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九州国博『~仏の国の輝き~タイ特別展』:その1

2017-05-23 09:51:38 | 博物館・福岡県
去る5月20日(土)、大宰府の九州国立博物館にて題記の展覧会を観覧した。残念ながら写真撮影禁止である。今回タイ国立博物館15館からの出品を中心に展示されている。過去、この15館中8館の見学をしているが、タイの博物館は鷹揚なもので見学した8博物館で写真撮影禁止はチェンマイ国博だけ、あとの博物館は撮影放題である。九州国博も配慮してほしいものだ、図録の販売に影響するとでも考えているのか?
従ってすべての出品物の写真は掲載できず、パンフレットに掲載されている写真と、当該ブロガーが撮影した写真、及びチェンマイ国博のガイドブックから転載する。また説明文は、展覧会場で入手した図録を参考に記載した。
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 (当日入手した展覧会図録である。出品物の説明は、当該図録を参考に行うこととする。)
現タイ王国の地は、タイ族が13世紀に南下・西南下するまでは、先住民が割拠する地であった。タイ中央部はモン(MON)族・都市国家の集合体であるドヴァーラバティー王国、北部はモン族のハリプンチャイ王国、東北部はクメールの版図で、クメールやモン、クイ族の故地であった。その結果、地域間の相互の影響は認められるものの、地域独自の文化が花開いた。とりわけ西方の影響が濃厚に現れている。
13世紀になると、先住民の間にタイ族が進出してくる。タイ族の一部は彼らと混合したであろう。先住民の文化や慣習を吸収しながら、時間の経過とともにタイ族独自の文化が花開いたのは、個人的にはアユタヤ朝からと考えている。
今回はこの時間軸の順に展示物の一部を紹介したいと考えている。下の写真は、北タイのランナー王国に先立つタイ族の王国である、スコータイ朝の遺跡である。
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 写真はスコータイ王国の副都・シーサッチャナーライのチャリエンに建立されたワット・プラシーラタナマハータートで仏陀像は降魔印を現わし、スコータイ時代のものと云われている。後方のプラーン(仏塔)はクメール様式でスコータイ時代以前の建立と云われている。その時代はクメール・アンコール帝国の前線基地であったことによる。
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 これはスコータイのワット・マハータート布薩堂跡である。仏陀座像は降魔印を結び、頭部には肉髻の上に火焔のような(ラッサミーという)装飾を載せる。その形式はスコータイ独自である。
タイ族がチャオプラヤー流域に進出し、最初にスコータイ王国を建国したことに触れたが、それはタイの地にあっては13世紀の中世以降のことであり、紀元前後から中世に至る歴史が存在したのである。それらのことどもに展示された文化財をとおして概観してみたいと考えている。
 
                                  <続く>
 
 

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