<続き>
今回は芸北地域の弥生遺跡から出土した遺物を紹介する。
<続く>
町村合併で北広島町となったが、合併前の旧大朝町に大朝郷土資料館が在る。それは北広島町図書館に間借りする形となっている。過日、広島からの帰りに寄ってみた。
先ず、縄文時代までの展示物を紹介する。
中国山地ド真ん中の北広島にも縄文遺跡が存在し、隠岐の島から黒曜石が運び込まれたのである。いつも感心するが、現代とは大違いの縄文期に活発な交流が繰り広げられていた。我々の祖先は遣るな~と。
<続く>
過日、広島からの帰途に北広島町・芸北民俗芸能保存伝承館に寄ってみた。
民俗芸能として、壬生の花田植えは名が知れているようである。毎年5月に催行されるようだが、今年はコロナでどうであろうか。牛の背に載る鞍が豪華絢爛である。一度は花田植えを見たいものだ。
蝗(イナゴ)送りとある。害虫以外の何物でもない。現在は害虫の食害防止方法はいくらでもあるが、昔は素朴な方法で祈願したのであろう。
<了>
<続き>
みよし風土記の丘古墳群の出土遺物が展示されていた。それを紹介して『みよし風土記の丘ミュージアム』と題した連載を終える。
ジオラマ右の建物がミュージアム、白抜きの丸印内が古墳群である。
須恵器窯を復元した模型が展示してある。その断面模型で内部構造が理解できるが、これとほぼ同形状の窖窯(あながま)が北タイのワンヌア窯である。片や5世紀前後の須恵器窯、片や14世紀頃の北タイの窖窯である。北タイでは、その窖窯で鉄絵装飾の陶磁を焼成したのである。
須恵器窯では、鉄絵装飾の器物は焼成されなかったが、特徴をもつ形状の器物が多く焼成された。
<了>
<続き>
復元された素環頭太刀と参考にされた出土太刀、更には三次工業団地の発掘で明らかになった松ケ迫遺跡(弥生後期)の復元ジオラマを紹介する。
復元ジオラマには、様々な形状の建物が想定復元されている。一つの集落に、このような様々な建物が、果たして存在したかとの単純な疑問が湧く。
多くの建物遺物が出土すれば、それらの全体像がつかめるが、全貌が分かるほどの遺物は出土していない。
<続く>