まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

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2020-04-18 | 自叙伝「青春哲学の道」
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電気屋を辞め、また家でごろごろしだしたある日、広告代理店の知人から「広告を手がけている得意先のオカドという会社が傾きかけている。このままだと広告代が回収できなくなる。お前の力ならできる。立て直してくれ」という依頼があった。相模原でトラック100台を持ち引越しを手がける、岡戸総業という運送会社だった。俺も子供二人を抱え、失業中だったので、岡戸社長に会い、企画室長という肩書きで、仕事をするようになった。最も俺は雑誌生活が長くサラリーマン気質ではないことは前回の電気屋で経験しているので、勤めるというのではなく経営コンサルタントとして週5日常勤の請負仕事という形をとってもらった。中に入って調べてみると、常用といわれる物流の仕事より、引越しのほうが5倍も粗利が出ることがわかった。まず、方針としては引越し部門を伸ばし、収益を上げること。次に現状の引越し受注を見ると、チラシ配布、電話帳広告が主軸だった。受付でお客のアンケートを実施させ調べた結果、引越しの売り上げに占める広告料はそのどちらも25%を占めていた。広告料を減らして、売り上げを上げる方法はないか。今でこそスーパー、コンビニのサービスカウンターは多くのサービスを取り上げているが、今から25年前は、ほとんどサービスカウンターを設置しただけで、各流通業も模索状態だった。一方引越し顧客を調査すると、市から同じ市に引っ越すのが3割、隣の県なり市に引っ越すのが3割、他県に引っ越すのが3割という状況だった。そうするとほぼ6割は地域密着の流通業とサービスとして提携できる素地があった。俺は、プレゼンテーションの資料を作り、スーパー、コンビニ、ホームセンターなどの本社を回り、どんどん提携を進めていった。パンフレットを全店舗に置かしてもらい、各流通業の店のチラシにも「引越し承ります」と広告を入れてもらい、受ける電話はオカドに置いて、成約できれば10%の手数料を支払うというシステムだ。
オカドの売り上げは瞬く間に伸びた。次に考えたのは新聞の勧誘である。大手新聞社は新規購読者獲得にしのぎを削っていた。特に引越しで購読が切れるので、俺はそこに目をつけて、またプレゼンを作り、読売、朝日など本社を回った。乗ってきたのが読売である。東京本社の読売新聞は広域だったので、俺の構想は神奈川を中心としたオカド一社ではムリなので、関東全域に読売の引越しを扱う運送会社を募り、読売には引越しの広告を出してもらう。そして受注した引越しの顧客には、引越し翌日から読売新聞が読めますよと各運送会社に勧誘をしてもらう、大まかに言えばこういうシステムだった。読売からGOのサインが出て、このシステムを完成させたら、なんと読売新聞の新規購読が年間1万件も取れた。さらに読売ルートで引越し受注が大幅に増えたことはいうまでもない。しかしその間、岡戸社長は、浮気をしたり、当時不要と思われたコンピュータを一千万円も掛けて導入したり、地獄の特訓という社員研修に膨大な金を掛けて社員全員を行かせたりしていた。俺は、儲かった金で財務体質を強化すればいいのにと思っていたが、人から薦められると何でもOKを出す人のよさが、脇の甘さとなっていた。そんなこんなで、三年半引越センターの仕事をやっていたある日、岡戸社長の別れた奥さんと喧嘩になった。奥さんはまだ肩書きだけは常務として在籍しており、その弟が専務になっていた。詳しい事情は忘れたが、奥さんの時代と経営規模が随分変化しているのにも関わらず、たまたま社にやってきた常務が昔のやり方を持ち出したので「あなたには経営が判っていない。口出ししないで欲しい」とやり合った。「谷さん、もう少しガマンしてくれればよかったのに」と岡戸社長は言ったが、俺はまたまた身を引くことになった。俺はやはり組織や人間関係というものが苦手だったし、身を引く潮時でもあった。岡戸社長は向こう半年間、今までの功績を認めてくれて、毎月30万円退職金代わりに振り込んでくれるという。それなら半年間仕事をしなくても暮らしていける。俺はドラマのシナリオ塾に通うようになった。

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俺はやっぱり「書く」という仕事しか定着できない性格かも知れない。しかし小説を書くには才能がない。とすれば、会話の綴りであるドラマシナリオなら行けるかもしれない。そう思って、読売文化センターのシナリオ塾に通った。先生はシナリオ作家協会の理事でもある須崎勝弥氏だった。映画「人間魚雷」「連合艦隊」などの戦争ものを始め、山口百恵と三浦友和の「潮騒」、テレビでは「青春とはなんだ」など数多く手掛けていたシナリオ作家である。彼はこういうことを言っていた。「ぼくがシナリオを書こうと思ったのは、ぼくは映画を観て感動することができる、これだけ感動できる心があるなら、必ず書くこともできるはずだと、そんな単純で悲壮な決意だったですよ」。なるほど、それなら俺もできるはずだ、俺はシナリオセンターに通い、シナリオの構築やいろんな作家の作法を勉強した。そして「土工漂流記」という一時間もののシナリオを初めて書いて須崎先生に読んでもらった。「うん、ヒットくらいは打てるかもしらんがホームランは無理だなあ」、と言われたが、とりあえずNHKの公募に出してみた。そして次に知人から双葉社のマンガ雑誌の担当者を紹介してもらって、マンガの原作シナリオを5.6本書いて見てもらった。担当の林さんは読み終えた後、「一度釣りバカ日誌のようなコンセプトで書いてもらえませんか」というので、サントリーの「なんでもやってみなはれ」という佐治社長と京都営業所から宣伝部に赴任した遊び人の主役を織りなしたマンガの原作シナリオを書いた。林さんはそれを読んで「谷さん、やりましたね」とエライ褒めようだった。よっしゃあ、これで食っていけると思ったら、後日、林さんから電話が入って「編集長に物語が前半後半二つに割れてると却下されました。すみません。お詫びに次号のクイズに応募してもらってハガキに赤い縁取りをしてもらえば、当選にして一万円送ります」。俺は連載を企画していたので宣伝部にひょんなことから配属される主人公の一回目を書いたのだが、才能の無さに落胆してしまった。年末になってNHKのドラマシナリオ公募の発表もあったが、これも落選、岡戸社長からの振り込みも期限切れになって、またカミさんから金の催促をされる始末になった。もはやディエンドである。

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さて、どうするか、急きょ金を手に入れるには、ここはまたどっかに身売りするしかない。俺は年明けすぐに新聞の就職ランから二つを選び、二つの面接をどちらに行くか迷っていた。二つとは焼き鳥屋と経営誌である。前の出版社の実業公論編集長時代に一度ペンを折ったことがあったので、もう経済記事を書くのはイヤだった。で、焼き鳥屋に勤め、焼き鳥を焼いて、余った時間で小説を書こうか、あるいは、やっぱり経済誌のほうが経験はあるし収入は安定するだろうしと、焼き鳥屋と出版社とどちらにするか迷っていた。しかし、とりあえず四谷にある経営政策研究所という「経営コンサルタント」という経営誌を発行する出版社に面接に行った。塩月修一といういかつい社長の面接となった。面談後、「君は編集より、営業がいい。給料は25万円」と塩月社長から言われた。当時、俺はもう39歳になっていたし、長男が中学生、長女が小学高学年だったので、最低30万円ないとやっていけなかった。それで塩月社長に「営業でもいいです。しかし、三ヶ月雇ってみて、こいつは使えると思ったら30万円に上げて下さい。その代わり、使えないと思われたら、ちゃんと三ヶ月でハラを切って辞めますから」「面白いことをいう奴だな、よし、それで行こう」。面接はOKとなった。
「営業」と聞いて、俺にとっては経済記事を書かなくて済むから願ったり叶ったりだった。雑誌「経営コンサルタント」は経営誌といっても、やはり体質は経済誌だった。各大手企業から広告や購読を取ってナンボの世界である。しかし社員20名で月商5000万円を上げる優良企業だった。朝日、読売、日経新聞など全紙に五段二分の一、週刊誌と同じ広告スペースで毎月一千万円以上をかけて広告を打っていた。塩月社長はプラトンの二頭引きの馬車を信じていて、人間には長所と悪い怠け癖がある、だから悪い面を叩けば長所だけになる、という単純な発想で、こっぴどく社員を罵倒するやりかただった。後日思ったことだが、異常なまでの怒号は一種の狂気じみた人格障害があったように思う。俺は生活のためと、雑誌づくりが好きだったので、その後10年以上持ちこたえられたが、その間に入社して辞めて行った社員は100人以上にもなる。社員20数人の会社でだ。なかには塩月社長の罵倒にアワを吹いて卒倒した人もいれば、身体や心を壊して去っていった人も多い。社員に対して罰することはあっても褒めたり賞することは一切なかった。ところで話を戻すと、三ヶ月間で実績を示すと言ってしまったので、企画書を作り、財界人に次々と塩月を連れて行って対談させ、(営業は朝出社するとすぐ外回りに出なければ雷が落ちるので)喫茶店で、その対談を記事に仕上げ、対談者の秘書室長や広報部長に持っていって、広告もゲットするのである。このようにして、次々と新規の広告を取っていった。三ヶ月すると塩月は約束どおり俺を営業部次長に昇格させ、給料を30万円にアップしてくれた。ところが、営業部長である一宮専務が俺に反感を持つようになった。突然入って成績を上げたので、塩月は俺を褒めるかわりに、朝礼で他の営業部員を「おまえら何年この仕事をしてるんだあッ」と罵倒し始めたからだ。一宮は他の営業部員を喫茶店に集め、いつも親分を気取り「塩月はだめだ」とグチばかりこぼしていた鉾先が、いつしか俺に向かうようになった。俺は雑誌の虫である。雑誌を作り出すと楽しくて、ついつい人間関係を忘れて打ち込んでしまう。しかし一宮は塩月に反感を持っていて「仕事をするな」という。俺は次第に塩月と一宮の狭間に立って、いつの間にかその軋轢で緊張感が頂点に達していたようだ。それと帰りはいつも午前様で6時過ぎには家を出、睡眠時間3時間という日が何日も続いた。それまで元気で体のことは全く考えなかった。ストレスなんて言葉は俺にはなかった。ところが半年たったある日、手の甲に沢山のイボができるようになったり、夕方、突然目に光の波が何十にも走り、事務所で横になることもあった。

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そしてある日のことだった。冷房の利いた応接室で三時間、新宿の大手不動産会社の広報担当常務と話をして外に出て、しばらく部下と二人で歩いていた時だった。突然めまいがし、息苦しくなって、動けなくなり、道端で倒れてしまった。真夏の炎天下だというのに身体が異常に寒い。呼んでくれた救急車の中で、遠のく意識を必死で手繰り寄せながら、「ああ、俺は死ぬんだなあ」と実感するほど、異様な苦しさだった。慶応病院の救急処置室に運ばれ、結果は、過呼吸症候だった。つまり、何らかの不安によって、浅い呼吸が速くなり、血中の酸素濃度が急に高まって、手足のしびれやめまいを生じさせるというもので、「しばらく休んでいれば治ります」と医者から言われた。後から知ったことだが、これで水前寺清子は新幹線を止めたり、高木美保はトレンディドラマの出演をやめたという。しかし、医者から言われたほどそんなに簡単な病気ではなかった。その日以来、身体がだるくってどうしょうもないのである。俺は二週間アパート近くの病院に入院したが、一向によくならず、三ヶ月、会社を休職した。すると塩月社長が一宮の運転で見舞いに訪れ「少しづつでいいから、出社しろ」と言ってくれた。家では身体がだるくて、ほとんど寝ていたが、やがて、生活のこともあるので、頑張って出社するようになった。しかし、とても以前のように仕事ができない。道を歩いてもフラフラするし、なにしろ身体がだるい。熱があるのかと体温計で計ると、やはり微熱がある。にっちもさっちも行かない状況である。とにかく、生活がある。辞めるわけにはいかない。俺は月給泥棒を決め込んだ。朝、とりあえず出社すると、中央線に乗り込んで、二時間近くをかけてアパートに帰り、寝て、また夕方出社して、デタラメな営業日報を社長に提出した。勿論それだけではクビになるので、月のうち10日くらいはフラフラしながら都心の会社を訪問し、ある程度の営業成績は上げておいた。その数字でも他の人にヒケはとらない営業成績だった。しかし、途中で何度も過呼吸の発作に襲われ、その度に、袋を口に当てたり、公園のベンチで横になった。本当に自分でどうなっちまったんだろうと、判らなかった。仕事中に、大学病院や総合病院を何箇所も訪れ、内科から神経科から検査を60種類もしてもらったが異常は見られなかった。石堂さんというノンフックションライターに駒込病院の精神科を紹介され、教授に診てもらうと「これは、あんた、治らないよ」とまで言われてしまった。

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結局病名もわからないまま、二年間、処置方法のわからないまま、そのような状態が続いていた。今から思えば、病名をつけると過換気症候群や不安神経症でもあったろうし、パニック障害、うつ病、慢性疲労症候群でもあったろう。いずれにしても、ストレスでアタマがパンクし、脳内のセロトニンという神経への伝達ホルモンが激減したようだ。しかし、当時は病院に行っても、そんなことも判らず、フラフラと歩き、公園のベンチで寝る日々が続いていた。ある日、会社の近くに「万病に利く」という看板が目につき、その唐木心療内科クリニックで診て貰った。すると「あなたは自律神経失調症」と初めて病名が付いてほっとした。副医院長というその医者は「七度三分くらいの微熱が続くのも、そのせいで、八度くらい上がる人もいるぐらいです」という。「とにかくこの薬を続けてください」。一日三回、その調合された薬を飲むと、微熱はなくなり、元気か少し回復し、今まで十分の一だった体力が五割くらいまで回復したようだった。ところがこの薬は保険が効かず、その後200万円以上、薬代を払うことになった。しかし元気には代えられず、数年が過ぎた。ある日、また薬を貰おうとクリニックを訪れると、突然、医者が代わっていた。「このクリニックは閉鎖になりました。ぼくはその整理をしています」。副医院長という医者は実は医者の免許を持っていなかったことが発覚したらしい。医院長は高齢で、その息子さんがやっている原宿心療内科にあなたの処置は引き継いでもらうとその医者は言った。そして、あなたが飲んでいた調合の薬は、漢方で味付けしたものに、向精神薬のホリゾンと精神安定剤のドグマチールを混ぜたもので、いずれも健康保険が利く薬ですと言われた。俺は騙されて高額な薬代を支払っていたわけだが、元気を少しでも取り戻してくれた恩人でもあり、複雑な気持ちになった。そして、以来、ホリゾンとドグマチールを今でも飲み続けている。そんなに長く精神薬を飲み続けて、副作用がないわけもなかろうが、半分でも元気が取り戻せているのでそれでいいと思っている。

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話を戻して、その薬で、ようやく半分の力まで出せるようになったので、また、少しづつ仕事が出来るようになった。入社して五年もした頃、一宮がとうとう塩月に耐えられなくなって、会社を辞め、新たな出版社を立ち興した。俺はほっとした。一宮にも苛められ、塩月にも日夜怒鳴られていたが、まだ塩月のほうが、男としての社会に対する闘いの情熱というものには純なものがあり、怒鳴り散らして社員の使い方はまったくヘタだったが、男として尊敬できる一面もあった。それから数年して俺は取締役になった。ハデな新聞広告を出し、表面的には一流経営誌の様相を呈し、経営も順調だった。経済誌というのはペンを武器に広告を取る、いわゆるブラックジャーナリズムと言われるのが普通だが、三井信託銀行の広報部長などは「谷さんところはホワイトと評価しています」と言われたぐらいだ。ところが塩月社長は次第に持病の糖尿病が悪化し、入院が長引くようになった。俺が49歳、足掛け十一年勤めたある日、塩月はこの世を去った。塩月の奥さんは、これを契機に会社を解散すると言った。ぼくは20数人の生活もあるし、この会社は閉じなくとも立派にやっていけると奥さんを説得し、奥さんを社長、俺が副社長、塩月の三女を専務に据える新体制を取った。俺は、番頭で十分だった。俺は塩月の三女を将来の社長に据えるため、以前から彼女に当初編集をやらせ、そののち営業をやらせ、出版社経営のイロハを教えてきた。しかし、まだ二十代で軽薄な一面もあって、会社の代表印を渡すわけにもいかず、奥さんに社長になってもらって重しになってもらう、そのうち彼女が成長したら、社長にさせるつもりだった。ところが、彼女がある著名な評論家とホテルで取材後一夜を共にしてしまい、あげくの果て、子宮外妊娠し、手術で卵巣まで摘出してしまった。その頃から情緒不安定になっていたことを俺だけが知っていた。塩月の葬儀が終わって、あいさつ回りに出かけていたある日、奥さんがいる前で「あなたはハラ黒い」と俺に突然食って掛かってきた。自分が社長になれなかったこともあり、急に俺への罵倒が始まり、誰からかへんな入れ知恵をされたのかとも思ったが、俺もハラが立って、「そこまで言うのなら、ぼくはこの会社を辞めます」と席を立った。その後、電話で俺は奥さんに「彼女は精神的に病んでいるので、休ませて上げてください。元気になったらまた戻ればいいのですから」と言った。しかし奥さんは「自分の娘を精神病扱いにした」とぼくの辞表を受理した。なんとも無念な話しだった。ぼくは失業保険で、一年近く、もんもんとした気持ちでパチンコを打ち続けた。一年後、奥さんにふっと電話をいれると、奥さんは「あなたには大変申し訳ないことをした。あなたの言うことは本当だった。あれからやっぱり娘は異常な行動を取って、お得意先に怪文書をバラまいて、大変なことになって、もうこれ以上続けるのは恥ずかしいので会社を解散し、今、残務処理をしているところです」。ぼくはまた無念な気持ちになった。

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失業保険で暮らしているさなか、なんとか自分の今までの文学性の総結集とも言える「存在の彷徨」という哲学小説が完成していた。俺にとっては文学への関わりあいの遺作とも言える作品だった。埴谷雄高の「死霊」とサルトルの「嘔吐」に影響を受けた、「存在する意識」をテーマにしたものだった。俺は五木寛之審査委員長のノンフィックションの「親鸞賞」に応募した。小説だが意識というテーマではノンフィックションだったからだ。しかしあまりにも実験的な文体だったので、公募には一次予選も通過せず、落選した。しかし、世間では愚作であっても、自分には文学に対する遺書のようなものだった。それなりに満足し、俺はこれで永久に文学から足を洗おうと思った。丁度この時期に親友二人と叔父が相次いでこの世を去った。親友二人はともに高校時代からの友人だった。そして二人とも京都から東京に出てきたという縁がある。ひとりは津岡良一君。彼は一人っ子で身体が小さかったコンプレックスからか、一浪して、高崎経済大学に入ると、空手部に所属した。俺もその頃もう上京していたから、高崎まで彼に会いに行ったことがある。二年の時だったから「ポンチュ、先輩のシゴキがきつくてのう。来年になったら先輩側になるから、なんとか頑張るワ」とこぼしていた。そして卒業後、東京の証券会社に勤めたが有価証券がなかなか売れず、やめて、京都に戻った。その後、大阪本店の宝石販売の芝翫香に入社、再び東京支店に配属された。東京に来て、俺が立会人になって結婚し、三人の男の子の父親となった。日ごろはいい男なのだが、酒好きで、酒を飲むと竹刀を持って、子供たちを追っかけまわすというから奥さんは怯えていたようだ。仕事のほうは、東急百貨店の宝石売り場など15店舗を総括する立場にまで出世した。その後バブル崩壊で、均衡縮小となり、東京店は閉鎖、女房子供を東京に置いて、単身大阪店に呼び戻された。「ポンチュ、生きるというのは辛いのう」。彼はそう言って大阪に旅立って行った。出会うといつも「まいどー」という挨拶で始める彼は、漫才のやすきよのやっさんのような性格だった。
もうひとりは新谷忍君。彼とは高校二年の時に同じクラスで意気投合した。若き日の西郷輝彦のような美男子だった。将来は学校の先生になることを夢見て、新潟大学の教育学部に入った。そこまではよかったのだが、入部した体育クラブのシゴキに遭って、耐えられず、学校を辞めてしまった。両親に学費を出してもらっていたので京都の実家には居られず、俺のいる東京のアパートに居候した。その後、銀座にある映画倫理委員会の事務局に勤めるようになったが、局内には一流大学の高学歴者ばかりで、三年くらいで辞め、建材新聞という業界紙の記者になった。そこも四年ほどで辞め、今度は田町で沖ナカシをやっていた。そしてしばらくして彼は京都に戻り、「新大阪」という夕刊紙の社会部記者になって活躍した。その後また業界紙の記者に転職し、49歳で肺がんを発病した。「ポンチュ、咳すると痰に血が混じってた」。いつも掛けてくる電話の向こうで、彼は結核を恐れていたが、肺がんだった。翌年、彼は50歳の若さでこの世を去った。そして彼の御通夜の席で「50歳か、若すぎるなあ」と言っていた津岡良一が、三ヶ月後、京都伏見の実家近くで若い暴走族らしきものに襲われ、あっけなくこの世を去った。また、読売新聞に勤めていたジャーナリストの先輩の叔父も同時期他界し、俺は僅か半年の間に最も大事な三人も弔辞を読むことになった。人生は一度っきり。そういう思いが強く心の中で渦巻いていた。

(21-最終章)

人生は一度っきり。なら、「存在の彷徨」や今までの掌編小説を含む俺の作品をなんとか活字にしたいと思った。そして俺はそれらを活字にするため、「いのちにふれる」という新雑誌を立ち上げた。社名を30代にフリーになった時につけたキングコング社とした。社印も残っていたからだ。アパートの三畳一間を仕事場にし、創刊号は、俺の原稿だけでは印刷するだけ大赤字になるので、広告がもらえそうな大企業の経営者に軒並み取材のアポを取った。その一人に住友不動産の安藤太郎相談役がいた。安藤氏は住友銀行副頭取から頭取候補に敗れ、住友不動産の社長に転出、それまで住友グループの一財産管理会社だった同社を、高層ビルの建設を柱に、あれよあれよという間に三井不動産、三菱地所と肩を並べるほど急成長させた同社の中興の祖である。俺は彼に約二時間のインタビューを試み、創刊号に四ページモノの記事を載せたら、広報部長が「谷さん、非常によく纏まっていて、当社の社内報に転載させてもらってもいいですか」と言ってきた。勿論かまいませんよと応えたが、後日オフレコとしてどうしても聞きたいことがあったので、安藤相談役と再び会った時、問うてみた。野村秋介の一件である。土地が急騰したバブル時代、同社は住友商事と共同で東京近郊の町田を大規模に地上げしたことがある。そのやり方に「悪徳不動産・住友」と叩かれ、極左のような新右翼の野村秋介が同社に乗り込んで安藤太郎に詫び状を書けとせまったものだった。野村秋介とは後日、朝日新聞社本社で抗議の割腹自殺をしてご記憶の方もいるかもしれない。俺は安藤相談役に問うてみた。「で、どうされましたか。野村秋介は右翼といっても極左のような人物、金では決着つかんかったでしょう」。「いや、オフレコですが、こっちが6000万円、住友商事も6000万円、金をある人を介して渡しました」「野村秋介が金を受け取る、ちょっと信じられませんね」「確かに受け取りましたよ。後日、本人から礼状がきましたから」。記者というのは信用してくれるとこんな秘話でも話してくれる。「まあ、いろんなことがありましたが、みんな墓場まで持っていきますよ」、安藤相談役は自嘲気味に笑いながら、そう語っていた。また日経連副会長でメルシャンの鈴木忠雄社長は、ガンを告知され、それを克服した話をしてくれ、やはり創刊号に四ページモノで掲載したが、広告をもらったことはいうまでもない。そうこうして印刷代はペイし、創刊号は書店にも並べてもらった。これで自分の遺書は活字になった。これで文字通り、文学とはおさらばである。長い間引きずってきた「文学」とおさらばと思うと、その裏で苦労してきた妻の美恵子に今まで苦労をかけ申し訳ない気持ちで一杯になった。これからは金儲けに徹し、カミさんをラクにしてやろう。俺にとって、それが次の目標となった。金儲けというのを目標にしたのは49歳にして初めてだった。俺はせっかく創刊した雑誌だし、これを見本誌として、これからは金儲けのために継続して雑誌を作ることにした。「いのちにふれる」という自分の作品集の雑誌タイトル名はそのままにして、「明日の子供たちのために、いのちを大切にする視点から、人と企業の社会活動を考えるオピニオンリーダー誌」と、企業モノにコンセプトだけは大きく変更した。そして、自律神経の持病を抱え、ヨロヨロしながらも大企業経営者や雑誌の格を上げるために多くの著名人にも会った。経営は軌道に入り、いつしか、三畳一間から事務所を構えるようになり、自営業から資本金1000万円の株式会社にもした。そして中古だが一軒家を購入し、30年にわたるアパート暮らしからおさらばすることもできた。「これで大家に嫌味言われて家賃払わなくてすむわ。あたし、門扉のある家に住みたかったの」と、美恵子は嬉々として喜んだ。しかし体力はもう限界にきていた。足かけ七年を経たのち、ささやかながら蓄えも少しできたので、俺は、意を決して、会社を清算した。58歳で現役引退である。今から思うと、塩月によって、俺は病気になり、そして今もその病気を抱えているが、塩月に学んだからこそ、独立も出来たと思っている。塩月はいつも言っていた。「人生は闘いじゃあ、闘って、闘って、闘いまくれ。そして己に勝って、味方に勝って、敵に勝つんじゃあ」と。また実業公論の荒川社長や小野編集長にもいろいろ勉強させてもらった。出会ったいろんな人たちにも人生の勉強をさせてもらった。ロッキード事件で田中角栄を逮捕した堀田力は検事から福祉の世界に転身し、「思いを強く持ち、自分のいのちを捜すこと」と人生を説く彼は、未だにさわやか福祉財団の理事長として全国の福祉のNPOを応援している。陸軍士官学校出身の中條高徳はアサヒビールの営業担当の副社長としてキリンを抜きアサヒをトップの座まで導いた男だが、名誉顧問になった晩年に至るまで気迫に満ちた鋭い眼光は変わらなかった。その眼差しに学ぶものがあった。介護や居酒屋「ワタミ」の渡邊美樹会長は、「仕事とは人間性を磨くためにある」と言っていた。また俳優から参議院議員に転じた木枯し紋次郎こと中村敦夫は「谷さん、人生は所詮死ぬまでの暇つぶしですよ」と言っていた。世間でダーティーと言われた人たちにもよく会った。サラ金大手の武富士の創業者武井保雄会長は深谷出身でいつも産地のネギを送ってくれていたが、「人生は常に波動をキャッチし、そして無欲を欠くな」と言っていた彼は、京都のお寺の地上げがらみで暴力団とのイザコザがあり、それを嗅ぎ付けた記者宅に盗聴器を仕掛けるなど、晩年恐怖を感じ、異常な行動を示していた。読売新聞務台社長の懐刀といわれ、中部読売新聞社社長から地産グループを率いた竹井友康、彼はその後戦後最高といわれる53億円の脱税で三年半のムショ暮らし、波瀾万丈の人生に、晩年彼は名前を心泉と改め「今は、自分を拝みたいような自分になりたい」と言っていた。何千人とインタビューや対談をしてきたが、中小企業のおやじにしろ著名人にしろ、世に何かをなした人というのは、なにかしら学ぶところがあった。また、いろいろ恨みもし、感謝もし、人生とは複雑なものだが、とにもかくにも俺なりのジャーナリズム人生はこうして終わった。機械工として油まみれになって俺たちを育ててくれたおやじを見て、「資本家に搾取され安い賃金で働かされているだけじゃねえか。俺はおやじみたいに絶対なるもんか」、そう思ってヘンテコリンな人生を送ってしまった俺を見て、おやじはきっと墓場で笑っているに違いない。どもりだった俺が、以来、文学とブラックジャーナリズムの狭間のなかで、それなりに社会に対してサシで勝負してきた人生に、ある意味納得はしている。が、今も病気の後遺症で何をやっても神経が二時間しか持たず、空疎な心にパチンコ台と「闘い」格闘し続けているしかないとはなさけないが、女とは勝手なもので、何不自由ない生活が手に入ると、パチンコ通いの俺に「あなたは夢のない情けない男」と罵倒された時があり、激怒した俺は区役所で離婚届をもらい、女房に突き出したこともあった。確かに「闘い」を忘れた男は情けないに違いない。それは自分が一番よく知っているところだった。しかし「闘う」ことを忘れた俺は、もう、人生の終末に近づいているのだろう。  (完)

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