まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

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2020-04-18 | 自叙伝「青春哲学の道」

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1973年、俺は25才になっていた。当時国鉄(現在のJR)は膨大な赤字を抱え、政府は運賃値上げ法案を通そうとしていた。赤字の元凶は借金の利子と貨物にあると言われていたが、俺はそれだけではないという情報を掴んだ。当時労働組合のドンといわれていた合化労連委員長の太田薫である。俺はさっそく太田薫に取材を試みた。彼は「その赤字は国鉄一家といわれる国鉄官僚と、その背後にいてこれを操る大蔵(今の財務省)官僚が、国鉄経営に関係がある企業と癒着して、膨大な利潤をつかみ、役得を得て、そこから出る損失を国民に転嫁しているに過ぎない」と資料を片手に言い放った。資料を見ると、鉄鋼・電機・土木・通運・サービス業などに、社長や重役で天下っているものだけで1200人、部長以上では2000人も天下っていた。そしてその取引の殆どは競争入札ではなく随意契約である。太田は新日鉄、車両会社など、民間関連企業に対する発注単価の利益率の公表をすべきだと言った。俺はさっそく、篠原春夫国鉄資材部長にインタビューを試みた。そして、新日鉄の大内俊司常務、川崎重工の横山勝義常務にも取材を試みた。「資材を徹底追究する」(太田)、「企業育成こそ国民の利益」(篠原)というタイトルに、レールを納めている新日鉄・大内の「実情は原価を割っている」、車両から川崎重工・横山の「業界の大手術はなにゆえか」という10頁の相対する活気ある記事を纏め上げた。好評だった。この記事で知り合いになった新日鉄の大内俊司(のちの山陽特殊製鋼会長)が月刊現代で、経済小説作家の清水一行に伏魔殿と叩かれた。大内は新日鉄会長永野重雄の大番頭で、永野は自らの子会社で私服を肥やし、それを大内が処理していたらしい。大内常務は俺に清水一行と会わせてもらえないだろうかと言ってきた。俺は清水一行に電話をかけ、大内常務が会いたいと言っている旨を伝えると、清水一行は「あなたも同じジャーナリストなら会えないことぐらい判るでしょ。大内さんに言っておいて下さい。こちらには検察の資料があると。ただヘンな動きをしなければこれ以上書かないと」。俺はそのまま大内に伝えた。大内は、受話器の向こうで何回も、ありがとう、ありがとうと繰り返し、のち、アパートにお礼のワイシャツ仕立券を送ってきた。そして後日、大内は「販売代理店の三社の社長に電話を掛けておいたから回りなさい、広告をくれるから」と言ってきた。俺は純粋なジャーナリストを目指している。経済の正常化に照らし合わせて、正常か否か、小野さんに教えてもらった記者の眼でモノを書きたいと思っている。しかし経済誌は広告で食っている以上、その限界が明らかにあった。企業人とも仲良くしていかなければ雑誌を刊行できない一面があった。いい記事を書けば書くほど、ペンが汚れていくようだった。「いやあ、あなたの記事は素晴らしかった。芥川賞の小説よりよかったよ」。日立製作所の下請、オリオン化成の山腋泰虎社長は、俺の日立の下請け対策の記事を読んで感動してそうも言ってくれた。只単に日立のちょうちん記事でなく、下請けから取材した外注政策の課題といったものまで、某協力企業幹部とニュースソースを伏せて書いたからだろう。また、住友不動産の安藤太郎社長とキャバレー王の福富太郎と対談させたこともあった。安藤太郎、通称アンタロウは住友銀行頭取の椅子を巡って堀田に破れ、副頭取から住友不動産社長に転出した男だ。福富太郎はキャバレーを何店舗も持つ南海開発社長として、テレビで人生相談なんかにもレギュラー出演していた。しかし、話が若干かみ合わなくて、俺はこのままで記事にするとマズイといささか捏造した。この対談記事のゲラを見て福富は「ぼく、こんなこと言ったかなあ、君記事書くのうまいねー」と言い、「ぼくは単行本を何冊も出しているんだけど、ぼくのゴーストライターやらないか、印税は全部君にあげるから」と誘われたこともあった。また、福富はスタジオで会った女優の大原麗子に惚れたらしく「君の雑誌で大原麗子と対談やらせてくれ。費用と段取りは全部こちらで持つから」と言うから対談させたこともあった。席上で福富は大原に向かって「いやあ、この記者がどうしても大原さんと対談してくれってうるさいもんだからね」、俺は下を向いて噴出してしまった。俺は広告も取らなければいけないという経済誌の範疇の中で、どうにかしていい雑誌にしようと多彩な企画で精一杯仕事をしていた。ある日、丸紅の原岡常務が自ら揮毫した色紙をくれた。「巧言冷色少なき仁」。まるで自分のことを言われているようだった。人間としてこういう人生を歩んでいていいのだろうか。何かが違う。心の奥底では、やっぱり銭金に関係のない文学という純粋な小説を書くしか自分自身を納得させることは出来ないと思っていた。しかしアパートに帰ると、妻と子供二人がいて、気分的に書ける状況ではなかった。文学に対する精神的な緊張感と平和な日常生活とは相反するものだった。やがて俺は28才になり、俺は思い切って、東大近くの本郷に二畳一間のアパートを借りた。美恵子に「小説を書きたいから、アパートを借りた。月曜から金曜まで、そこで夜小説を書いて通勤し、土曜日曜とここにいる」と告げた。突然の別居生活に美恵子は驚いたに違いない。しかし俺は自分の文学の事で「書かなければならぬ」と心が一杯だった。アパートと言っても間切りした二畳、窓もなく布団と小さな机を置けば足の踏み場もなかった。しかし静かに小説が書ければそれでよかった。ベニアで仕切った隣から時折老婆の咳が聞こえた。夜になると仕事から帰ってきて、俺は孤独の中でペンを走らせた。しかし半年しても納得のいく作品は書けなかった。自分の才能の乏しさに、ひしひしと絶望的になっていった。「すまなかったねえ、自分の我がままで淋しい思いをさせて。頑張ったけど書けなかった。本郷のアパートは引き払うよ」、俺は美恵子にそう言って詫びを入れた。美恵子は今まで我慢していたのか、その場に泣き崩れた。

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東京丸の内のビジネス街。まだ陽も登らない薄暗い早朝に、背広姿の男たちがネズミのように慌しく徘徊している。その中のひとりが俺だ。各大手企業の守衛室に名詞を置いていく仕事だ。これをしないと午前中の予約が取れなくなる。俺は九時近くなって名詞を置いた大手町ビルの9階にある三菱地所の総務受付に行く。ここで再び若い受付の女性が点呼をしていく。その時にいなければハネられるのだ。そうして呼ばれた者は隣の待合室に通される。そこで午前中約40人が「おつきあい」を待つ。「おつきあい」というのは何だといえば、大企業の総務課あるいは庶務課で、「賛助金」あるいは「賛助広告費」なるものを出していたのである。待合室には、総会屋、暴力団、右翼、業界紙誌、経済誌、それに交通のみどりのおばさんの会報誌まで、様々の人種がやってくる。名前を呼ばれると別室に入る。すると担当者がいて、数百枚以上はあるカードから俺のカードを抜き出す。「はい、実業公論さんね、二万円の領収書、書いてッ」「あのう、値上げを・・」「ダメダメ、後ろが混んでるんだから、早く書いてよ」、そう言って担当者は胴まきから二万円を取り出す。こんな具合だ。待合室に戻ると、エナメルの靴ごと机に脚をのっけて、靴を拭いている男が「おいッ、早くしろよッ」と叫んでいる。ここで、こういうヤカラの話をしてみよう。
まず、昭和30年代には「ばんざい屋」というのがいた。軒並み大企業本社の玄関口で、○○商事ばんざーい、と大声でやるのである。企業にとっては有難迷惑な話である。そうすると総務担当者が出てきて、ちっとこちらへと別室に連れて行き、幾ばくかの金を渡す、その金を家業にしているのが「ばんざい屋」である。次に「廊下トンビ」。これは国会の議員会館の廊下をウロウロするヤカラだ。右の先生のところに行っては小銭を貰い、左の先生に行っては小銭を貰い生計を立てているヤカラだ。それに「エセ」。出身を名乗って、企業から金を取る。「右翼」。我々は資本主義を守ってるんだと、企業に義勇金を募る。これはもともと、60年安保の時に、時の岸首相が、反政府勢力に対抗するために、右翼の大物・児玉誉士夫に頼んで、全国の右翼を統一させ闘わせたので、企業は金を出すようになった。それから、「総会屋」。これにはピンキリがあって、企業の株主総会進行の幹事役を務める総会屋はその企業から「先生、よろしく」と多額の金を貰うが、キリのチンピラ総会屋は3000円ほどだ。三菱グループは右翼か総会屋かわからない「防共挺身隊」という軍服を着た男たちが出入りしていた。昭和50年ごろまで、15分でシャンシャンと株主総会を終わらすよう、既存の幹事役総会屋が牛耳っていたが、小川薫率いる広島グループが上京し、株主総会を大声を張り上げて荒らすようになった。そうすると嶋崎ら既存の総会屋が暴力団を使って対抗するようになり、小川薫も暴力団を使うようになった。やがて暴力団は総会屋は儲かると勉強して、一気に企業を回り金を取るようになった。そのうち軒を貸した総会屋が暴力団に母屋を取られるようになり、昭和60年代になってやむ無く当局も商法を改正し、賛助金をやる側も罰するようになり、総会屋の数も次第に減っていった。「業界紙誌」。これらは各業界にそれぞれあって、「業界の発展のために」という名目で、購読や広告を取っている。次に俺の業界の「経済誌」、これについては次で話すこととするが、いずれにしてもこういうヤカラが夜明けと共に企業を徘徊し、一回に3000円から10万円を手にするのだ。何故大手企業はこんな金を出すのかというと、大きな企業ともなると、いろいろ脛に傷があるもので、それらを穏便に隠すための保険みたいなものだ。担当者にとっては社内でも闇の仕事なので、担当者になると出世は閉ざされ、何十年と配置換えもされず、ひたすら猛者連中のお相手が仕事となる。総会屋とはこんなに儲かるものなのかと、逆に担当者が馬鹿馬鹿しくなって総会屋に転進したものもいるし、どうせ出世はできないからと、値段を上げてやるかわりにバックリベートを要求し、懐を潤す担当者もいた。

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さて、経済雑誌業界というものはどういうものか。筆頭に立つのが、昭和31年総理大臣になった石橋湛山を輩出した週刊「東洋経済」。これは経済誌の中でも別格で、広告や金でペンを折らない唯一の経済誌といってもいい。それから週刊「ダイヤモンド」、「実業の日本」「フォーブス」「プレジデント」などが出版社としてある。しかし経済誌は売れないので東洋経済やダイヤモンドでも発行部数6万部前後だ。これらに次ぐ経済誌は「トリ屋」的なところが殆どだ。「トリ屋」というのは、企業に食い込み、広告を取るということだ。もともと昭和30年代、小学館の週刊ポストや講談社の週刊現代が発刊され、広告スポンサーを得るため、梶山秀之などトップ屋を使って企業のスキャンダルやスクープ記事を書かせた。そこに雑誌に企業が金を出す下地が出来て、この30年代に経済誌の創刊が相次いだ。三鬼陽之助の「財界」、それまで議員会館の廊下トンビで「フェイス」を発行していた佐藤正忠が改題した「経済界」、財界の編集長をしていた飯塚が3万人のための情報誌として独立した「選択」、同じく財界出身の針木の「経営塾」(のちBOSSに改題)、若林の「インテリジェンス」、インテリジェンスの副社長をしていた渡辺の「リベラルタイム」、鳥飼の「財界展望」、油井の「実業界」、久保の「ジャパンポスト」、大河原の「実業往来」、そこの編集長をしていた荒川の「実業公論」、そして実業公論の営業をしていた高橋の「財界にっぽん」などが市販されていた。市販と言っても書店に並んでいるという広告を取るための口実だけで、実売部数は殆ど1万部を切っていた。しかし、雑誌コードを得て市販しているのはまだいい方で、雑誌コードのない経済誌がそのほか多数あった。経済誌で成功するのは、声が大きいこと、厚顔無恥であること、金に執着すること、権力欲を持っていることなどが上げられる。ジャーナリストとは程遠い世界だった。そういう主幹、あるいは社長が、ペンを武器に、財界人に食い込み、広告やPR代と称して金をせびるのである。なかでも「経済界」の佐藤正忠はその典型だった。ステッキを編集者の机に打ち続け「銭の取れる記事を書け」と叱咤した。銭の取れる記事というのは、広告を取るための企業スキャンダルのことである。それらは企業を脅す材料にも使われる。「経済界」はそうやって年商80億円にもなり、某政治家の紹介状を差し出され佐藤正忠に肩入れしていた三井銀行の小山五郎頭取みずから「所詮トリ屋が80億もとっちゃあいかん」と嘆かせた。経済小説家の高杉良が週刊朝日で佐藤正忠の娘婿に聞いた同人をモデルとした「濁流」という小説を連載、単行本にもなった。新日鉄の永野重雄から土地を譲り受けたり、ミサワホームの三沢社長に脅しをかけたり、一字だけ変えてあり小説と謳っていながら、それらはすべて事実だった。佐藤正忠はこの小説に激怒し、朝日新聞社を名誉毀損で訴えた。そうすると、どう和解したのか定かでないが、それ以降朝日新聞に「経済界」の広告が載るようになった。また商社のイトマンの河村社長にも脅しをかけ、一億円をせしめた。また、鳥飼の「財界展望」と油井の「実業界」は、タタキ記事とちょうちん記事ばかりだった。広告をくれない企業をタタいて見せしめにし、広告を取る政策に徹底していた。企業は広告では目立つので、記事広告と称し、有料の記事広告、いわゆるちょうちん記事を載せるようになった。「ジャパンポスト」の久保は事件屋というタイプだった。久保は児玉誉士夫と一緒に大陸に渡った仲で、恐喝事件で四度も逮捕されている。特に東京ガスには食い込んだ。というのも、東京ガスの安西浩会長が副社長の時、社長の座を10年も禅定されず、児玉誉士夫を使って、前社長を追い出し、社長の座を射止めたのである。それを知っている久保は東京ガスと関連企業から多額の広告料をせしめていた。また、「財界にっぽん」の高橋社長に話しを聞いたことがあるが、企業の担当者の接待や、高価な壷を担当者にやって広告をとったり、そちらのほうが忙しいので、自分の雑誌など何が書かれているのか見たことがないと言っていた。経済誌では編集者の地位は低かった。それは領収書代わりの雑誌さえつくればよかったのである。それから最近「リベラルタイム」が公明党の矢野元委員長を連載で叩いているが、これも創価学会とのバーター記事である。創価学会の広報部長が、金を積んで書かせているのである。これらから見ると、実業公論は可愛いほうだった。もともと経済誌は営業に強くなければ成り立たない業界だが、荒川社長は編集出身だから「報道は社会の公器」と真面目だった。しかしその反面、広告はとれず、社内はいつも火の車だったのである。

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昭和52年、いすゞ自動車は岡本利雄新社長に代わって以来、業績を上げ続けた。その時俺はあえて「いすゞは本当に立ち直ったか」と4頁モノの記事を書いた。いすゞを憂う社員の声を取材し、迫力を欠く攻めの経営、競争原理のない購買政策などを指摘した。あるいすゞの重役が「谷さん、すごいね。岡本社長があなたの記事を重役会議にかけて、ここに書かれていることはすべて事実だ、あなたたちはどう思うと、谷さんの記事をテーマに重役会議が開かれたよ」と話してくれた。俺はまんざらでもなかった。雑誌は新聞のように今日あったニュースを書くものではなく、問題を掘り下げ、提起することにある、それが雑誌ジャーナリストだと思っていた。しかし、前述したように、いくらやっても、現実的には総会屋やトリ屋と窓口は同じなのである。そういうところで同じように広告を頂く。その自己矛盾を抱えたまま仕事をすると、時折、心が破れそうになった。昭和56年、俺が33歳になった時、俺はあるスクープを掴んだ。それはちょっとした新聞記事から繋がっていった。フランスベッドの山田副社長が退任と、それだけの人事異動記事だったが、山田博康副社長には、実業公論に入社したての頃、一度会って取材をしたことがある。俺は山田の自宅に電話を入れ、長らくフランスベッドの池田実社長と一緒にやってきたのに、どうして辞めたのか、会って聞くことになった。山田はすでにライバルのベッドメーカーである日本ローランドに転出していた。山田は池田実社長の怨念もあってか、池田社長の実態についていろいろ暴露した。韓非子という君主に権力を集中する中国戦国時代の書を座右の銘とした池田実は、販売代理店をあくどい手口で乗っ取ったり、営業部長が自殺したり、今ではいささか忘れてしまったが、反社会的な経営をしていた。俺は、販売代理店の社長や営業部長の母親にもウラをとった。これはどんなことがあっても許せない、俺はペンを走らせた。すると、どこから聞き及んだのか、池田社長の秘書から、実業公論の荒川社長に電話が入った。「谷君、池田社長が会いたいと言ってるよ」。会えばペンが鈍るかもしれない、俺は躊躇していた。荒川社長には取材内容について何も報告していなかった。「どういうことか知らないが、とりあえず、会うだけ会ってみなさいよ」。池田社長はホテル・ニューオータニのだだっ広い貴賓室で待っていた。「あなたが谷さんですか、何を書いておられるか解りませんが、私の両肩には社員とその家族一万人の生活がかかっています。なんとか鉾先を収めてもらえませんか」。俺は茶を濁すような返答しかしなかった。そうすると隣の部屋から、右翼の大物が現れてきた。「財界ふくしま」の主幹をしている竹内陽一である。竹内は日本の右翼のドン・児玉誉士夫の子分で、ジャパンポストの久保と同じく、児玉と一緒に大陸に渡った間柄である。「福島から今朝の便で飛んできましたよ。あなたが谷さんですか、随分お若いですね。どうですか、一緒に勉強しましようよ」。竹内は微笑んでそう語ったが、眼は鋭く笑っていなかった。竹内は福島の政商小針グループにも食い込み、雑誌には小針傘下の企業がズラリ広告を出している。また竹内は事件屋とも言われ、何か企業に事件があると食い込んで億単位の金にするといわれていた。俺は竹内の凄みに些かたじろいだ。このまま拒絶すれば竹内の顔を潰すことになり、俺は回答を保留した。「せっかくお会いできたんですから、ちょっと付きあって下さい」、池田は俺と竹内を高級車に乗せ、新宿のクラブに連れて行った。美人揃いのホステスが男たちの間に座った。池田はブランディーを飲みながら、「どうです?いい店でしょう。ここは、うちの組合の委員長がやっているんですよ」。酒に弱いこともあったが、俺は、ほとんど無口だった。しばらくして「じゃあ、これで失礼します」と俺は席を立った。車を回すというが、アパートの場所を知られるのもまずいと思い、「電車で帰りますから」と言って出て行った。外に出るとさすがに緊張感で、大きくため息をひとつ付いた。何度か後ろを振り向いたが雑踏の中で誰かにつけられているのかどうかさえ判らなかった。

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「まだお若いじゃあないですか。一緒に勉強しましようよ」、その言葉を発した竹内の眼は明らかに「夜道は怖いよ」を物語っていた。フランスベッドの池田社長と竹内には、雑誌に書く、書かないは保留のまま、数日が過ぎた。しかし会社を出て、中央線に乗る時は、一度電車に乗って、ドアーが閉まる直前にホームに降りるという行為を何度かやった。万が一、つけられて、アパートにいる美恵子や子供に危害でも及ぶと大変である。ところが四日ほど経った月曜日、出勤してみると、ひっくり返されて足の踏み場もない事務所の中で、荒川社長が「谷君、事務所荒らしだよ」と血相を変えていた。俺の机も引き出しも荒らされていた。「谷君、例の一件じゃないか。君の原稿を探しに来たんじゃあないか。谷君、何を書いてるか知らないが、もう止めようよ」。会社に金目の物は無いし、こんな事務所荒らしに遭ったのは初めてだった荒川主幹は完全にビビっていた。確かに荒らし方からみて単なる物取りの犯行ではなく、竹内の配下の者の威圧的な犯行のようでもあった。乗っ取りはする、自殺者は出るといった反社会的な池田社長の行為を雑誌上で断罪することは、金に何度も寝てきた俺のジャーナリストとしての最後のプライドでもあった。しかし、まるで安っぽい小説のような現実の推移に、荒川社長は狼狽し、俺も身の危険を感じなくはなかった。俺は荒川社長に催促され、池田社長に電話をして、再びオークラの貴賓室で会うことになった。「池田さん、ペンを折ることにしましたよ。但し、広告も金もいりません。しかし、ぼくもジャーナリストの端くれです。念書を一枚頂きたい」。池田社長は初めは躊躇したが、俺の意志が固いのが解って「書きますが、絶対外部には出さないでください」と言い、池田は「もう二度と反社会的な行為はしない」という直筆の覚書き書を書いて俺に手渡した。俺は結果的にはペンを折った。経済雑誌はもういいと思った。念書を一枚懐にして、入社して11年、33歳で取締役編集長だった俺は実業公論を辞めた。
「ねえ、明日からどうするの?」、突然会社を辞めて、家でゴロゴロしている俺に、妻の美恵子は心配そうに言葉をかけた。周りで小学校三年の息子と一年の娘が訳もわからずはしゃいでいる。俺は金もないくせに生活の不安というものは全く感じていなかった。むしろ男としてこれからどう生きる、生き様ばかりを考えていた。世間的、外見的にはジャーナリストで、スーツを着こんで、財界人と数時間もサシで渡り合って、それなりにカッコいい生き方だった。しかし心の中は、金を稼ぐだけのペンだったし、俺にとってスーツは生き様を汚した作業服にしか過ぎなかった。「土工作業員募集」、新聞折込の中に、建設現場の仕事が眼に止まった。肉体労働がいいかも知れない。単純な俺は、工事現場で働くようになった。「オイッ、もっと早く掘れよ」、言われるままに、スコップで土を掘り、上げる。何日か続けていると、怠けていた身体の節々が痛かった。しかし、それが過ぎると、飯がうまかった。実に、うまかった。これは俺の天職だとさえ思った。

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労働というのはこういうものを言うんだ、石を積み上げたり、スコップで土を掘る、俺は、ドロンコになっても、スーツを着こんでいた時にはない全く新しい爽やかさを心に感じていた。昼飯には仲間と一緒に弁当を食べた。俺は土方人生を送ろう、そんなことを考えていたある日、工事現場で、建設機械のユンボーのバケットが、操作のミスで、丁度屈んでいた俺の頭上をかすめ、隣の作業員の頭を直撃した。同僚の作業員はその場に倒れ、アワを吹き、痙攣をおこした。周りの作業員がみんな取り囲んだ。「救急車だあ」と俺は叫んだ。そうすると大男の古株が「救急車はだめだ、この現場で二回目の事故だから、バレると営業停止になる」「なに言ってるんだい、会社より人命が大事だ、誰か救急車を呼んでくれッ」、俺がそう叫ぶと、大男は俺の胸倉を掴み「おいッ、新入り、舐めた口を叩くと、腕をへし折るぞお」っと言うなり、一発顔面にコブシを浴びせられた。周りの人間は見ているだけだった。俺は走って、公衆電話から救急の電話をかけた。やがて救急車が来て、俺は、タンカで運ばれる作業員と一緒に救急車に乗り込み、医療センターに行った。アパートで俺は美恵子に言った。「情けねえよ。言ってみれば土方なんて末端の集まりじゃねえか、お互い助け合っていけると思ってたのに、そういう社会の底辺でさえ、人間より会社のほうを優先するなんて、実に情けねえ」「あなたねえ、そういうところほどヒドイものよ」「夢見てたのかなー」。俺には腕力がない。事務所に行けばあの大男に腕をへし折られるかも知れない。その怖さと夢が壊れた落胆で、俺はまた土方をやめて、家でゴロゴロしだした。二週間ほどして、アパートに突然、ケガをした作業員が全快したらしく訪ねてきた。お互い名前も知らないのに、俺の住所を事務所で聞いてきたんだろうか。「その節は、ありがと。俺、これから東北の現場に行くんで」。立ち話で、お礼をボクトツに言って、その作業員は立ち去っていった。

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「汚れちまった悲しみに」、人間というものは汚れながら生きていくものかもしれない。俺は土方の仕事を辞め、次は何をしようか、タウン誌を作ろうと企画書まで作ったがうまくいかなかった。それなら編集プロダクションとしてフリーになろうと思った。就職雑誌のリクルートの門をたたき、リクルートが発行する「住宅情報」の仕事を請け負いで手掛けた。新築の住宅を取材し、徒歩何分でスーパーがあるとか4頁モノの記事を書いて誌面の割り付けまでして一本3万円だった。こんなコピーライターしてるんなら、まだ経済誌のほうがマシだなあとも思えた。しかしもう経済誌の仕事はしたくなかった。そんな折、実業公論を辞めてマーケッティングの仕事を共同経営していたミヤガワ君からお声がかかった。クライアントはいすゞ自動車のマリンエンジン部のようで、暇だったら仕事を手伝ってくれとのことだった。いすゞが千葉県の漁港にあるマリンエンジンの販売店の動向、店主の要望や規模の情報を収集して販路の拡大につなげたいらしい。俺は了解して、知人にもらったポンコツの車を飛ばして二週間泊まり込みで指定された千葉県の漁港の各販売店のオーナーを取材した。言われたようにクライアントの名前は伏せて、「協会の関係で来ました。業界発展のためにお話しを聞きたい。伺ったことは統計処理しますので一切個人的なことは表に出ませんのでご安心ください」、ミヤガワに言われた通り、こう言って店主を安心させ、個人情報を得るのである。二週間で終える一仕事が30万円にもなったので、俺は京都にも飛び、やはり同じスタイルで今度はヤマハの依頼でバイクの販売店を回ったりした。しかし、これは体のいい「産業スパイ」である。世にいう「マーケッティング」「市場調査」という多くは産業スパイみたいなものである。こんなバイタの身売りのような仕事じゃ心が痛んで、実業公論を辞めた意味はねえ、俺はそれ以降ミヤガワの仕事を断った。しばらくまた家でゴロゴロしてると、「あなた、もうお金ないわよ、明日から生活どうするのよう」、預金通帳片手に美恵子が俺に詰め寄った。

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「こいつはヤバイ」、緊急避難的に仕事をしなければ食っていけなくなった。しかし俺は生活苦というのには程遠い人間である。武士は食わねど高楊枝、ではないが、金というものにまるで執着がない代わりに、生活苦というものに怯えもなければリアリティーというものがまったくないのである。その意味で妻である美恵子はずいぶん苦労したに違いない。ところで、チンケな仕事しかないなら活字世界はもういい、俺は新聞で探して「家庭科学」という電器量販店に面接に行った。店舗が8店舗ほどあり、従業員は50名ほどいた。社長面接の終わり頃、「34歳ですか、ギリギリの年齢ですが、採用決定としましょう。ただし特異な経歴なのでどういう仕事をしてもらうか、とりあえず商品センターに行ってもらいますか」、と社長は自分自身に言い聞かせているのか、俺に言っているのかよく判らない言い方をした。こうして俺は量販店の商品センター、つまり倉庫係となった。メーカーから届く冷蔵庫やテレビなどメーカー別に山積みになったものを、各店舗の店員が軽トラックに積んで持っていくのを型番ごとにチェックするのが主な仕事だった。勿論その出し入れも手伝うし、各店舗から大量に持ち込まれる空のダンボール箱を平坦に積み上げていく作業から、便所掃除まで俺の担当だった。汚れた便器を洗っていても苦にはならなかった。何メートルもダンボールを積み上げ整理していく作業も、なんだか清々しかった。三か月ほど過ぎると「少しは型番覚えただろう」と、吉祥寺店のラジカセの売り子に回された。客が来ると接客するのだが、客はどの機種がいいのかわからない。当時ラジカセがブームで100種も展示されていて、俺だってわからない。数日してこれじゃあ売れないとすぐ気がついて、一つアリスの曲をデモテープにして、全部大きくかけてみた。するとシャープの機種が最大にかけても音が割れず、東芝の機種は少し大きくしただけで割れた。そこで客が来ると「いらっしゃいませ」と声を掛け、迷ってそうな客には「そうですねー、この機種だと、ほれ、こんなに大きくかけても音が割れませんが、こっちだと、ほらこのように割れてしまいます」、とデモテープで聞かせると「これください」と即決になった。どんどん売れる情報は即座に伝票の打ち込みから社長の耳に届き、吉祥寺の音響部門が大きく数字を伸ばしていると話題になった。シャープの営業マンもやってきて「あなたが谷さんですか、沢山売って頂いてありがとうございます」とわざわざ礼にきた。しかし同僚から妬みの声も届いてきた。ラジカセだって、クラッシックやポップスなどジャンル別にいろいろ特長があるんだ、音量だけで一律に売るというのはいかがなものかというのである。それもそうだと思うけれど、そんな難しいこと言ったら即決できなくなる。第一客から苦情はこないし、むしろあのラジカセ買ってよかったわ、と再来店の客に言われたこともあった。量販店では月に一回、全社員がホールに一同に集まり、赤いハチマキを占めて、「売るぞおー」っと決起大会も行った。そんな電気屋に半年ほど勤めたある休日、通勤も兼ねて使わせて貰っていた店の軽自動車で近くの相模湖に魚釣りに出かけた。たまたま同僚がそれを見かけたらしく、翌日、上司に私用で使ってもいいのかと喰ってかかっていた。俺はすぐ「責任をとります」と辞表を出した。「今後注意すればいいことだし、こんなことぐらいで辞めなくてもいいじゃないか」、と社長にそう言われたが、俺にとって会社勤めというのは性に合わず、どうも限界だった。足の引っ張り合いという人間関係にも馴染めなかった。その頃もちびちび小説らしきものを書いていたが、納得のいくものは相変わらずまったく書けなかった。

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