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風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

映画/ローマ法王になる日まで

2018年01月19日 | 映画

新年の映画は、「夜明けの祈り」とこの「ローマ法王になる日」の宗教に関係する2本でした。
「ローマ法王になる日」は、アルゼンチン出身のフランシスコ現法王の半生映画です。
この映画の評価も難しいです。
1970年代初頭、チリでアジェンデ社会主義政権が生まれます。アメリカはこの政権を暴力で転覆します。
以後、中南米の多くの国々では、軍独裁政権が生まれ、恐怖政治が敷かれます。
この映画の舞台となったアルゼンチンでも1976年から約10年間軍独裁政権が支配します。
抵抗する市民はもちろん、貧しい人々を支援する教会関係の多くも逮捕、殺害されます。
飛行機から海に捨てられたりした彼らの多くの行方は今もわかっていないそうです。
いつの時代も軍隊は外国だけで無く自国民を弾圧しました。
2013年ベネディクト16世は、生前に退位しました。
新しい法王を決める選挙(コンクラーヴェ)で、フランシスコさんが選ばれました。
彼は、世界の表舞台ででは無く、アルゼンチンの田舎で質素な暮らしをしながら貧しい人々の
支援などをしてきたそうです。
欧州以外の出身者のそんな彼が266代法王に選ばれました。
映画では、アルゼンチンの軍事独裁政権時代、フランシスコさんは、人々に寄り添った活動をしたことに
なっていますが、その政権に「加担」したという評価、批判もあるようです。
Conclaveは、ラテン語の「鍵がかかった」と言う語意で、他国の干渉を防ぎ秘密を守るために作られた
仕組みだそうです。
若い時代のフランシスコさんと老年になった時の彼の顔が余りにも違いすぎたのはミスキャストでした。
映画のテーマは私にはよくわかりませんでした。
チリの軍独裁政権の弾圧を扱った映画=光のノスタルジアの私のブログ、です。 【1月8日】
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映画/夜明けの祈り

2018年01月14日 | 映画




難しいテーマを取り上げたことは評価しますが、映画としては成功とは言えません。
描きたい、訴えたいことが多過ぎ、テーマを絞りきれなかったのだと思います。
ポーランドに侵入したソビエト兵は、修道女をレイプします。
彼女たちの多くは妊娠、修道女の一人が近くで活動してしていたフランス赤十字に助けを求めます。
若き女医・マチルダは危険を顧みず、その求めに応じます。
神に生涯を捧げた修道女は、出産するべきか、生まれた子どもをどうするのか、またこの事実を公表すると
修道院は閉鎖されるかもしれない、また修道女は行き場すらも困る等々の宗教的問いにどのように
向き合うのか、と言う深刻な問題に解答を見いだすのは至難です。
かなり倫理観があったと言われる中国紅軍もこの種の犯罪を犯したそうですし、労働者の解放を担った
ソビエト赤軍や中国紅軍がどうしてこのような犯罪を犯すのか…、への解答も簡単ではありません。
自身もレイプを受け、梅毒に感染させられた院長は、事実を隠し、生まれた子を殺す選択をします。
それは、彼女の保身なのか、皆を助けたいとの願いなのか、それとも彼女が梅毒に感染させられたことから来る
悲しみからなのか…。
修道女の個々人の内面に立ち入ってその苦悩を描くことは簡単では無いことは十分承知しますが、
出産した修道女が簡単に「母性」を取り戻してしまうことの評価も分かれる所です。
マチルダが町に帰る時、彼女もソビエト兵に襲われる危機を上官の制止で救われます。
このシーンは必要か不要かの判断も難しいです。この体験が彼女を修道女達の境遇への共感を深めたと
言えるかもしれませんし、その恐怖を乗り越えてなお修道女に支援したのは、彼女の強さ信念と言うより、
「神の思し召し」と言うことを言いたいのかもしれません。
この映画のもう一人の主人公は、シスター・マリアという修道女です。
彼女にはかつて恋人がいたそうですが、マチルダに「信仰は24時間の苦痛と1分の希望」と語ります。
この意味は、私には良く理解できませんでした。
修道院内に孤児院を作ることで映画は終わります。映画として、何らかの解答を出さざるを得ないのでしょうが、
いかにも安易な気もします。これがマリアが言った「一分の希望」なのでしょうか?
修道女が皆美人過ぎたのも不満です。
原題のLes inonocentes は、無罪、純粋などの意味があるようです。
今年初めての映画は、宗教にかかわる重い映画でした。         【1月8日鑑賞】
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映画/Cafe Society

2017年11月14日 | 映画


ウッディ・アレン作で期待したのですが、期待外れでした。
彼特有の機関銃のような台詞回しも少し薄れ、皮肉や物事を異サイドからみる視点も希薄、
ストリーも平凡でした。さすがのアレンも老いたなと感じました。
宗教色のないユダヤ人社会のおもしろさ、複雑さを垣間見ることができます。   【11月6日】

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映画/La La Land

2017年11月08日 | 映画


大いなる駄作です。
これがアカデミー監督賞、主演女優賞というのですから、羊頭狗肉を通り越して「詐欺」、もう止めてくれです。
昨年のアカデミー作品賞は、下馬評のこの映画を押さえて『ムーンライト』でした。
こちらは秀作です。
私の、ムーンライトのブログは、ムーンライト です。
ミュージカル映画は、退屈を通り越してばからしく私は好きではありません。
インドのミュージカル映画は、ハリウッドのそれをはるかに凌駕するばかばかしさですが、
その程度が尋常でない素晴らしさを持っていますが……。
エマ・ストーンの歌は吹き替えなしだそうですが、聴くに堪えないひどさです。
ストーリーは工夫も創造性も皆無です。
La La Land の"La"はハリウッドのあるロサンゼルス、また「夢」という意味もあるそうです。
つまり、「虚飾」の塊、ハリウッドってことです、かね。        【11月6日】
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映画/ハクソー・リッジ,Hacksaw Ridge

2017年10月19日 | 映画


楽しめる映画ですが、決して佳作とは言えません。
ハクソーリッジとは、沖縄の激戦地浦添市の前田高地の崖をアメリカが「鋸状の絶壁」と言うような
意味のHacksaw Ridegeと名付けたそうです。









映画前半は、主人公の青年エズモンド・ドスの生い立ちと青春時代をしっとりと描き、
後半はこれでもかこれでもかと戦争シーンが続きます。
ものすごい音と死体やけが人の悲惨なシーンが延々と続き、映画の最後は取り憑かれたように
傷ついた兵士を助けるこの映画の主人公の「英雄的」活躍が描かれます。
彼は、キリスト教の厳格な一派の信者で、菜食主義と武器を手にしないという良心的兵役拒否者です。
その彼が、衛生兵であっても軍隊に志願した理由や根拠の説明はほとんど無く説得性はありません。
彼は当然、軍隊内で猛烈ないじめを受けますが、紆余曲折を経て、沖縄戦に派遣されます。
アメリカでは、このような「非国民」が兵士として許容されることは私には、一種の驚きです。
彼は、命令に従わないと言うことで軍法会議にかけられるのですが、「縁故」事情で無罪となります。
ギブソンのこの映画の良いところは、アメリカ的英雄主義や愛国主義という「絶対精神のアメリカ」や、
戦争は残酷で反対だと言うことを主張するのでは全くありません。
「臆病者」が「一番の勇者」だったと言うことです。

メル・ギブソンは、昔から私生活でかなり問題があったようで、特にキリストの最後を描いた
『パッション』(2004年)以後、私生活のゴシップでハリウッドで干されていたようですが、
彼の故郷のオーストラリア(生まれはアメリカですが、家族の移住でこの地でし育った)との
合併のこの映画で復活したようです。
しゃれたヨーロッパ映画なら過激な戦争シーンなど皆無に描けると思うのですが、アメリカ映画ですから、
戦闘シーンの「リアルさ」をウリにするのですが、かえって逆に全くリアリティーがないのです。
手足が吹き飛んだり、内臓が飛び散ったり、人肉をネズミが食べる多くのシーンは一見すると
リアリズムのようですが、わざとらしい演出が延々と続くと、リアリティーなくなるから不思議です。
彼の作品、スコットランドの独立のために戦った実在の人物ウィリアム・ウォレスの生涯を描いた
『ブレイブハート』(映画)も全くそうでした。
おそらく彼の意図はリアリズムなのでしょうが、現実離れしたあまりにも無敵で強すぎる英雄や
過激な戦闘は前述したとおり、滑稽なほどで全く作り物・想像の世界となってしまうのです。
逆説的に言えば、グロテスクでホラー的過激な映像は、これはリアリティではなくあくまで作り物なんだよ、
と言っているように私にへ思えるのです。
ギブソンのこの映画のもう一つの優れているのは日本兵だけを悪者や残虐者にすること無く、
アメリカも火炎放射器を使って、日本兵を焼き尽くすなどの残虐性をかなり平等に表していることです。
つくづく時代の流れを感じます。
多くのアメリカ映画では、日本と日本軍は悪者だけで、残虐性この上なく、馬鹿者がほとんどでしたから。
この映画はエンターテイメントとしてはおもしろいけど決して佳作とは言えません。
この風変わりの青年の生い立ちや内面をしっとりと静かに穏やかに描くヨーロッパ風の映画だったら
どれだけ良いのになぁと思いました。
でも、それだとハリウッドでは全く、無視されてしまうかもしれませんが……。
何より、139分は長すぎです。                     【10.16】
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大人の事情

2017年10月16日 | 映画


イタリアのロマンティックコメディ映画というので期待したのですが、落胆でした。
4人の男友達とそのパートナー達が食事会をします。
冒頭、イヤミと意味のない全くつまらない会話が延々と続くのです。
それもほとんどの人がかなりヒステリックなのです。
みんなでかかってきた電話やメールを見せ合うと言うゲームになります。
その後の展開は、ほとんど予想通りで、ストーリーに何の工夫も驚きも、おもしろさもありません。
お互い四角関係や、複数と関係を持ってしっちゃかめっちゃかなられ、どれだけおもしろかかったでしょう。
社会批判や文明批判もないのです。
その日は皆既月食の晩であったと言うことで、何事もなかったようにすべてが水に流されるという結末も
全く詰まりませんでした。              【10月9日】

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映画/午後8時の訪問者

2017年10月11日 | 映画

秀作です。サスペンス映画です。
監督は、ベルギー出身のダルデンヌ兄弟、舞台はベルギーの工業地帯リエージュ近郊の落ち着いた町。



診療時間を過ぎた午後8時過ぎ、診療所の呼び鈴が鳴ります。
年老いた医師に頼まれて小さな診療所を切り盛りしている若き女医ジェニーは、有能な医師で、
大きな病院への栄転が決まり、そのときちょうどその歓迎パーティーへの誘いの電話を受けていました。
彼女は、診療時間が過ぎていたので、扉を開けずにパーティーに出かけました。
翌日、診療所に近い川のほとりで身元不明の黒人少女の遺体が見つかりました。
前夜に助けを求めて診療所の呼び鈴を鳴らした少女でした。
診療時間を過ぎていたのですから、彼女は責められるものではありません。
ジェニーは、少女が、名がわからないまま無縁仏としてこの見知らぬ土地で葬られるのが耐えらません。
「もし、私が扉を開けていれば…」と、彼女は自責の念に駆られ、少女の身元を調べ始めます。
彼女は、決して真犯人捜しではなく、彼女の名前を知り、家族に知らせ、墓標に名を記したいだけなのですが、
真実を恐れる人々が、事実を隠し、彼女を脅迫し、まさに‘サスペンス’です。
しかし、この映画の共感・素晴らしさは、サスペンスの筋書きや謎解きではなく、今ヨーロッパを席巻している
「移民排斥」など今日のヨーロッパ社会の問題を浮き彫りにしていることです。
この少女が、白人であったら、警察はもっと徹底的捜査をするはずです。
彼女がアフリカ系移民の娼婦であったことから、捜査は進展せず、うやむやになりそうです。
映画の冒頭のシーンは、現代ヨーロッパの社会を象徴しているように私には思えます。
診療所の扉は、ヨーロッパ社会への扉と同義です。その扉は、不法移民や貧しい娼婦達には閉ざされているのです。
また、映画は医療を巡るヨーロッパの事情と上昇志向する人々の葛藤の問題も見え隠れします。
大きな病院への栄転は、社会的ステータスの上昇であり、目標であり、あこがれでもあります。
町の小さな診療所は、真夜中でも玄関のベルが鳴らされ、病院に通えない人には往診もします。
ジェニーは、決して「赤ひげ」医者を目指しているのではありませんが、
この事件を契機に、恵まれた栄転を止めて、庶民に寄り添う医者を目指そうとします。
普通の映画では、場面が変わるごとに服装・ファッションが変わるのですが、彼女の服装は、
ブルーと赤のティシャツとありふれたコートだけ、アパートも質素で、普通の庶民の生活です。
そして、ついに彼女は、診療所に住み込んでしまいます。
映画の最後、亡くなった少女の死の真実が明らかにされます。
そして、彼女の姉が、ジェニーの診療所を訪れ、ジェニーにハグを求めます。
とても素敵なシーンでした。
ジェニーを演じるアデル・エネルは、まだ幼顔が残り、化粧っ気もない素顔で登場します。
彼女の大げさでない控えめの演技が素敵で、今後の活躍が予感されます。

ダルデンヌ兄弟を私はよく知りませんでしたが、『少年と自転車』(私のブログ) の楽しい映画もあります。
社会派・ダルデンヌ兄弟面目躍如、快なり、です。
原題は、「未知の女の子」でしょうか。       【10.9鑑賞】
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映画/未来よ こんにちは

2017年10月09日 | 映画


原題のL'Avenir は「未来」と言う意味のようです。
主演のイザベル・ユペールさんはフランスの大女優だそうですが、私は良く知りません。
『アスファルト』(私のブログ)という、ちょっとおもしろいフランス映画に出ていました。 
「未来よ こんにちは」では40代後半の役のようですが、64歳だそうでかなり年寄りに見えました。
彼女も夫も高校の哲学の教員で、結婚25年を迎えたある日、夫は好きな女性ができたと家を出ていきます。
しかし、彼女は落ち込まず、悲嘆もせず、前を向きます。
彼女のこの穏やかでしなやかさ、潔さがこの映画の魅力です。
痴呆症の兆しを持つ母親は、施設であっけなく死に、娘と息子は独立し家を出ています。
一人残されたような彼女には、自慢の教え子がおり、そして娘に赤ん坊・孫が生まれます。
しかし、それらは日々は彼女の日常の大部分ではありません。
彼女は、まだ現役の教員ですから、取り立てて大きな出来事も起こらなくても日々は過ぎていきます。
映画は、そうした彼女の日常の日々をゆっくり追います。
リタイアした私には、私を拘束する仕事や絶対しなくてはならないことは今はありません。
日々、死に向かっているのですが、取り立てての慌ただしさ、寂しさはありませんし、退屈もしていません。
毎日の生活を慌ただしくではなく、のんびりと結構楽しんでいます。
映画に戻ります。
哲学上の命題や、問題が何回か出されるのですが、場面がすぐ変わってしまってしまい、
私がゆっくり考えるいとまが全くないのです。
それはこの映画のテーマではないのですが、これらのシーンに、3分、5分と割いてほしかったです。
それらのテーマは彼女の心情と関係があったのかなかったのか、私には振り返ってもわからないのですが、
彼女とそして私たちにそのテーマをつなげたり、私たちの「人生」や、ちょっとした哲学的テーマについて思索を
巡らせることができるのにです。
ほかの場面では、情緒的で冗舌すぎるゆっくりした画面が多いのに、こうした刺激的なシーンでは逆に慌ただしいのです。
この映画最大の失敗でした。    【9月25日】
 
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映画/マイ ビューティフル ガーデン

2017年09月27日 | 映画


可もなく不可もなし、という感じです。
英題は、This Beautiful fantastic
イギリス社会と上流階級のイヤミ・皮肉とこの上ない鼻持ちならなさ、はたっぷり楽しめます。
図書館で知り合い恋人となる男性とのエピソードはいかにもとってつけたようで失敗でした。
クィーンズイングリッシュのなまりの発音が、私にはとても耳触りが良いです。
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映画/台北ストーリー[青梅竹馬/Taipei Story]

2017年09月23日 | 映画


1985年作品のデジタル修復版だそうです。
わざわざ映画館に足を運んで見るほどの映画とは私には思えません。
しかし、30年前というのに、台北の姿に古くささを感じませんでした。
「アメリカに行く」(移住)ことが特別なことではなく、とても軽く語られていることに驚きました。
                            【9月4日】
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映画/タレンタイム 優しい歌

2017年09月11日 | 映画

秀作です。
日本では珍しいマレーシア映画です。監督・脚本はヤスミン・アハマドさん、1958年生まれの女性です。2009年病死しました。
生涯で6本の映画しか世に出さなかったそうです。私は初めて見ました。
英語、マレー語、ヒンディー語、中国語の四つの言葉が行きかうと冒頭に紹介されますが、正確にはさらに手話とクレオール語・
ピジン語の多言語が話されます。
英語も、ガチガチのUK英語とクレオール的マレー英語が飛び交うのです。
クレオール言語とは、一般的に異なる言語を使う人々の間で自然に作り上げられたピジン言語が、世代を経て母語として話さ
れるようになった言語を言います。
確かヒンディー語の時、一部英語の字幕が使われたと思いますが、後はまったく字幕はありませんでした。
もちろん、日本語の字幕は付きますが…。
マレーシアは多民族、多宗教の社会、おそらく多数の共通語は英語と思います。

英語のタイトルは、Tallent Time 由来と思います。テレビなどのそれとは異なり、学校でのアサイメント=ミニ文化祭のよう
なものから作られたTalentime。
四人の高校生が登場します。それぞれの家庭がどんな仕事なのか詳しい説明は触れられません。
イギリス人の父とムスリムのマレー人の母を持つ女生徒・ムルー一家。そこにはムスリムに改宗した中国人の未亡人の
メイドが住み込んでいます。
何で生計を立てているかなどは説明がありませんが、裕福であることは想像できます。
インド人でヒンドゥ教徒のマヘシュ一家。マシューの父親は死亡し、その遺族年金で生活しています。マシューは、
聴覚言語障害者です。日常会話は手話ではなく口話・読唇です。

彼は、ムルーが練習で帰宅が遅くなるので、バイクで送迎することに抽選で選ばれます。
しかし、ムルーは彼が耳が聞こえず音を発せられないことを知りません。
好意を抱く彼に挨拶しても、聞こえない彼は「無愛想」で、彼女の心は、乱れます。
マレー系ムスリムのハフィズ、父親は失踪、母親は脳腫瘍で入院中です。
彼は、転入生ですが、トップの成績です。ムルーにひそかに恋心を抱いています。
中華系のカーホウ、宗教はわかりませんが、ベンツに乗る父親は、息子の成績が悪いと殴ります。
それまで、彼はトップの成績でしたが、ハフィズのその場を奪われ、鬱積しています。
彼も、ムルーをひそかに思っています。
ストーリーは決して複雑ではなく、シリアスでも決してなく、ほとんどコメディです。
四人のタレンタイムをめぐる青春の一コマを縦軸に、それぞれの家庭のかなりシリアスな話題をさりげなく、挿入します。
その内容は、とても深刻なのですが、さらっと物語的に語るのです。
マシューの叔父さんの話は、かなり重いです。若い時、好きな女性がいたのですが、他コミュニティということでマシューの
母親に反対され、ずっと独身で、マシュー一家を援助してきましたが、その彼女がなくなって結婚することになりました。
結婚式で騒ぐ彼らに喪に服すムスリムの隣人が逆恨みして彼を殺してしまいます。
ある夜、ムルーとマシューはデートのところをメイドに見つかり、説教の後、ムルーの家に招かれたのですが、安心と疲れて
寝入ってしまいます。
そのことを知った彼の母は、ムルーとの付き合いを禁じるのでした。
マシューとムルーが愛を語る場面と、彼が母親に切ない胸の内を明かす場面は、手話でした。
私にはその手話が決して滑らかには見えませんでしたが、他の場面では手話は使われていないのに、ここで手話が使われた
意味・価値・重要さを思いました。
そう、「言葉」、思いを伝えるのはとても重要で大事なんです。
とても美しいシーンでした。
ムルーがマシューを好きになったのは、彼の容姿で、まさに彼女のひとめぼれでした。

このこともとても重要です。彼女は、それまで彼を全く知らなかったのですから。
彼女にとって、彼の出自や宗教、彼の言語は?、家庭環境、豊か貧しいか、賢いかアホかなどは関係ないからです。
マシューは初めはムルーに無関心でしか仕方ありませんでした。
でも、彼女は背も高く、美人で、ピアノと歌声は極上で、彼女に密かに心躍らせるのでした。
この映画が特に優れているのは、今日「問題」となっている、ムスリムなどの宗教や異人種間の対立や軋轢をあるがままに受容し、
特別視していないことです。
マレーシア社会がそのように寛容であることを意味していません。
マシューのおじさんの隣人との軋轢はあるし、貧しいインド系ヒンデゥの人々への異教徒・異コミュニティからの差別や
不寛容、逆のそれらも当然あります。
アハマドさんは、そうしたマレーシア社会を批判したり、「寛容たれ」と説教しているのではありません。
いろんな問題を抱えているけど、でもマレーシアの社会の未来は明るいと希望しているのだと思います。
貧しいインド系ヒンデゥ教徒、しかも聴覚言語障害の男性とマレー社会で裕福なエリート社会の家庭、でも、きっとうまくやって
行けるよと、若い二人を後押ししています。
連続して、すばらしいMoonlightとタレンタイムを鑑賞できて、私はとても至福でした。    【9月4日】


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映画/ラビング[Loving]-愛という名前のふたり

2017年09月02日 | 映画


トランプ大統領当選以来、アメリカではレイシズムなどの差別主義が横行・跋扈しています。
この映画のタイトルの Lovingは、人の姓です。偶然にしてもとても象徴的な姓です。
黒人女性ルドレッド・ラヴィングと白人男性リチャード・ラヴィングさんは1958年結婚しました。
しかし、当時、ヴァージニア州では「白人」と「有色人種」の結婚を禁じる人種統合法(1924年)に違反すると逮捕され、
1年間の実刑有罪判決を受けました。
その後、二人は制限住居違反などで再度逮捕されましたが、ラヴィング対ヴァージニア州裁判となり、
1967年、アメリカ合衆国最高裁判所で異人種間結婚を禁じる法律を無効の判決が出ました。
しかし、南部のアラバマ州では、2000年になってようやく異人種間結婚禁止法が撤廃されたそうです。
リチャードさんは1975年交通事故で死亡しました。同乗していたラビングさんは、片目を失明し、2008年5月68歳の生涯を終えました。
彼女が、存命していたら今日のアメリカの状況に、彼女はどんなコメントを発したでしょうか?
映画は、重いテーマですが、シリアス過ぎずまた啓蒙的ならず、とても穏やかに二人の物語を綴っています。
セリフが、とても短く、シンプルでゆっくりなのがとてもいいのですが、アカデミー賞に近いといわれたそうですが、
映画の出来はそれほどの秀作とは言えませんでした。
オバマ前大統領の評価は、世では決して高くはありませんが、彼はやはり傑出した大統領でした。
初めて広島を訪れ、核の使用の責任に触れ、脅威を表した現役大統領でしたし、アメリカ社会内の差別撤廃について
大きく貢献しました。       【8月28日鑑賞】
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映画/Moonlight

2017年08月24日 | 映画

文句なしの珠玉作品です。
タイトル映像は、シャロンの3つの時代を分割して表しています。
この映画は、黒人差別と同性愛、貧困、暴力を巡る問題を扱っています。
登場人物はすべて黒人という「異色」さです。
マイアミの黒人コミュニティに生きるシャロンとケヴィンの二人の黒人の物語です。
二人の児童期、少年期そして成人期の三つの章・時代に分けてエピソードを綴ります。
シャロン

ケヴィン

シャロンは、同性愛の性癖を持っています。少年期、唯一ケヴィンだけが彼を友として接してくれます。

家庭にも恵まれないシャロンは、ある日、麻薬の売人フアンに危ういところを救われます。
このフアンはとても謎に満ちた人物です。
彼がシャロンに近づいた本当の意図は不明です。
始めは、彼の妻が言ったようにシャロンを手なずけ、自分の忠実な手下にするつもりだったのかもしれません。
しかし、沈黙し続け、沈み込み続ける彼の中にかつての自分を見い出し、息子のようにいとおしく思い、
父親のように接したのかもしれません。
フアンを演じたマハーシャラ・アリがオスカーの助演男優賞を得たそうですが、魅力あるフアンでした。
 
思春期に入ったシャロンとケヴィンは、ある晩、ふと海辺で過ごすことになります。
「泣きすぎて自分が水滴になりそうだ」と語るシャロンにケヴィンは不思議な感情に襲われ、二人はキスを交わし、
互いを慰め合い射精するのでした。
 
その翌日、シャロンが登校すると、学校で番を張るテレルは、ケヴィンにシャロンを殴ることを強要します。
ケヴィンは自己を守るために仕方なくシャロンを殴ります。シャロンは倒れても何度も静かに立ち上がるのでした。
倒れたシャロンはテレル達に殴られ続けました。
このシーンは、自分ではどうしようも抗うことのできない二人を取り巻く社会の象徴の様に私には思えました。
翌日、シャロンはテレルをイスで叩きのめし、警察に逮捕されます。
それはテレルから受けた暴力への報復と言うより、かけがえのない友人ケヴィンを悲しませ、彼と別れざるを得なくなった
ことへの怒りと悲しみ、そして新しい人生の彼自身の決意・選択という二つの象徴的シーンだと私は思います。
ケヴィンも些細なことで刑務所生活となり、二人は、「別れの挨拶」無しに別れ、こうして二人は少年期を終えるのでした。
この刑務所生活は、二人のその後の人生を大きく変えます。
シャロンは、肉体を鍛え、暴力的に強くなり、かつて彼が慕ったフアンのようなヤクの売人の元締めとなります。
他方、ケヴィンは、料理に興味を覚え、料理人となり、ささやかな自分の店を持つようになります。
数年が過ぎ、シャロンは唐突にケヴィンから電話を受けます。
シャロンは、その夜、夢精するのでした。そして、シャロンは、ケヴィンの店を訪れます。
お酒を飲めないシャロンでしたが、二人でワインのボトルを数本開けます。

ガラスのワイングラスでなく、プラスティックのコップでした。
シャロンは、「俺の体に触れたのは生涯で一人だけ、ケヴィン、君だけだ」、と静かに語るのでした。
二人の目は、それまでのわだかまりが消え、心底から信じ、求め合うものでした。
この表情を撮影するのにキャストとスタッフはどれほどの時間を要したか、と思われるほど悲しいほど素敵なシーンでした。
嬉しさと憂いと、恋しさと、不安に満ちたとても素敵な目でした。
今、世界では白人至上主義を始め、民族・人種・性・性愛・身体・美醜・貧富・宗教・階級・身分・市民・国籍・地域・など
ありとあらゆることへの差別が横行し、ヘイティスト(この言葉があるかわかりませんが)が跋扈しています。
これらの多くは、個人の力では選ぶことの出来ない先天的・先験的な不条理です。
もちろん、映画はそれらは大問題だ、と叫ぶわけではなく「その克服・解決」を模索・提示するものではありません。
タイトルの「ムーンライト(月光)」とは、暗闇の中で輝く光、自分が見せたくない輝くものを暗示しているも言われますが、
東洋的な「太陽と月」、「陽と陰」も暗示していると私は思います。
上手く表現できませんが、明るい日の光の下の男女と違って、暗闇ではないが皆の前では大ぴらに表せないような…。
また、映画では、様々な「色」が語られました。ブルー、ブラック、ホワイトそしてニガーなど。
私には、その意味・意図はわかりませんでしたが、特別な暗示を示しているように思えてなりません。
女性は、三人しか出てきません。しかもそのうちの一人は、ケヴィンと抱き合うガールフレンドの後ろ姿だけ、
フアンの妻テレサは、すこぶるセクシー美人で、シャロンをまるで息子のように暖かく包み込みます。

シングルマザーであるシャロンの母ポーラは、売春婦のような生活をフアンから買ったクスリでかろうじて生活しています。

右は、クスリと売春婦の生活を止めたポーラ、彼女は訪れたシャロンと和解します。
また、この映画の秀逸は、暴力、セックス、薬物などのシーンをほとんど映像化しない、極めて禁欲的、控えめの表現なのです。
また、細かいストリー・経過も一切省きました。
シャロンの父親は?、ケヴィンの家庭は?、フアンが死んだ経過は?、二人の刑務所生活?とその後は?、
特に成年したシャロンがギャングになる過程、シャロンの母親がクスリと縁を切った経過、などなど。
それらはいずれも物語としては大事なポイントなのですが、それらを描けば長時間となり、冗舌は避けられません。
それらをすべてそり落としました。そうすることによって、かえって物語に深みを増し、観客に想像と思いを
膨らませことが出来たのだと私は思います。
また、映画は、差別やレイシズムなどを一切糾弾していませんし、同性愛を擁護・嫌悪したりもしていません。
決して啓蒙的にならず、説教や価値観・倫理観や自分たちの思いを主張せず、「差別だ」と声も荒げません。
シャロンとケヴィンの二人の黒人の成長と彼らを取りまく環境を風景のように描いているだけです。
そして、ちょっと不自然ですが、不思議なことに救いようのない絶対的悪・悪人が登場しないことです。
そこには、、自分たちは価値観や思想が分かれる微妙で難しい問題に、ある一方の立場には組しない、
同時に共感や連帯は求めるけれども同情や嫌悪や排除はヤメテと言う「すがすがしい謙虚さ」があります。
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2017年・第89回アカデミー作品賞は、大本命で大衆受けする『ラ・ラ・ランド』を押さえ、『ムーンライト』が獲得しました。
私は、アメリカのアカデミー賞に対してはいつもはとても冷ややかですが、今回の出来事は「快哉」です。
ここ数年、アメリカ映画・アカデミー賞について、「ホワイトウォッシュ(映画界が白人中心の世界であり、
黒人やアジア系といった人種が十分に活躍できていないこと)」が問題にされましたが、この映画が賞を獲得したのは
それとは全く無縁と思います。
私はこの映画を少しほめすぎかも知れませんが秀逸です。
そして、アメリカ社会は時にはこのようなサプライズを与える不思議さがあります。
ブラッド・ピットがエグゼクティブプロデューサーとして名を連ねています。
彼は、86回アカデミー作品賞を取った黒人奴隷を扱った映画『それでも夜は明ける』の共同プロデュースもしました。
私のそのブログは、映画/フルートベール駅で(Fruivale station)、それでも夜は明ける(12yeare a slave) 
【終わり】
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映画/シャボン玉

2017年08月15日 | 映画


乃南アサの小説の映画化、ストーリーは至極単純です。
家庭に恵まれず育った伊豆見は、女性や老人だけをねらって通り魔や強盗傷害を繰り返して来ました。
人を刺し、平家落人伝説のある宮崎県の山奥・椎葉村に逃げ込んできます。
そこでたまたま怪我した老婆を助けたことから、老婆の家に居候します。
彼は、人々の優しさと大阪で通り魔に遭って古里に逃げ帰ってきた女性と知り合い、改悛すると言うありふれたお話です。
彼は自首し、服役後この地に戻って来る所は、幸せの黄色いハンカチのラストシーンに似た場面で、映画は終わります。
ハンケチではなく、明るい電灯と煙突から揚がる白い煙でした。

悪人が出て来ない不自然ですが、併映が「愚行録」だっただけに、シンプルさと人の善意がとても新鮮でした。
伊豆見は人々の優しさもそうですが、この地の自然の懐の大きさに癒やされ救われたのです。




市原悦子さんはやはり珠玉に輝いていました。

伊豆見を演じた林遣都は力仕事などまるで出来そうもない華奢な体とちょっと胡散臭そうな顔つきで良かったです。
     【8月7日】
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映画/愚行録

2017年08月10日 | 映画


ひどい映画でした。愚作です。
田向と言うサラリーマン一家が惨殺されます。週刊誌の記者・田中がその真相を探ります。
田中とその妹・光子は、母親は育児放棄と虐待、父親は娘と関係を持つという極貧で崩壊した家庭で育ちました。
光子は、文應大学に入り、セレブにあこがれるのですが、そこで彼女は男子学生の慰みものにされます。
映画のほとんどが、田中が殺された一家の妻の大学時代の関係者のインタビューが延々と続きます。
光子が入った大学は、慶應を連想させる「文應」大学で、付属から来た学生は自分たちは特別なセレブと思い込み、
「見栄と性の欲望と嫉妬、人をさげすんで」いると言うのです。
長々と語られる彼らの下らない話しに、私は嫌気と吐き気を覚えました。
こんな下劣な人間関係の長時間のお話を「人間の本姓」と言うのですから、何をか言わんやです。
光子は、「育児放棄による殺人」で逮捕されます。
田中は、実は彼女が、セレブの親分であった夏原(田向と結婚)を殺していたのをなぜか知っていたのです。
彼は、関係者とのインタビューを通して、その真相を知っている宮村という女を探り出し、彼女を殺害するのです。
つまり、彼の真の狙いは、犯人につながる証拠、証人を隠蔽、削除することにあったのです。
田中がそこまで頑張るのには、田中と光子はただならぬ「禁断」の関係にあったというのですから、
この筋書きは、驚きを通り越してあきれてしまいました。
田中が二人を虐待・乱暴した父親を殺したことはわかるとしても、学生達に乱暴され精神が壊されてしまった光子と
彼が「禁断の関係」を結ぶなんて…。
まして子どもが出来たことも彼は知らなかったようで…。
いかにもサスペンスの謎解きを複雑にするための小細工でしかありえません。
こんな筋書きは全く不要であるばかりでなく、映画の質を大きく落とし込めています。
見終わって何とも救いようのない嫌悪感を覚えた後味の悪い映画でした。
それは、この映画に田中兄妹が育った環境への怒りや彼らへの共感、それでも人には何か希望を見い出したい
と願う感情が全く感じられないからです。
彼らの行動を「愚行」では括れないと私は思います。
田向役は、慶應大学出身で未成年女性とつきあって謹慎中の小出恵介でした。
いやはや大変なオチと言うべきでしょうか。     【8月7日】
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