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やよい風の公園・吉武高木遺跡

2023-03-17 08:07:03 | 博物館・福岡県

吉武高木遺跡は、”やよい風の公園”として整備されている。そこは、早良平野を貫流する室見川中流左岸扇状地(吉武遺跡群)に立地する。西を向けば飯盛山が眼前にせまる。その山塊を西に越えれば、魏志倭人に云う処の伊都国で、南の奴国との中間点で交通の要所でもあったかと思われる。

西を向けば飯盛山を望む、早良平野の一画に吉武高木遺跡は存在する

松本清張氏は、『清張古代游記』の中で、玄界灘沿岸地方は古代中国王朝の間接統治下にあったと説く。

1984年度調査で弥生時代前期末~中期初頭の金海式甕棺墓・木棺墓等11基より銅剣、銅戈、銅矛の武器(11口)、多鈕細文鏡(1面)、玉類多数(464点)が出土した(吉武高木遺跡)。

吉武高木遺跡出土品・まさに三種の神器である

遺跡群内には同様に多数の副葬品を有する前期末~中期後半の甕棺を主体とした墓地(吉武大石遺跡)、中期後半~後期の墳丘墓(吉武樋渡遺跡)がある。またこれらの墓地の周辺には同時期の集落が広がり、吉武高木遺跡の東50mからは12×9.6mの身舎に回廊をめぐらした掘立柱建物も発見され、「高殿」の可能性が指摘されている。

福岡市HPより

画面奥のマウンドから高殿址の柱穴が出土した

当該高殿は弥生前期後半ないし前期末に建てられたと想定されている。この高殿や出土遺物より、吉武高木遺跡は卑弥呼前期の早良王国の存在が指摘されているのは、松本清張氏が指摘する通りである。

早良王が埋葬された甕棺であろうか、銅剣や銅矛が埋葬されていた

辺りは公園となっており、甕棺埋葬地の所々が写真のようにモニュメント状に展示されている。

紹介した早良王国が弥生時代中期初頭に滅んだ。王墓群や戦士墓が弥生時代中期初頭をもって断絶していることによる。その滅んだ理由は、判断できないが、奴国の中心となった須玖岡本遺跡の首長に繋がる氏族との戦いに敗れたと想定される。まさに卑弥呼前夜に滅亡したものであろう。

<了>



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