルーズである。
コーチン着は、8時の予定であったが、モンスーンと海流の影響で3時間ほど遅れ、11時15分であった。コーチンも良港である。いくつかの島と川が湾を作っている。

だが、ダナン、シンガポールとは様子がだいぶ違う。ダナンは落ち着いている、シンガポールは近代的できれいだが、コーチンは遅れたアジアという印象だ。近代的高層ビルが見えないと言うだけではなく、船上から見える建物はいずれも古く汚く貧しく見える。桟橋もきれいではなかった。私はバスでの『コーチン観光』をオプションしていた。当初の予定はエルナクラムという新市街地を2時間弱自由散策する予定であったがこれは省略され、まずレストランで昼食となった。
様々なカレー・スパイス味のルーがバナナの葉の上に配られる。それは独特のスパイスなのだが、私には美味とは言えなかった。その様々な緩いかなり水様のルーをライスと手で混ぜて手で食すのがインド式なのだが、手からこぼれてしまうので多くの人がスプーンを頼んで食べた。カレーはスパイスは利いているのだがコク・旨みが少ないように思う。米の粉をベースにココナツミルクなどを加えた三種類の飲物が出たがいずれもとても甘い。デザートはモンキーバナナとドライバナナであったが、これも日本のものより味は落ちた。カレーは野菜が主で、小さなチキンと魚の入ったチキンが少量入っていた。インドの日射しは強かったが、真夏が過ぎていたせいか気温はそれほど高くは無かったように思う。また、緯度もシンガポールと比べるとずいぶん高いのでその分気温が低いのかもしれない。インドでは生水は厳禁で、歯磨きの水も生水はだめと言われた。だが、いずれにしろ、暑さには香辛料と甘さが必要なのかもしれない。レストランでも飲むのはミネラルウォーターである。食事の途中から、カタカリダンスというインドの古典芸能・ダンスが披露された。このダンス、通常では一つの演目が10時間ほどもかかるそうで、我々にはさわりだけが演じられたが、これもお世辞にも美しく楽しいものとはいえなかった。

たとえば日本の伝統芸能、たとえば能、舞踊や歌舞伎の知識がない外国人にはそれらの鑑賞はそれほど楽しくはないだろう、と同様に。インドはトイレ事情もよくないと事前に注意を受けた。トイレットペーパーは持参し、それは水洗便所に流さず、備え付けの汚物入れに入れる、水洗パイプがつまらないようにである。公衆・有料トイレはない。[もっとも、トイレ事情は、インドだけが劣悪なのではなく、ニュージーランド・オーストラリアを除くほとんどの国、地域でも同様であった] 観光客用に絨毯屋のトイレが開放されたが、旅行会社が料金は払っているのだろう。ここのトイレも男性用は小便器と大便器がそれぞれ一つだけ、それも仕切なしであっただけだ。このレストランのトイレはとてもきれいであったが、男子便器の高さはインドでも異常に高かった。その後、旧市街地に移動し、セントフランシスコ教会を見た。ヴァスコ・ダ・ガマの埋葬の跡


この教会は、1510年ポルトガル時代に建てられた最古のキリスト教会で、この地で亡くなったヴァスコ・ダ・ガマも一時ここの埋葬されていたという。外観はきれいに塗装されていたが、かなり痛んでいて、メンテナンスは十分に行われていないようであった。海辺に戻り『チャイニーズ・フィッシングネット』を見た。これは古い漁法で現在では観光用だけのようだ。

ダッチ・パレス[建物の写真は撮ったが失敗した、内部は禁撮影]。コーチン王のためにポルトガル人が作った宮殿で、現在は博物館となっている。かなり古いものだが、ここも痛みが進んでいて、メンテナンスが不十分だ。ユダヤ人のシナゴーグは開放されていなかっため、外観だけを見た。この一帯はユダヤ人街と言われるいわゆるお土産屋だ。


かつてコーチンにはユダヤ人が多く住んでいて香辛料貿易などで財をなしたが現在は数家族のみ居住しているという。私はお土産は必要ないのでほとんど覗かなかったが、日本語での呼び込みはすごいもので、彼らと目が合うものならそのしつこいことしつこいこと。米ドルでの買い物もできるが、絵はがき6枚一米ドル。ただ、インドでは売り子は子どもではなく大人だ。インドでは子どもの教育は重要視されているようで、子どもの売り子は見なかった。ちょうど学校が終わった時刻で子どもたちの帰宅時であった。こぎれいな制服を着ている子どもが多かったが、民族衣装の学校もあるようだ。道路は狭く、バイク、三輪タクシのオートリキシャと乗り合いバスでいつも渋滞し騒々しい。排気ガスとゴミで街は臭く、くすんだ感じだ。リキシャはメーター制ではなく交渉制で、三人まで乗れ50円ほどのようだ。乗り合いバスは日本円で10円ほどで乗客は多い。私は少し怖かったがお土産街を離れて少し歩いた。
郵便局 消防署


銀行の支店や警察・警察官のアパートや郵便局があったがいずれも小さく立派な建物とはいえず、金持ちの個人の家の方が遙かに立派であった。廃屋の跡地はゴミの山で、通りのあちこちにゴミが散乱している。男たちは平然と立ち小便であった。時折牛が誰にも引かれずに悠然と歩いている、野良犬も闊歩している。そんな中黙々とタマネギなどを山ほど積んだ大八車を運ぶ二人組がいた、私はそれを見てつらかった。

街を歩く大人はほとんどサンダルだ、女性の服装はこぎれいだ。インドの、しかも南部の港町・古都コーチンのほんの一部しか見ていないのに、インドを語るのは乱暴だが、私が見たコーチンの街は、貧富の格差は服装や持ち物、履き物[裸足・サンダル・靴]、建物・車、そして商売などに強く大きく感じた。街は不潔でゴミが散乱している、人々はとても多い、子ども特に女の子は美形で服もきれいだ。小さなお店が延々と軒を連ねている。物乞いもいる、いろんなものがごっちゃに混ざり合っている、と言う感じであった。人々の数は多く、活気と停滞を同時に感じた。人々の外観は、生活の日常=格差が即時に見て取れるように感じた。同時に私は、インドには、今なおカースト制度が色濃く残っている、と感じた。カーストは、職業の選択の自由・結婚の自由もない、という。何千年と続いてきたこのカースト制度は、人々の流動性を制限してきた。限られた地域・血縁の中で生活してきた不可触民と思われる彼らの身体には、明らかに遺伝的障害が少なからず蓄積されているように感じた。バラモン教の輪廻思想はこのカースト制度を根で支えているように私には思える。輪廻思想は、諦念・現状追認の思想のように思えるからだ。私は、インドがこのカースト制度と貧困を克服するのは容易ではないだろうと感じた。次の寄港地は、エリトリアのマッサワ、約一週間のクルーズである。