ぼくには長年の親友が二人いた。ともに高校時代からの友人だ。そして三人とも京都から東京に出てきたという縁がある。ひとりは津岡良一君。彼は一人っ子で身体が小さかったコンプレックスからか、一浪して、高崎経済大学に入ると、空手部に所属した。ぼくもその頃もう上京していたから、高崎まで彼に会いに行ったことがある。二年の時だったから「ポンチュ(ぼくのあだ名)、先輩のシゴキがきつくてのう。来年になったら先輩側になるから、なんとか頑張るワ」とこぼしていた。そして卒業後、東京の証券会社に勤めたが有価証券がなかなか売れず、やめて、京都に戻った。その後、大阪本店の宝石販売の芝カン香に入社、再び東京支店に配属された。東京に来て、ぼくが立会人になって結婚し、三人の男の子の父親となった。日ごろはいい男なのだが、酒好きで、酒を飲むと竹刀を持って、子供たちを追っかけまわすというから奥さんは怯えていたようだ。仕事のほうは、東急百貨店の宝石売り場など15店舗を総括する立場にまで出世した。その後バブル崩壊で、均衡縮小となり、東京店は閉鎖、女房子供を東京に置いて、単身大阪店に呼び戻された。「ポンチュ、生きるというのは辛いのう」。彼はそう言って大阪に旅立って行った。出会うといつも「まいどー」という挨拶で始める彼は、漫才のやすきよのやっさんのような性格だった。
もうひとりは新谷忍君。彼とは高校二年の時に同じクラスで意気投合した。若き日の西郷輝彦のような美男子だった。将来は学校の先生になることを夢見て、新潟大学の教育学部に入った。そこまではよかったのだが、入部した体育クラブのシゴキに遭って、耐えられず、学校を辞めてしまった。両親に学費を出してもらっていたので京都の実家には居られず、ぼくのいる東京のアパートに居候した。その後、銀座にある映画倫理委員会の事務局に勤めるようになったが、局内には一流大学の高学歴者ばかりで、三年くらいで辞め、建材新聞という業界紙の記者になった。そこも四年ほどで辞め、今度は田町で沖中氏をやっていた。そしてしばらくして彼は京都に戻り、「新大阪」という夕刊紙の社会部記者になって活躍した。その後また業界紙の記者に転職し、49歳で肺がんを発病した。「ポンチュ、咳すると痰に血が混じってた」。いつも掛けてくる電話の向こうで、彼は結核を恐れていたが、肺がんだった。翌年、彼は50歳の若さでこの世を去った。そして彼の御通夜の席で「50歳か、若すぎるなあ」と言っていた津岡良一が、三ヶ月後、伏見の実家近くで若い暴走族らしきものに襲われ、あっけなくこの世を去った。また、読売新聞に勤めていたジャーナリストの先輩の叔父も同時期他界し、ぼくは僅か半年の間に最も大事な三人も弔辞を読むことになった。特に親友の二人は、ぼくにとって高校時代から30年、苦楽を共にしてきた間柄だった。無念としか言いようがない。それから10年経った今も、ぼくは車の中で、津岡の好きだった石原裕次郎の「地獄花」を大声で歌って彼を思い出し、新谷が作詞・ぼくが作曲した歌を歌って新谷を思い出している。
もうひとりは新谷忍君。彼とは高校二年の時に同じクラスで意気投合した。若き日の西郷輝彦のような美男子だった。将来は学校の先生になることを夢見て、新潟大学の教育学部に入った。そこまではよかったのだが、入部した体育クラブのシゴキに遭って、耐えられず、学校を辞めてしまった。両親に学費を出してもらっていたので京都の実家には居られず、ぼくのいる東京のアパートに居候した。その後、銀座にある映画倫理委員会の事務局に勤めるようになったが、局内には一流大学の高学歴者ばかりで、三年くらいで辞め、建材新聞という業界紙の記者になった。そこも四年ほどで辞め、今度は田町で沖中氏をやっていた。そしてしばらくして彼は京都に戻り、「新大阪」という夕刊紙の社会部記者になって活躍した。その後また業界紙の記者に転職し、49歳で肺がんを発病した。「ポンチュ、咳すると痰に血が混じってた」。いつも掛けてくる電話の向こうで、彼は結核を恐れていたが、肺がんだった。翌年、彼は50歳の若さでこの世を去った。そして彼の御通夜の席で「50歳か、若すぎるなあ」と言っていた津岡良一が、三ヶ月後、伏見の実家近くで若い暴走族らしきものに襲われ、あっけなくこの世を去った。また、読売新聞に勤めていたジャーナリストの先輩の叔父も同時期他界し、ぼくは僅か半年の間に最も大事な三人も弔辞を読むことになった。特に親友の二人は、ぼくにとって高校時代から30年、苦楽を共にしてきた間柄だった。無念としか言いようがない。それから10年経った今も、ぼくは車の中で、津岡の好きだった石原裕次郎の「地獄花」を大声で歌って彼を思い出し、新谷が作詞・ぼくが作曲した歌を歌って新谷を思い出している。
42年前というと、彼が日本橋東急店勤務時代かな?
「片思い」なんて、もったいない(笑)。彼は女好きだったから、ちょっと頑張れば成就できたかも(笑)。
彼はいい男でした。
京都伏見の出身で、一浪してた頃は、よくおいらの家に遊びに来てました。長い間の無類の親友で、思い出は絶えません。
4月8日が彼の命日。
8日になるといつも彼の写真を前にして、月命日をやっています。
彼のこと、好きでいてくれて、ありがとう!
津岡は、バブル崩壊で芝翫香が東京撤退のあと、単身赴任で京都伏見から大阪本社に通ってました。ある休みの日、親戚の人と実家で飲んで、最寄の駅に送っていった夜の帰り道、暴漢に襲われました。
血だらけで家になんとかついて、父親に「若いもんにやられた。二階でちょっと寝る」、そう言って、意識がなくなって、二か月病院で意識不明のまま、とうとう亡くなりました。享年51歳でした。
警察は女性の怨恨の線で捜査していました。
ぼくにも伏見警察から電話がきました。
ぼくは、警察に、ひとから恨まれるような男ではない。
むしろ、暴走族の線が濃いといいました。
やっさんの性格のような津岡はたぶん、帰り道、酔ったせいもあって、通りがかった暴走族の車とイザコザがあって、空手もやってたから、ケンカになって、金属バットのようなもので頭を強打されたのではないかと推測しています。
結局犯人は判らずじまいでした。
その後、残った奥さんと子供三人が大変でした。
津岡は、酒を飲むと暴力的になるので、奥さんはパニック障害になって、新幹線も乗れない状況でしたので、顔も見せない嫁ということで、津岡のご両親とはソリが悪く、その後の生活が大変でした。
まあ、canacoさんも片思いでよかったのかも知れません。
暗い話ばっかりしてしまってごめんなさい。
奴との、楽しい思い出、うれしい思い出だけを胸に留めましょう。
奴とは、人生の戦友でした。
奴の話ができるなんて、canacoさん、来てくれてありがとうございました。
葬式の日、友人代表で「桜が咲くたび、君を思い出すだろう」って弔辞を読みましたが、今、桜が満開です。
ぼくも昨日、仏壇を前に、津岡を思いました。
もう奴が逝って20年にもなるのに、ぼくは毎日奴の遺影を観ながら、語り逢っています。
canacoさんもまだ思っていらしゃるなんて、津岡は立派に生きています。
ありがとう!
複写がヘタでボケててすみません。
彼が40代の頃の写真です。
とても懐かしいです。
大切にします。