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出雲と古代朝鮮(六)・阿陀加夜努志多伎吉比賣命とは伽耶渡来の女神?

2021-02-08 08:35:25 | 古代出雲

<続き>

またまた語呂合わせの噺で恐縮である。阿陀加夜努志多伎吉比賣(あだかやぬしたききひめ)命は何やら渡来系の匂いがする。阿陀加夜努志とは、安羅伽耶の主と云うことになる。続く多伎吉比賣とは、多伎の城(キ)の姫や評(コオリ:郡)の姫となり女神であろう。つまり朝鮮半島南部で現在の慶尚南道金海付近から渡来し、多伎に城というか集落を形成した女神であろう。しかし、一説によれば宗像三女神(田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神)のうち湍津姫神(たぎつひめのかみ)にあてられている。これぞまさしく語呂合わせにすぎないと考えており、阿陀加夜努志多伎吉比賣命はやはり阿陀加夜努志多伎吉比賣命であろう。

この阿陀加夜努志多伎吉比賣命を祭神とする神社が出雲国には五社鎮座している。そのうち一社は多伎吉比賣命が祭神であるのだが・・・。

出雲国風土記には、在神祇官社としての多伎枳社(たききのやしろ)と、不在神祇官社としての多支々社(たききのやしろ)とがあり、読みが同音でかつ合祀されながら、同一境内に鎮座する。具体的には在神祇官社の多伎枳社が現・多伎藝(たきげ)神社で、その祭神は多伎伎比賣命であるが、不在神祇官社の多支々社は多伎藝神社境内社の多伎支神社であり、その祭神は阿陀加夜努志多伎吉比賣命である。

(多伎藝神社)

話しがややこしいが、同じく出雲国風土記・神門郡条には『多吉社』なる在神祇官社も記されている。それは現在の多伎神社で、祭神は当然のことながら阿陀加夜努志多伎吉比賣命である。

(多伎神社)

阿陀加夜努志多伎吉比賣命と云えば、現・松江市東出雲町出雲郷(あだかやORあがかえ)に鎮座する阿太加夜神社の祭神と同名(但し、字面は異なり阿陀加夜志多伎比賣命)である。

どーでもよい話しであるが、松江人は多吉社(現・多伎神社)は、阿太加夜神社を勧請したものとするが、根拠不明で本末転倒であろう。江戸期・雲州松江藩の地誌『雲陽誌』には、阿太加夜神社は神門郡多伎郷の多伎神社(多吉社)を勧請したものと断言しており、松江人の見方と反対である。出雲国風土記神門郡条には、“多伎郷は天下造らしし大神の御子、阿陀加夜努志多伎吉比賣命が鎮座していらっしゃった。だから多吉という。【神亀三年に字を多伎と改めた。】”・・・とある。更に、意宇郡条には阿陀加夜努志多伎吉比賣命は一言も登場しない。そして阿太加夜神社は不在神祇官社であり、それが在神祇官社の多吉社に勧請されるはずもなかろう。・・・横道にそれたので戻す。

阿陀加夜努志多伎吉比賣命を祀る五社のうち四社について筆記した。残るのは加夜社である。伽耶とそのものズバリの神社名である。出雲国風土記では加夜社は、不在神祇官社として記載されている。所在地は加夜里とあり、伽耶の里ということになる。尚、現地名は出雲市稗原町2571の市森神社に合祀されており、祭神は読みが同一ながら字面はやや異なり、阿陀加夜志多吉比賣命である。

以上、阿陀加夜努志多伎吉比賣命を祀る五社について記してきた。そこで、意宇郡の阿太加夜神社を除き、四社について注視すると、面白いことに気付く。以下、現神社名で記すが、多伎藝神社と多伎支神社の所在地と同所にタタラ精錬跡が存在している。手元に島根県教育委員会が昭和58年3月30日に発刊した『島根県生産遺跡分布調査報告書・出雲部製鐵遺跡』がある。それによると、Q2(整理番号)・草井谷鍛冶屋遺跡が記され、これがタタラ精錬跡である。

偶然の一致かどうかは別にして、市森神社の周囲もD6・市森炉として、先の報告書に記載されている。阿陀加夜努志多伎吉比賣命とタタラ精錬が繋がっている。先に須佐之男命は新羅から渡来した韓鍛治集団のボスであったと記したが、阿陀加夜努志多伎吉比賣も伽耶渡来の韓鍛治が信仰する女神であった可能性が考えられる。元来は安羅伽耶主多伎吉比賣であったか?

 『出雲国風土記』は神宅臣全太理(みやけのおみまたたり)・出雲臣廣嶋の勘造になるものである。出雲臣廣嶋は国造家の嫡系に連なる人物である。ここから出雲国造家は朝鮮半島に繋がる安羅伽耶主多伎吉比賣を消し去ろうとしたとの邪推が頭をもたげる・・・此の件については、別に追及するとして、ここではこれまでとしておく。

地名語呂合わせは記載したくないのだが、市森神社の在る故地名を伽耶里という。安羅伽耶主多伎吉比賣を祀る韓鍛治集団が故地を偲んで、伽耶里と呼んだとしても違和感をもたない。

さらに多伎神社の西100mの処に、伽耶堂なる堂舎が存在する。・・・チョットマッテ!噺が出来過ぎている。伽耶堂とは朝鮮半島の『堂信仰』そのものではないか。朝鮮半島では神社に相当する聖地を『堂(タン)』と呼ぶ。城隍堂(ソナンダン)が堂信仰の代表であろう。一般的に峠や村の入口と境界、路端にある白紙や五色の絹布片等をかけた神木とその下の小石を積み上げた累石壇や、小祠を城隍堂と云っている。

(城隍堂)

(加夜堂)

この伽耶堂も城隍堂であろうと考えられる。この城隍堂は堂舎内に城隍神の神像画が掲げられているようだ。つまり集落の結界を示すと共に土地神であったと考えてよい。ではここ伽耶堂はどうであろうか。過日、訪れてみた。

堂内には壇が設けられているが、仏壇なのか神壇なのか、そこには中央と左右に、なにか祀られているが、神像なのか位牌なのか、幕によりみえないことから判別できない。ここでは城隍神のごとき神像と考えておきたい。

いずれにしても加夜里の加夜社、伽耶堂の存在、合わせて阿陀加夜努志多伎吉比賣命とタタラ精錬跡の存在。時代観を抜きにすれば偶然の一致とは考えられない。伽耶の地から韓鍛治の集団が渡来した痕跡と思われるが、出雲国風土記が安羅伽耶主を消し去り、阿陀加夜努志としたことは、渡来集団がメジャーな存在になり得なかったことを示していよう。

最後に語呂合わせで恐縮であるが、韓鍛治の集団が渡来して操業したタタラ精錬、そのタタラは新羅の一地名である多々羅との説もある。

<続く>

 


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