■製作年:1972年
■監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
■出演:クラウス・キンスキー、エレナ・ロホ、ルイ・グエッラ、デル・ネグロ、他
随分と年月が経って映画を見直して見ると印象や感動が違うことがあります。このヘルツォーク監督の「アギーレ 神の怒り」もそんな映画の一つです。若い頃この映画が公開された時、それこそ30年近く前のことになる、に見た時は自然の雄大さの印象は残っているものの、言われているほどいい映画には思えませんでした。しかし、この歳になってもう一度見てみるとなんと過激な映画だったんだろうと発見させられたのであります。若い頃はいろいろ見落としながら見ていたのかななんて思います。とにかく6月にヘルツォークの映画祭を見てから この監督のことが気になっていたわけです。
さて、「アギーレ 神の怒り」は全編アマゾンの密林と激流の中で展開されています。今でこそ映像技術が発達しこのような映像はCGを含む特撮で眩暈がするような迫力映像を作りあげてしまうのでしょうが、この作品はそうしたことがなく、素の状態で厳しいアマゾンの密林に対峙しているのです。それが実はこの映像に、割と淡々と撮っているにも関わらず、ただならぬ深みを与えているのです。たとえば、映画の冒頭場面です。そこはエルドラドを目指すため現地のインディオを従え険しい山超えのところを描いているのですが、行くは道なき道、画面からは疲労によるのかくすんだようなどんよりした重苦し空気しか伝わってきません。それは空気をも伝えてくる過激な映像なのであります。裏話として実は中世スペインの甲冑を纏いながらも撮影機材の運搬手段がなくスタッフ、役者がそれを運んでいたといいます。
あるいは、アギーレ(=クラウス・キンスキー)らが筏でアマゾンの激流を降っていくところがあります。河の流れはそれこそ台風が襲った時のような荒れ狂う氾濫した流れにしか見えません。そこを現地で丸太を結わいて調達しましたという、如何にもみすぼらしい筏(だから逆にリアルとも)で甲冑を纏ったまま降っていくわけです。カメラはそれをまるでドキュメンタリーの映像のように捉えていきます。ほんのちょっと間違えると沈みかねない?もし激流に呑まれたら役者たちは大丈夫なんだろうかと勘ぐってしまうほど死の危険が隣り合わせにあるように見えます。これを過激と言わずしてなんと言えばいいのでしょう。若い頃はそんな過激さを見落としながら見ていたのでした。
狂気の演技を見せるクラウス・キンスキーが演じるアギーレはエルドラドを目指す一行の副隊長として参加しているのですが、途中、反乱を起こし部隊の実権を握ります。やがて彼の権力欲、征服欲は肥大化し、スペインから独立する。メキシコのようにこの地を征服すると宣言します。しかし、部隊の人数は多くはない(20~30名程度か)、彼らは熱病にうなされ、食糧はつき飢えており、陸地のインディオからは狙われ、アマゾンの奥地へと進んでもその出口が見えません。圧倒的なアマゾンの密林に囲まれアギーレの言葉は説得力がなく一人よがりの誇大妄想狂にしか見えません。大自然の中のちっぽけな存在、彼が俺は神の怒りだと叫んだところで、揺るぎはしない。アギーレ一人を残し部隊の全ての者が死に筏の上には猿の群れが舞うばかりである。
この映画はフランシス・フォード・コッポラの代表作「地獄の黙示録」に影響を与えたといいます。両作品のもとになったのはジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」。抑制された演出のため一見地味な感じがしますが、根底にある過激さは隠しきれない過剰なフィルム。闇の奥の向こうには何が見えるのか。筏の上に一人仁王立つアギーレ。怪作というか奇作、不思議な映画なのであります。
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