247『自然と人間の歴史・世界篇』パックス・ブリタニカ
パクス・ブリタニカ(ラテン語でPax Britannica)とは、19世紀のほぼ全体を通じてのイギリス資本主義のあり方をいう。この国は、17世紀後半からは強大な海軍力をバックに世界各地に進出し、当時の世界市場に乗り出すにいたる。また、これを自らの力を頼んで形成していく。新大陸やインドなどでの植民地を経営するとともに、その旺盛な活動により、国際商品市場から国際金融支配までをほぼ支配することで当時の世界経済秩序を先導していく。
その基(もとい)としてのイギリス経済には、18世紀後半からの産業革命が新興ブルジョア階級を次々と輩出することで、国力を大いに発展させていく。一説には、その様子は、国内での資本蓄積を重視していく中で徐々に国力を伸ばしていったというよりは、この国がいち早く世界市場に打って出る戦略をとったことが大きな力となった。後者の立場をとる歴史家の河野健二は、こういう。
「民族的規模で農工分離を基礎として成立する自立的な再生産=流通圏を『国民経済』」と名づけることができるとすれば、イギリスはむしろ初発から『国民経済』の枠組みをみずから外に向かって解放し、他民族、他地域の経済との連関を積極的に作り出すことで、はじめて自立し完結することができたのであり、したがってイギリス一国をとってみれば、あまりにも過小な農業と過大な輸出工業というバランスを失した構成であり、その姿は十九世紀全体を通じて構造的に固定化する。逆にいえば、イギリスは『国民経済』的な条件を度外視し、突破したからこそ、世界資本主義体制の中枢部分として生産を発展することが可能であったわけである。」(河野健二『西洋経済史』(岩波全書)
これにあるのは、「過小な農業と過大な輸出工業というバランスを失した構成」のイギリスであって、そうでありながら、19世紀を通じて世界の盟主となることができた。そうであるなら、バランスのとれた国民経済の発展の土台の上にイギリスを中心とする世界経済が成立したのではなく、世界経済へいち早く参入し、これを支配することでイギリスの国内経済の発展が可能になった、ということになるであろう。
そのパクス・ブリタニカも、19世紀の後半少し深まってからは、徐々にかつての制裁を失っていく。20世紀のマルクス経済学者のスウィージーは、こう述べている。
「イギリス資本は、新しい諸地域における競争の可能性に直面せざるをえなくなったばかりでなく、差し迫ったことでないにしても、それが永年にわたって築いた地位から追い出される危険さえもつに至った。
その直接の結果は、帝国の紐帯(ちゅうたい)を締め堅めることであり、あらゆる面で攻勢的な植民政策を復活することであった。アフリカは、1875年にはその10パーセントに満たぬ部分が外国の支配下にあったにすぎないのに、つづく25年間にはヨーロッパ諸国によってほとんど完全に分割されてしまった。いまだ北米大陸の未開拓地域の定住化に没頭していた合衆国さえが、米西(アメリカとスペイン)戦争の結果として19世紀末には、植民地保有国の仲間入りをした。」(ポール・M・スウィージー著・都留重人訳「資本主義発展の理論」新評論、1967)
(続く)
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