世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

続続・未見の北タイ諸窯

2021-08-21 06:56:12 | 窯址・タイ

<続き>

【続・トゥンタオハイ古窯址】

今回は焼成陶磁について記す。用いられた胎土は粗いが、大きな砂粒は含んでいなかった。それは焼成により濁った茶色、煉瓦色、暗い錆色になった。キメの粗い器の底は平だが、糸引き底ではなかった。場合によっては、2対の穴をあけて運搬用の紐を通す、高台が作られている事例もあった。

釉薬は黒褐釉で釉層は薄く、胎土への密着性に劣るものがあり、剥落しているものもある。さらに釉薬が流れ高台にまで付着しているものもある。時折、明るく発色した光沢をもつ茶色の破片が見つかっている。また胎土自体に含まれる鉄分が、溶けたかのように斑点が見られる。

器形は驚くほどさまざまな形状をもつ。最も好まれているのは二重口縁壺(ハニ―ジャー)で、サンカンペーンのそれと類似している。器形で特徴的なものは動物の肖形である。僅かの象と鳥、多いのは瘤牛の肖形である。他にケンディー、小さくて長い頸と耳をもつ瓶、ミニチュアの花瓶と皿やオイルランプ、口縁が無釉のボウルで蓋付もある。珍しいものとして魚網のオモリも作られた。

これらのトゥンタオハイ窯の焼物を展示している博物館は僅かである。ランパーン市博物館とワット・チェディーソウ付属ケーランナコン博物館が知られているが、当該ブロガーが訪ねた日には、ランパーン市博物館は休館日であった。僅かではあるが、ケーランナコン博物館の展示品を紹介しいておく。

(ケーランナコン博物館)

次回は【トゥンタオハイ古窯址】以外のランパーン県諸窯を紹介する。

<続く>

 


続・未見の北タイ諸窯

2021-08-20 07:26:33 | 窯址・タイ

<続き>

タイ芸術局第7支所が掲げたランパーン県諸窯はいずれも未見である。それは、トゥンタオハイ、スームガーム、ハンチャート、バーンメーターの各窯址は未見である。これらについて未見なるも多少の下調べや、北タイ陶磁の泰斗で英国人のJ.C.Shawの著書の引用などから、知っている範囲で紹介したい。先ず前回の第7支所が掲げたGoogle Earthでは分かりにくいので、ランパーン県に絞って窯址位置を掲げておく。但し、トゥンタオハイ古窯址の位置は、そのものズバリなるも、ハンチャート古窯址は図示の近辺を、スームガーム古窯址はスームガーム郡スームサイ地区に存在すると云うものの、所在地を突き止めることができなかったので、スームサイ地区にスポット表示した。尚、バーンメーターは良く分からないのでタンボル(地区)役所にプロット表示した。

【トゥンタオハイ古窯址】

トゥンタオハイについては10数年前、ランパーン出身の知人・T氏に事前調査をお願いしたところ、1週間後に場所が特定できたと写真付きで連絡があった。それが、下に示した位置である。

その写真を見ると竹や雑木の藪のなかである。入るには毒蛇の可能性があるので、長袖と長靴更には藪を払うための山刀が必要であるという。あわせて、そこは呪われた窯址との噂もあり、結局行くことを断念した。

呪われた窯址とは、一人の男が瘤牛の褐釉肖形を掘り出したところ、その頸が折れた。2日後、男はバイクで事故を起こし、自分の頸が折れたのである。それ以降、呪われた窯址との噂が立ち、実際村人の誰も発掘などしないと云う。立ち入って身に危険が及べば大変である。T氏が送信してくれた写真も、内部に立ち入ったものではなく、道端から写した写真であった(残念ながらその写真ファイルが見当たらない)。

以下、Shaw氏の著作より引用して説明する。”ランパーン市街地の中心部から6km行くと、タオハイ村のワット・チェディーソウが横たわっている。その近くの田圃のなかに窯群が存在し、20-30基の窯が1平方キロの中に散在している。そこには2つのメイングループが在る。一つは藪の中、もう一つは灌漑用水路の向こうである。そして3-4基の窯が田のなかの小さな丘に在る。タイ芸術局は、1970年代の灌漑用水路工事の際に、窯群が発見されたが、窯址調査は行われなかった(これは先に記述した呪われた窯址の噂が、関係しているように思われる。尚、この話は50年前の話であり、今日は調査済みとも思われる)。

幸運にも呪いに屈しなかった人もいるようで、ある程度の情報は得られている。窯の概要は、炉壁が4.4mにわたって地表に露出しており、25.0×7.5×4.5cmの煉瓦が4列に並んでいた。それらの煉瓦の内側は、灰色や緑がかった釉薬に覆われていた。

窯址から分かることは、パーン古窯址と同じ大きさであった可能性がある。窯体には煉瓦の破片が充満し、焼成時の灰と混ざっているように見えると云う。”

以下、焼成陶磁については次回紹介する。

続く>

 


未見のタイ北部諸窯

2021-08-19 08:30:42 | 窯址・タイ

過日、SNS上でタイ芸術局第7支所(在・チェンマイ国立博物館敷地内)の情報を見ていると、以下の写真を掲載した記事が出ていた。記事をみていると、何を云いたいのか良く分からないが紹介する。

ミミズが這ったようなタイ字だけでは、チンプンカンプンである。タイ字がすべて分かるわけではないが、小学生低学年用のタイ字練習帳で何回も書き写した経験から、上図にカタカナ併記し、最寄りの県・郡所在地を記入した図を下に示す。

国・県境や道路が記載されていないので、お分かりにくい点容赦願いたい。先ず上掲の図とともに、訳の分からない本文を紹介する。

今日は、管理者がランナー時代の窯について教えてくれます。これは、見つかった証拠の分析と過去からの情報の観察結果です。 Phi Tai(Nongchai Taraksa、専門の考古学者)によると 。 第7支所は、サンカンペーン窯を含む、ランナー時代の10の陶器窯の調査を実施しました。チェンライ県ウィアンカロン、パヤオ県パーンとウィアンブア、チェンマイ県メーテン郡のインターキンとサンカンペーン、ナーン県のボスワック、ランパーン県のスームガーム、バーンメーター、トゥンタオハイ、ハンチャートの各窯である。

チェンセン窯が存在していた可能性が取沙汰されている。それはチェンセン市の近くにあると思われる。製品を生産するために使用される適切な陶土があり、水源に近い地域で、情報提供者よるとチェンライ県メーチャン地区のパトゥン地区にあると云うが、まだ発見されていない。

もう一つはハリプンチャイ窯です。その陶磁器はハリプンチャイ文化の影響を受けた遺跡でよく見られます。

ランナー時代の窯は、主要都市または主要都市から30km未満の距離にあります。”・・・以上である。

何が云いたいのか不明なるも、それらの窯はいずれも主要消費地から30km以内の距離にあり、まさに地産地消であった・・・このことを云いたかったのか? それを云うには検証不足である。サンカンペーン窯はメンライ王がチェンマイに建都してからであろうが、それ以前から存在していた可能性が高い。一方、メーテン郡のインターキン窯は、ランナー王朝第8代・サームファンケーン王(在位:1402~1441年)の時代に創業されており、その間100年以上の開きがある。他の窯場も含めて、これらが同時操業していた期間の有無も前提条件として抑えてからの、30km云々に言及すべきであろうと考えている。まあマイペンライ(気にしない、どうでも良いよ)の世界である。

チェンセーンにランナー王国時代の窯、云々については初耳である。どうも所在は確かめれていないようだ。

チェンライ県ウィアンカロン

 北タイ陶磁に魅せられて:第2章 - 世界の街角 (goo.ne.jp)

パヤオ県パーン

 北タイ陶磁に魅せられて:第5章 - 世界の街角 (goo.ne.jp)

パヤオ県ウィアンブア

    北タイ陶磁に魅せられて:第4章 - 世界の街角 (goo.ne.jp)

チェンマイ県メーテン郡のインターキン

    北タイ陶磁に魅せられて:第8(最終)章 - 世界の街角 (goo.ne.jp)

チェンマイ県サンカンペーン

 北タイ陶磁に魅せられて:第3章 - 世界の街角 (goo.ne.jp)

ナーン県ボスワック

    北タイ陶磁に魅せられて:第6章 - 世界の街角 (goo.ne.jp)

・・・については、過去に窯址訪問記をUp Dateしているので、それを参照願いたい。

ランパーン県のスームガーム、バーンメーター、トゥンタオハイ、ハンチャートの各窯址は未見である。これらは次回に紹介する。

<続く>


タイで最近窯址が発掘された

2021-05-02 13:53:59 | 窯址・タイ

過日、バンコク大学付属東南アジア陶磁館のHPを覗いていたら『約700年前のノッパカオ窯(เตานพเก้าว์:タオノッパカオ)が、ワット・パー沼地遺跡の森で画期的に発見された』との記事が掲載されていた。

記事によれば、”ピチット県の遺跡『ワット・パー沼地』で約700年前のノッパカオ窯がほぼ完全な状態で発掘された。タイ芸術局第6支所(在・スコータイ)のPrateep Pengtako氏は、2021年度に北部地域の考古学プロジェクトを実施したと述べた。ピチット県ポータレー郡のワット・パー沼地で寺院が隣接する林の中で、スコータイ王朝時代の古い窯が5基以上存在していた。

(場所はピチット県南部)

(グーグルアースにบึงวัดป่า・ブン・ワット・パーと打ち込むと上掲写真の位置が表示された。周辺に寺院は見当たらない。別の場所かとも考えられるが、写真の場所は環濠集落の跡地のようにも見える。何かありそうだ)

褐色釉と無釉の陶器が焼成され、窯は一般的にクロスドラフトキルン(横焔式単室窯)と呼ばれる穴窯である。炉壁はシリカの堆積物が溶けていた。

傾斜角は10-30度で窯体は北東ー南西軸に配置され、長さは6.5m、最大幅2.5mの粘土で構築されていた。時期は約700年前のスコータイ朝初期とされている。現在の表面レベルから2mの深さに焚口兼焼物搬入出口、燃焼室、そして障焔壁と焼成室、煙突は直径0.7mであった。燃焼室には継続的な加熱の痕跡が見つかり、多くの破片も出土した。将来、覆屋を設けると云う。”・・・以上である。

写真を見ると、いわゆる穴窯であるが、地上式か地下式ないしは半地下式か記述されていない。焚口が現在の地表レベルから2mの深さであったこと、写真を見ると地層がクッキリと現われ、それが周囲に続いており、乱れがないことから地下式のまさしく穴窯であっうたと思われる。尚、当該焼成窯について、地域の伝承の有無や古文献への記載の有無については、記事はなにも述べていない。詳しく知ろうと思えば第6支所に尋ねる必要がある。

ピチットはピサヌロークから南下1時間である。次回訪タイ時のテーマが一つ増えた。

<了>


辿り着けなかったサンサーイ古窯址

2018-07-12 09:00:57 | 窯址・タイ

古い噺を持ち出して恐縮である。去る6月26日のブログに下記のようにUP DATEした。

”CHAO編集人兼発行人のT氏と2014年、SanSai古窯址探索に出掛けた。場所はメージョー大学の西約200mであったが、T氏の堪能なタイ語で村人に質問を繰り返したが、辿り着けなかった。事前の情報では名前を忘れた寺院の近くだという。その寺院には辿り着けたものの、窯址位置が前述のように村人に質問するも分からない。”

4年前の噺を忘れ始めている。メージョー大学の西と記載してみたものの、もう一つ思いだせない。そこでつたない記憶を再度辿ってみると、位置が異なっていた。その位置を事前に調べると、メージョー大学の北6.7kmの位置であった。従って6月26日の記事を訂正しお詫びしたい。

サンサーイ古窯址について知ったのは、英国人で北タイ陶磁の泰斗であるショー氏のレポートであった。位置はチェンマイ県サンサーイ郡ノンハン地区メー・タオ・ハイ村のワット・メー・タオ・ハイの裏手と記載されていた。そこへT氏と共に出かけたのである。寺の壮年の僧侶に尋ねるが知らないとのこと、さらに3-4軒の民家で尋ねるが、同様に知らないとのことであった。

成程、ワット・メー・タオ・ハイの北側には小川のタオ・ハイ川が流れている。この水を窯業に利用したのであろうとの想像はつく。เตาไหとは、タオ・ハイと読むが、タオとは窯でハイとは瓶を表す。従って地名からも古窯址が在った筈であるが、住民には分からないと云う。

当該ブロガーのチェンマイ滞在予定は、9月中旬までである。再度行こうとすれば、それまでに行く必要があるが、同じ轍は踏みたくない。チェンマイ大学考古資料室やタイ芸術局第8支所で尋ねれば、窯址の位置と原形を留めているのか?破壊されて原形を留めないのかわかるとは思うが、踏ん切りがつかないでいる。

サンサーイ窯は褐釉の広口大壺や口縁に釉薬が載らない盤を焼成していたとされ、極めてサンカンペーンに近い焼物であると、ショー氏はそのレポートに記述している。

上掲2葉の写真は、ワット・メー・タオ・ハイであるが、何やらシャン族寺院のように見えなくもない。寺院は『瓶窯』の名称がつく、何やらありそうだ。

<了>