(2)
東京に来る時、東名高速を軽のライトバンに四人乗って100キロだすと、揺れていた車体が沈むようになった。「お前ら、これから社会に出た時、フランス語でシャンソンのひとつでも歌えるようになっとけ」。社会科の先生が卒業間際にそう言って小さなポータブルレコーダーにイブモンタンのレコードを掛け、ガリバン刷りの歌詞を配ってくれた。それで覚えた原語の「枯葉」を疾走する車内で歌いだすと、外人たちは笑い出した。そして一緒に歌うようになった。なんじゃ、通じてるじゃねえか。俺は自信を持ってさらに声を張り上げた。
ギーとギーの恋人・江美、イボンと俺の四人は高らかに枯葉を合唱した。車は世田谷の江美の実家に着いた。ぼくもそこに泊まることになった。しばらくして「マサオはこれからどうする?」江美が言った。「映画を創りたい。それにはカメラか脚本の勉強をしようと思ってる」俺が言った。夜になって、江美の父親が、俺が油絵を描いているのを知って、アトリエで自分の描いた油絵を見せてくれた。人物や静物、風景といずれも具象絵画だった。年季の入った筆捌きで、デッサン力も確かだった。が、絵は自分の感性で突き上げる何かを表現するものだ、あるいはモノの存在することの本質を抉り出すことだ、それには目に見える表面の具象など捉えたことにはならない、さらに奥深く追究して初めていい絵といえる、そんな理屈を俺は持っていたので、俺は父親の絵を見てあしらってしまった。「マサオ君、君はもう少し礼儀というものをわきまえないと生きていけないよ」「はい」。はいっと返事はしたが、その意味がよく解らなかった。
数日して、それでも父親の紹介で三輪晃久というプロカメラマンの家に弟子入りすることになった。東京オリンピックか大阪万博で活躍した有名な写真家らしい。ところが、毎日、毎日、庭掃除ばかり、こんなことをしてて何になる、気の短い俺は誰に言うでもなく一週間でトンズラしてしまった。今から思えば、辛抱して頑張っていれば、絵心と物の本質を追究する眼がある俺のこと、いい写真家になっていたかも知れない。チャンスは目の前にあっても、本人がチャンスだと気づかなければ、チャンスにならないものだ。
俺は、渋谷駅前で野宿をした。新聞に包まい、夜露を凌いだ。ああ、これが有名な忠犬八公かー。朝になると、京都とは比べようもない人の群れが現れた。以前読んだリースマンの「孤独なる群集」。俺は群れの中の一人だが、孤独感はまったく無かった。未来に向かえばよかった。野宿を何日かして考えた。外国に行って、外国から日本を見てみたい。そして本を書いて、映画を創る、そうだ、ギーやイボンがいるフランスに行ってみよう。金はない。俺はとりあえずフランス大使館に飛び込んだ。そして大使館員に聞いてみると、フランスは行っても仕事がないという。カナダで稼いでフランスに来たほうがいいと言われた。今度はカナダ大使館に飛び込んだ。カナダでは美容師の仕事か、看板の仕事ならあると言われた。俺は新聞を買って、就職案内欄で、美容師見習いを見つけて池袋に行った。中年の女性が出てきて「21才ねえ、あなたの歳で見習いはもうちょっと遅いんじゃないかしら。それに泊まるところもないって、私も一人暮らしだし、世間の目もあるし、ちょっと二階に住み込みはムリねぇ」。そうか、そういうものか、情熱だけで世間を知らない俺は、笑いながら勉強にもなった。よし、美容師がダメなら看板屋だ。俺はまた新聞で見つけて葛飾金町の新工社という看板屋に飛んだ。国語辞典を編纂している金田一何がしという人と親戚だという社長と面接し、寮もあり住み込みOKで採用となった。こうして俺の東京生活は始まった。寮生活が半年ほど続いた。会津から出てきたホシ君、茨城のコヒガ君など同じ歳の先輩もいた。彼らと商店街のポールをペンキで塗ったり、飾りつけをしたりした。また捨て看といって、100枚ほど布に印刷した立て看板を電信棒にくくりつけて行く、あるいはまたそれを回収したりした。工場の中年の男たちはそれぞれ職人で、トタン板に風呂屋の広告を書いたり、ネオン看板を作ったりしていた。やがて28歳のコマダさんと親しくなった。コマダさんはアパートを借りて、そこから看板屋に通っていた。アパートに行ってみると、コマダさんの描いたという50号くらいの油絵が何枚もあった。メディームを使い、古典絵画のタッチの風景画だった。「コマダさん、単なる林の中を描くのではなく、たとえば、ここに、裸の赤ん坊の泣き叫ぶ姿を描くとか、そうすれば随分面白い絵になる」。俺は絵の批評は得意だった。コマダさんは青森で警察官をしていたが、県の油絵展で入賞し、画家になろうと上京してきたらしかった。「なあ、この{知覚の現象学}貸してくれるかい?」当時3000円もする高価な哲学書をコマダさんに貸したことがある。しかし、後日、コマダさんはアルバイトに行ったトンネル工事で、100Vの電源をさわって感電死した。柔道3段のコマダさんが100Vで死ぬとはショックだった。結局コマダさんの妹が実家にまとめて荷物を送ったので、俺の高価な本は戻ってこなかった。
来る日も来る日も看板の仕事をやっていた。しかし手に職をつけるというより雑務的な仕事ばかりだった。ある日電気カンナで木を削っている時、考え事をしていたのか、夏の太陽にうだっていたのか、スイッチを入れたまま電気カンナが膝に触れてしまった。膝の肉に食い込み、骨が見えた。病院で手当てを受け、二週間ほど仕事を休んで松葉杖を使っていたこともあった。ちよっと待てよ、また俺は考えた。考えてみれば、俺は映画を創りたい、そのためには本を書く、そのために外国にいく、そのために看板の作り方を覚えるために今、働いている。一見、筋は通っているが、手段の手段、そのまた手段で、あまりにも回り道すぎやしないか。本を書くことから入ろう。そのためには寮をとりあえず出ることだ。俺は近くにアパートを借りて、寮を出た。
双葉荘の六畳一間のアパートでさっそく新聞を取った。小説になりそうな題材や気になる記事を壁に貼り、看板の仕事が終わると机に向かって、執筆を始めた。来る日も来る日も机に向かったが、なかなか思い通りにいいものが書けなかった。そんな時、京都で付き合っていた美容師のリツコが大きなスーツケースを持って、突然現れ、俺に飛びついてきた。アパートに落ち着いてから何度か手紙を書いたが、まさか東京まで来るとは思わなかった。それから彼女との甘い生活が始まった。彼女はお茶碗や箸など近所で買ってきて二つづつ揃え、料理を作り、縫い物をした。しかし俺は次第に苛立ってきた。二週間ほど経ったある夜、俺はまた黙って机に向かって書き物をしていた。しかし、隣で俺の靴下のほころびを縫っているリツコの日常的な仕草に耐えられなくなって、とうとう「そういうこと、止めてくれッ」と大声を出した。彼女にしてみれば、夫を支える妻の役割を夢見心地で行っていたのだろう。しかし俺は書けない理由を、焦りもあって、その日常性のせいにしていた。次の日、仕事から帰ってくると、リツコはいなかった。「大きな愛を得るために小さな愛を犠牲にしないで」という置手紙だけが机の上に置かれていた。悪いことをしたと俺は思った。情けない自分に、書けない自分に苛立った。本を書くにはやはり文章の勉強だ。出版社に勤めれば、活字の勉強もできるし、収入も安定して、スーツも着られて、リツコの父親を説得できるし、リツコを正式に呼び寄せることもできる。俺は新聞の求人案内を調べた。ところが、編集記者募集、業界新聞記者募集、活字に携わる仕事はいずれも大卒が条件だった。そうか、こういう業界は高卒ではダメなのか。しかし俺はどうしても活字業界に入りたかった。ある日、実業公論社という、学歴のことが書いてない出版社が人材募集をしていた。俺はどうしても入りたかったので、自分が行きたかった立命館大学文学部哲学科中退と履歴書に詐称して、面接に行った。
ええっと、三崎町。JRの水道橋駅で降りて、行けども行けどもそれらしい会社はなかった。近辺をうろついて、ようやく古びたビルに実業公論社の看板を見つけた。ええっ、これが出版社かい?俺はもっと立派なビルを想像していたが、今にも倒れそうなあまりにもみすぼらしい雑居ビルに愕然とした。急に肩の力が抜けた。まあいいか、俺は薄暗い細い階段を上がって、右の部屋のドアに実業公論社の板看板を見つけた。
「とりあえず、このテーマで原稿4枚ぐらい書いてください」。そう俺は言われて、原稿を書いた。何を書いたか忘れたが、それなりにしっかりと書いた。「大学を中退されたのは何故ですか?学園紛争ですか?」「は、まあ、いろいろと・・」「まあ、いいでしょう、採用ということに致します。横の喫茶店でお茶でも飲みましょう」。荒川信一というその社長はニコニコしながらそう言った。喫茶店に入ると、コートを着たままの俺に「ところで、君、こういうところではコートを脱いで、畳んで横に置くものです」「は、はい、わかりました」世間知らずの俺に社長は几帳面だった。
とにもかくにも、こうして俺は、活字世界の第一歩を踏み出した。俺は22才になっていた。
(3)
「報道は社会の公器にて、我々はその真髄に生きる」、社是として事務所の壁に大きく掲げられていた。実業公論社では、月刊の経済雑誌「実業公論」を発行していた。そうか、俺は、雑誌記者になったんだ。社会の公器なんだ。めらめらと自分なりの正義感が燃え滾ってきた。荒川社長の下に、編集部には小野編集長と女性の上森、デスク見習いの福岡、そして企画部には笹間企画部長に俺と、同期の宮川、園田がいた。大阪にも支社があって、船木支社長から時折電話が入っていた。後で知ったことだが、俺らが入る前にこの実業公論では大変動があったらしい。大阪支社長の川又さんが辞め、印刷業に転出。東京では、広告の稼ぎ頭だった高橋兄弟が辞めて、新しく「財界にっぽん」という経済誌を創刊したらしい。この大変動のせいで、社の経営は著しく悪化していたので、新たに新卒の人材を笹間部長が新たな発想で育てていくというものだった。だから30歳の小野編集長と笹間企画部長のほかはほぼ新卒の同期だった。俺だけが詐称の中退だった。当初、企画部長はなんのレクチャーもなく、自由に取材をやらせてくれた。俺は各新聞に目を通し、もっと掘り下げて取材したい記事をくりぬいた。当初、毎日、川口市に足をはこんだ。鋳物工場の多い、あのキューポラのある街である。斜陽で苦しい業界をどうするか、をテーマに、市議会議員から、市長、鋳物工場の経営者など、汗だくで取材していた。「ちょっと君たち集まってください」。荒川社長が黒板を前にレクチャーをしだした。「いいですか、ほかの雑誌社は編集部と広告をとる営業部に分かれています。ところがうちは単なる営業部ではなく企画部としたのは、広告も取ってもらうが記事も書いてもらうということです。この両立を果たしてください」。なるほどなあ、企業を取材するだけでなく、広告も取らにゃならんのか。入社から二週間も経って笹間企画部長が新人に広告の話しをしなかったから、荒川社長がシビレを切らしたのだろう。「そこで今回はこの中小企業合理化モデル工場を取材し、広告も取ってきてください」。毎年、中小企業庁は合理化モデル工場を全国の中小企業から選定し、それを表彰する。「いいですか、取材項目は今から言います」。俺らは必死でノートにメモを取った。「そして取材がほぼ終わる直前に、今回の取材は、モデル工場の特集なんで、このようなモデル工場のグラビアも一緒に組みます。これについては有料で5万円になっておりますと切り出します。その時にこの契約書に社印、それと現金か小切手を貰ってきてください」。広告掲載申込書には「現金相添え申し込みます」とあった。俺の担当は長野県更埴市の高原シャツという会社だった。現地まで列車を乗り継いで行って、言われた通りに取材をし、社長の顔写真も撮って、広告に使うパンフレットや契約書、小切手を貰って帰ってきた。これがジャーナリストか?ちょっと違うな。何か心苦しい思いを、この仕事ですでに感じていた。しかし、社に着くと、「ご苦労さん、遠いところ、よくやったね」と社長たち幹部がねぎらってくれた。雑誌が出来て、初めて俺の記事が活字になった。うれしかった。俺は記者なんだ。何度も活字になった自分の記事を読み返した。
ある日、アパートに帰ると、リツコから手紙が来ていた。俺はその手紙を見て愕然とした。妊娠したけど父の反対もあって降ろしたとしたためてあった。なぜ、どうして、俺に一言の相談もなしにそんなことをするのか。実業公論でしばらく落ち着けば、俺はリツコの父親に会って説得し、リツコと結婚するつもりだった。自分の心の中では、それは揺ぎ無いものだった。しかし絶対俺はリツコと結婚するという俺の思い入れは、かってに降ろしたという事実に、急速に冷えていった。許せなかった。一言相談してくれれば、俺はすぐに飛んで行ったにちがいない。今から考えて見れば、ちょっとした歯車の違いで結婚できない、若さゆえのズレのようなものだったかもしれない。返事も書きようがなかった。俺は仕事にうちこんだ。当時、カラーテレビの二重価格が不当表示にあたるのではないかと問題になっていて、さっそく取材を試みた。公正取引委員会や全国電器小売商業組合の事務局長、そして日立、東芝、松下電器、三洋電機、三菱電機など家電メーカーの部長クラスに取材を試み、一頁10万円の広告を松下、日立、三洋から得た。広告を貰ったからといっても、単なるちょうちん記事にはしたくなかった。自分はジャーナリストだ。記事は記事、広告は広告だ。しかし企業側が広告を出すということは、少しでも企業側にいい記事を書いて欲しいという思いがある。一方ジャーナリストとして質すところは質さねばならない。矛盾を抱えると、なかなか原稿が進まなかった。それでも苦労してようやく書き上げた。早稲田出身のミヤガワ君は「華麗なる三菱の挑戦」という三菱自動車の記事だけで広告は取れなかった。法政の園田君は当初から競馬新聞を朝から見て「俺はさすらいのギャンブラー」などと言ってシラケていたが半年で辞めていった。神奈川大のデスクの福岡君は、コツコツと編集長から誌面の割付を教わっていた。「どうする?二重価格」。俺の記事は4頁モノで、小野編集長は記事の末尾に俺の名前を入れてくれた。署名入りの記事、この記事に記者として責任を持つということかと思い、同時に誇りも感じた。
リツコからまた手紙がきた。その封筒にはデートで京都嵐山の渡月橋で写した二人の写真が切られ、俺の写真だけが入っていた。そして「お金をください」と書いてあった。勝手に俺の赤ちゃんを下ろしたショックで、返事も書いていなかった。なんのリアクションもない俺に、リツコは決別を決めたのだろう。しかしお金の話しなどするようなリツコでないことは分かっていた。彼女自身、悩んで悩んだ末に、俺に写真まで切って送りつけ、何らかの反応が欲しかったのだろう。反応すればまた二人の仲は修復可能だったに違いない。しかし、俺はどうしても許せなかった。どうして俺が信用できなかったのか、リツコや子供一人くらい俺はどんなことをしてでも養っていく自信はあったのに。苦い無念の唾を俺は飲み込んだ。
(4)
「上森さん、デートしようか」。フランスベッドの山田副社長に会って、同社が新入社員を自衛隊に入れて教育しているという記事を書き終えた夕方、俺は社長もいる皆の前で、上森女史にお誘いの声をかけた。上森美恵子さんは俺よりひとつ上の23才だが、随分とふけて見えた。
俺はリツコのことを忘れようとしていた。そして急速に上森さんと親しくなって、早稲田近くにある彼女のアパートにも出入りするようになった。彼女には何か、暗くって世をすねたようなところがあった。家族のことを聞くと口ごもり実父を中心に何か事情がありそうだったが、自分のことについては多くは語らなかった。
ある日、仕事が終わって、会社のみんなと九段の桜の木の下で宴会をすることになった。社長のほか東京の全部が集まった。ひとたま飲んで、次の日、いつも真面目な笹間部長が会社に来なかった。実家から電話を受けた荒川社長は見る見る顔が蒼白になった。「笹間君が死んだそうだ」、突然のことでリアリティーのない言葉だけが室内に響いた。社長はその慌てぶりから当初何か事件に巻き込まれたのかと思った節がある。しかし麻布十番の実家に行って、朝母親が起こしに行くと布団の中で死んでいた、いわゆる心筋梗塞か、ぽっくり病ということだった。前夜の酒のせいだろうか。俺にとってもショックだった。笹間部長を人間としても信頼し、尊敬していたから余計だった。葬式が終わって暫く経って、笹間部長のお母さんが会社に現れた。「上森さん、これをうちの子があなたにあげようと持っていたの。受け取ってね」、母親は上森さんに金のネックレスを差し出した。俺はそれを見てどういうことだろうかと思った。後日、小野編集長が酒屋で立ち飲み酒を飲みながら言った。「荒川さんが、笹間君はもう30になるし、結婚させるために上森さんを入社させたんだよ。二人はもう婚約していた仲だった」。そういうことはアパートに行っても上森さんは俺にオクビにも出さなかった。どういうことなんだろう。そんなことを知っていれば俺は上森さんと付き合わなかっただろう。夜の公園で彼女に問うてみた。「君は笹間部長と婚約してたの?」。彼女は黙ったままだった。そして暫くしてようやく「ただ流れに、流されていたの」、ぽつんとそう言った。
彼女の真意を掴みかねた。世の中にどうでもいいやという投げやりな思いが、淋しそうな横顔に出ていた。
しばらくして、荒川社長は、上森さんを編集部から企画部の配属にし、男でも広告を取るのが難しいのに、上森さんは自然と辞める結果になった。
笹間部長がいなくなって、広告収入が減り、経営が一段と厳しくなったようだ。本来雑誌の質を高める編集記事だけを書いていた小野編集長が「私も企画モノして稼ぎますよ」と荒川社長と話していた。荒川社長はまた俺と宮川、福岡にレクチャーを始めた。「いいですか、大手企業の資材部長に協力企業をどう育成するか、取材をしてください。そして代表的な下請けに紹介電話を入れてもらい、下請けの社長に会って、協力企業側の意見を聞いて、一本の記事にする。同時に特集ということで、下請けから広告をとります」。おいおい、今度は下請けイジメか、なんだかジャーナリストには程遠い仕事だなー、「報道は社会の公器にて我々はその真髄に生きる」の社是がだんだんと霞んでいった。夕方、事務所に残った小野編集長と茶碗酒を飲んだ。「編集長、ジャーナリストは社会の公器でしょ」。小野さんが言う。「なかなかなー、奇麗事ばかりでもいかんのよ、谷さん。もうこの会社は一杯、一杯になってるのよ。だから社長と私が北海道いったり、群馬行ったり、地方のどさまわりや県経済の特集やって広告取って、なんとか食いつないでるのよ。毎月の給料を稼がないと武士は食わねど高楊枝ってわけにはいかんしね。文武両道、文武両道だよ、谷さん。力がないと雑誌というのはやっていかれんのよ」。
雑誌の公称発行部数は5万部。しかし実際は5000部くらいを刷って、2500は企業への贈呈を含む直送分で、それらは出来上がると印刷所に行って袋詰めをし、郵便局に持っていく。そして後の2500部は日販を通して書店で販売していたが、殆どは毎月返品で業者が処分しており、実際の売り上げは広告収入が殆どだった。広告をとるためのジャーナリストか。そんな矛盾を抱えて仕事をするのは嫌だった。俺は悩んだあげく、入社8ヶ月で辞表を出した。
夜のベンチに座って、ふっと星空を見上げた。京都から出てきて、俺は何をやってんだろう。そういえば、京都の公園の星屑は綺麗だったなあと、たこ焼き屋時代を思い出した。仕事が終わって午前二時頃、いつも実家の前の公園に安楽椅子を水銀灯の下に持ち込んで、商売のコーラを飲みながら、哲学書を読んでいた。水銀灯には虫たちが群がり、空は満点の星、近所の人たちは寝静まって、俺は宇宙と連結していた。心が澄んでとっても贅沢な時間だった。しかし東京に来てからというもの、その心が萎んできたように思った。
上森美恵子に会いたくなって、早稲田のアパート高風閣に向かった。美恵子のアパートには何もない。布団と、木箱の机だけである。壁はボロボロ落ちてくるし、殺風景そのものだ。ほんとにヘンな女だった。そんなことを思いながら、高風閣の前あたりまでくると、美恵子が男と肩を並べて歩いている。親しそうだった。初めて美恵子と寝た時、美恵子に「お前、何人男と付き合ってたんだ?」と聞いたことがある。彼女は父親から遠ざかるため、静岡三島の富士見が丘短大に入り、そこで造園業の俺と同じマサオと付き合っていたらしい。それと別れて、国際電気に勤めている羽生田、そして笹間さん、俺と続いているようだった。そのほかにも俺の知らない男がいたかもしれない。「悪女をめざしていたの」、後日彼女はそう言ったことがある。俺は二人の後を、無意識に追ってしまっていた。後姿を見ながら、つけていく自分がだんだん惨めになってきた。ようやくわれに戻って、「もういいか」と一人呟き、自分のアパートに帰って行った。
アパートの玄関を開けて、スリッパに履き替え、自分の部屋に入ろうとすると、隣のヤクザ屋さんが顔を覗かせ「客が来てるぜ、大家に言って、開けてもらったからな」。部屋に入ると、高校時代の親友の新谷がいた。「ポンチュ、来てしまった」。ポンチュというのはヒロポン中毒だった社会科の先生と俺が同姓だったためついたあだ名だ。話を聞くと、新潟大学は部活のシゴキに耐えられず結局中退し、金を出してもらった実家の京都に居場所がなくて東京に来たという。
「しばらく、ここに泊めてくれ。こっちで仕事を探して、そのうち出ていくからよう」。新谷は居候を決め込んだ。その後、ヒマな二人は遊んだような気もするが、何をしたのかあまり記憶にない。一ヶ月ほど経って、男ふたりの生活にちょっと疲れが出てきたのと傍にいられると小説が書けない苛立ちもあって、俺は美恵子のアパートに居座るようになった。美恵子はほるぷ出版に入り、百科事典や童話をホテルなんかの展示会で販売するようになった。やがて新谷も銀座にある映画倫理委員会の事務局に勤めるようになった。俺は美恵子のアパートで一向に進まない小説にしがみついていた。実業公論を辞めて数ヶ月経ったある日、美恵子が言った。「わたし、出来たかも知れない。でも、あなたに責任とれと言わないから、自分で処理するから」。今から考えてみると当時はそんなに美恵子のことを好きというほどでもなかった。リツコと別れた空白を美恵子で埋めていたというのが本音だった。しかし子供が出来たという事実はおろそかに出来なかった。「馬鹿言え、産めよ。結婚しよう」。リツコとの失敗をもう二度と繰り返したくなかった。「俺、もう一度社長に頭下げて実業公論で働かせてもらうから」。翌日、荒川社長に会って、再び働くようになった。まず、美恵子と生まれてくる子供のために稼ごう。俺は取材申し込みの電話を掛けまくり、広告をどんどん取っていった。しかし、以前の取り組み方と少しは違って、出きるだけ広告を貰う相手には取材時に有用な情報を提供することによって、ギブアンドテイクの形をとっていった。相手も納得するし、自分の心のバランスも少しはとれて仕事がやりやすくなった。ライターメーカーのマルマンの片山社長に会って、10社下請けから広告を取り、記事も8頁書いたら、マルマンの宣伝課長から「よく書いてくれた」と、向こうのほうから広告を出稿してくれたこともあった。柴又のアパートは新谷に譲って、俺は東中野に二間のアパートを借りた。ここで美恵子と暮らそうと思った。しかし、美恵子は来なかった。高風閣のアパートに行ってみると、深夜を越えてから、美恵子が真新しい高価そうなスーツを着て帰ってきた。「こんな時間まで仕事か」。ほるぷ出版の進藤課長と飲んでいたという。そしてスーツも課長に買ってもらったという。こいつ、課長とも深い仲なのか? でなければこんな高価なスーツなど買ってもらえるわけがない。俺は嫉妬した。嫉妬したというより、こいつの生き方って何なんだと、理解できなかった。男遍歴を重ねて悪女を目指しているつもりか。俺はもうどうでもいいと思った。「俺は、明日、京都に行く。正月を向こうで過ごして、5日には帰ってくる。もし俺と結婚する気持ちがあるなら、男関係を整理して10日までに東中野に来い。来なければそれで俺たちは終わりだ」、そう言って、俺は薄闇のなかを出て行った。
(5)
京都に行ったら実家に姉さん夫婦がきた。「企業におべっかを使う雑誌か。マサオ君、そんな仕事やめたらいい」、義兄がにべもなく吐き捨てた。二人とも日本共産党員だった。俺はカーッと来た。「何言ってるんだ。お前らに食わしてもらってるわけじゃなし、第一お前らだって、日本電池に勤めて、企業にエサもらって生きてるんじゃねえか。いい子ぶるんじゃねえよ」。「マサオやめときよし」、母親が傍でオロオロしていた。せっかく実家の両親に安心させようと思ってきたのに、俺は予定より早く切り上げて東京に戻った。東京に戻って美恵子との約束の10日の日が来たが、美恵子は来なかった。よし、もういい、と踏ん切りをつけた夜になって、美恵子が現れた。「ごめん、痔が痛くって・・」。俺は噴出しそうになった。翌日荒川社長も切って名医だったという痔の専門医に連れて行き、手術をし、オシメを買って、タクシーで東中野に連れて帰った。俺は治るまでの二週間、仕事から帰ると、せっせとオシメを取替え、夕食を作った。リツコが書いた置手紙の「大きな愛を得るために小さな愛を犠牲にしないで」という言葉が心に残っていた。リツコのためにも美恵子を幸せにしなくてはと、肩に力が入った。
美恵子が歩けるようになって、ご両親に結婚の承諾を得に二人で八王子駅に着いた。一時間近く、電車の中で美恵子は殆ど口を利かなかった。駅についても、すぐ実家に行こうとは言わず、「ちょっと近くの喫茶店で心構えをさせて」と言った。俺は首を傾げながらも頷いた。コーヒーを一口飲んで、美恵子はため息をついた。「父がどんなこと言っても怒らないでね。それと、お腹の中に子供がいることは黙ってて」。「ああ」。タクシーで実家に着いた。ご両親に一通りの挨拶を終えた。美恵子の父は元検事で、あごひげを生やし、髪の毛は伸ばしっぱなしの長髪だった。和装でいかにも明治生まれの男らしかった。どんな会話だったか忘れてしまったが、幸せにできるのかとか、この泥棒猫とか言われ、俺に追究の質問ばかり投げかけてきたように思う。とにかく俺は帰りの玄関で「お父さん、ここは裁判所じゃないんですから」と捨て台詞を吐いたことだけは覚えている。とりあえず話は通すだけは通した。
荒川社長にその旨報告すると、子供が出来たのなら、結婚式は挙げておいたほうがいいだろうと、式場を紹介してくれた。区の経営する豊島振興会館で、ふたりで貸衣装を借り、荒川社長が仲人になって結婚式を格安で挙げた。披露宴は社長同士が知り合いなので中華料理の銀座菜館で、俺の両親と、荒川社長、それに美恵子を実業公論に紹介してくれた「食品流通経済」の成ヶ澤社長の6人だけだった。美恵子の両親には荒川社長が最後まで電話を掛けてくれたが、結局姿を現さなかった。
半年後、新宿日赤病院で、美恵子は帝王切開の手術を受けた。へその緒が首に巻き付いていて、そのまま出産すると赤ちゃんが窒息死するということだった。手術日俺は取材が一本入っていて、どうしても出産に立ち会われなかった。取材を終えて病院に駆けつけると、荒川社長が俺の代わりに美恵子の手を握ってくれていた。「お父さん、男の子ですって、看護婦さんに君と間違えられちゃったよ」、笑いながら荒川社長は言った。美恵子は麻酔が切れると、朦朧とした意識の中でうなり声を挙げ続けた。よほど痛いのだろう。
その後、長女も生まれて、東中野のアパートで二人の子供が育って行った。長男が三歳になる頃、咳き込むようになった。今まで気づかなかったが、国道の環八が近くにあってトラックの排気ガスで100m先は霞んで見える。汚れた空気のせいかも知れない。俺は思い切って自然のある高尾に三間のアパートを見つけて引っ越すことにした。今までのような古びた部屋ではなく、新築で、日当たりも、風通しも抜群だった。樹木に囲まれた環境で、長男の咳は瞬く間に治った。これで美恵子も子供ものどかに暮らせるはずだ、俺は安心した。問題は俺のほうだった。通勤に会社まで二時間かかった。始めの二週間はウンコが細くなってびっくりしたぐらいだ。
それでも俺は仕事に頑張った。中小企業だけでなく大手企業の取材も行った。ニュータウン建設と民間ディベロッパー」と題して、建設省の川上宅地開発課長、西部鉄道・長谷川常務、三井不動産・横井常務、東急不動産・秋元専務、三菱地所・吉野取締役、住友不動産・佐藤常務に取材し、座談会形式に纏め上げ、問題提起した記事になり、広告も全社から取った。余談だが、この半年後、浅間山荘事件で赤軍派の吉野が逮捕されたが、その父親は俺が取材した三菱の吉野取締役だった。エリートコースを歩み次期社長と目されていたが、息子の責任をとってすぐさま辞任した。また、いすゞ自動車の特集も行った。記事・広告を含めると40頁にも亙るもので一人で行った。いすゞの岡本利雄副社長に会うとき、階段を登ると美人秘書が全員廊下に出てお辞儀をする。そこを24歳の若僧がカメラやテープレコーダーの入ったショルダーバックを下げて、赤い絨毯を踏みしめて歩く。だんだんと自分がエラくなったような気がした。この時すでにいすゞはGMと提携していたが、その立役者が岡本副社長で、荒牧社長は実質お飾りでしかなかった。「岡本さん、今後の日本経済の行方は?」と、だだっぴろい応接室で、財界人とサシで渡り合う、これは快感だった。提携を進めた伊藤忠商事の瀬島龍三副社長(のちの会長)やGMのジョンクイック副社長にも、苦労して取材ルートを探して会うことが出来た。ジョンクイックの場合は、通訳を向こうに立ててもらって日本で取材した。ジョンクイックから俺の質問に対して「グッドクエッスチョン」などと言われると嬉しかった。取材は相撲と同じだった。むこうがどんな偉い人でも、土俵に上がれば一対一、鋭い質問や共感を示す相槌を打ってさらに深い話を聞く。相手は質問されているようで、実は俺の存在がいかばかりのものなのか値踏みしながら話しに応えてくるものなのだ。その意味では、このジャーナリストは勉強している、情報も持っている、質問も鋭いといった存在感を示さなければ、相撲に負けて適当にあしらわれてしまうのである。まさに一時間半の取材は一対一の格闘技だった。その格闘技に勝てさえすれば、朝日新聞の経済部記者だろうが、二流の実業公論の記者だろうが関係なかった。俺の存在を相手に認めさせることによって、一流紙に勝てることが出来た。事実何度か一流紙の他紙よりも早く、スクープしたことがある。オイルショックの時、一バーレル40ドルという高値で日商岩井が落札したが、それはその国の機械受注を得るためのバーター取引だった。原油の値をスポット価格でつり上げる役割を果たす代わりに機械を受注していたわけだ。しかし、俺は日刊紙ではない。月刊の一ヶ月先ではスクープでもなんでもなくなるのである。俺はその情報を丸紅の原岡常務(のち副社長)に話した。彼はすぐさま調査した結果事実と判り「谷さん、すごいねー」と褒めてくれた。そうすることによって、丸紅から広告も取れるし、常務の信頼もさらに厚くなる。そういう手法で俺は仕事を広げていった。
「記者というのは眼が大事なんだ。我々は経済誌だから、これは経済の正常化に照らし合わせて、正しいのか間違っているのか、そういう視点をいつも持っていることだ」。そう言って、編集のイロハを教えてくれた小野編集長が、広告が取れなくて責任を取って退社し、宮川、福岡もいつの間にか辞めて、会社は新しい人たちだけになった。俺はよりどころのない孤独な闘いになった。
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