新383『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤田伝三郎)
藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう、1842~1912)は、実業家にして「政商」の顔をも持つ。生家は、長州の萩(現在の山口県萩市)において酒造業を営むほかに、掛家(かけや)と呼ばれる金融業を営んでいて、その辺りでの資産家であった。その四男として、のんびりというか、自由奔放に育ったようである。
幕末期には萩藩の尊王攘夷運動に加わり国事に奔走する。高杉晋作が率いる奇兵隊に参加することはなかったものの、その周辺で支援の行動をしていたようだ。
維新後は、政府に任官せずに大阪に移る。1869年(明治2年)、たまたま軍靴製造を始め、陸軍用達業者となる。そのきっかけは、長州藩が陸軍局を廃止したおり、不用になった大砲や小銃、砲弾、弾丸などの払い下げを受けたのが、その後の商売の元手を与える。これを請けた伝三郎は、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の混乱がなお残る大阪に搬送し、転売して巨額の儲けを得た。
1880年(明治14年)には、藤田組を創設する。それからほどなくの1883年(明治17年)には、官営小坂鉱山の払下げを受けて、これまた莫大な利益を得る、それからは、事業を拡張していく。要するに、鉱山業を中心に諸事業を興す。その間、1877年(明治10年)に勃発した西南戦争や朝鮮への出兵などにも、三井、三菱などに伍して関与し、政府軍に軍靴や軍服などを納入して、政治家との人脈も拡大していったに相違あるまい。
1878年(明治11年)に西南戦争が終結すると、軍需からの脱皮を図る。それからは、長州閥を生かしての商売スタイルにより、小阪鉱山、十和田鉱山、大森鉱山などを手にしていく。やがては、それらにあきたらず、大阪紡績、阪堺鉄道の創設に参加するなど、幅広の分野で事業を手掛けていく。果ては、実業家の間での紛争などでの調停や斡旋を手掛けていく。大阪商法会議所頭となるなど、関西財界の巨頭に登っていく。
そんな藤田が、児島湾開墾事業(現在の岡山市)に食指を動かす。ここでの干拓は、もともと備前岡山藩がすすめていたのだが、廃藩となって工事が止まっていた。そんな話は、1880年頃から始まったようなのだが、旭川沿岸の水利権や漁業保証の問題が絡んでいた。しかし、狙いを定めたからには、諦めない。おりしも、「干拓を進めたい旧藩士たちは、資金難に陥って伝三郎を頼った。これによる儲けはさほど見込めないが、伝三郎は了承した」(宮本又郎編著「明治の企業家」河出書房新社、2012)とされていて、1899年(明治32年)に着工する。こうして藤田は、やがて児島湾淡水湖化までの発展と、干拓による数千町歩の耕地造成へと、そうした藤田組の取り組みの基礎をつくる。
そんな私生活では、どういうことであったのだろうか。珍しいところでは、現在の大阪市都島区綱島町に藤田美術館があって、こんな説明文がある。
「明治の終わりごろ、大阪の実業界で幅広い活躍をした長州出身の豪商、藤田伝三郎の宏壮な邸宅がこの地にあった。彼は事業のかたわら、資力に物をいわせ多くの古美術品を買い集めていたが、第二次世界大戦で、倉庫三棟と高野山から移した多宝塔をのこして邸宅は焼失してしまった。
昭和25年(1950)、残った倉庫を改造し美術館を設立、同29年から公開している。
所蔵品のなかには、「紫式部日記絵詞」「玄奘三蔵経」などの国宝9点、重要文化財43点などがある。また、庭園には築山やすぐれた石造美術が配置されている。」(造幣局泉友会編「通り抜けの桜」創刊元社、1985)
その人付き合いということでは、「伝三郎は人前に出ることを嫌い、会社へも出社せず、財界の集まりにもマスコミの取材にも応じていない。自邸で多くの人に応接したという」(前掲「明治の企業家」)から、かなりの人見知りであったのだろうか。珍しいところでは、「一方、慈善事業にも金を惜しまなかった。早稲田大学の理工科の創設、慶應義塾大学の旧図書館の建設など、教育関係にも多額の寄付をしている」(同)というから、晩年は、自分だけの栄達でもって満足していないことでは大いに評価されて然るべきだろう。
藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう、1842~1912)は、実業家にして「政商」の顔をも持つ。生家は、長州の萩(現在の山口県萩市)において酒造業を営むほかに、掛家(かけや)と呼ばれる金融業を営んでいて、その辺りでの資産家であった。その四男として、のんびりというか、自由奔放に育ったようである。
幕末期には萩藩の尊王攘夷運動に加わり国事に奔走する。高杉晋作が率いる奇兵隊に参加することはなかったものの、その周辺で支援の行動をしていたようだ。
維新後は、政府に任官せずに大阪に移る。1869年(明治2年)、たまたま軍靴製造を始め、陸軍用達業者となる。そのきっかけは、長州藩が陸軍局を廃止したおり、不用になった大砲や小銃、砲弾、弾丸などの払い下げを受けたのが、その後の商売の元手を与える。これを請けた伝三郎は、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の混乱がなお残る大阪に搬送し、転売して巨額の儲けを得た。
1880年(明治14年)には、藤田組を創設する。それからほどなくの1883年(明治17年)には、官営小坂鉱山の払下げを受けて、これまた莫大な利益を得る、それからは、事業を拡張していく。要するに、鉱山業を中心に諸事業を興す。その間、1877年(明治10年)に勃発した西南戦争や朝鮮への出兵などにも、三井、三菱などに伍して関与し、政府軍に軍靴や軍服などを納入して、政治家との人脈も拡大していったに相違あるまい。
1878年(明治11年)に西南戦争が終結すると、軍需からの脱皮を図る。それからは、長州閥を生かしての商売スタイルにより、小阪鉱山、十和田鉱山、大森鉱山などを手にしていく。やがては、それらにあきたらず、大阪紡績、阪堺鉄道の創設に参加するなど、幅広の分野で事業を手掛けていく。果ては、実業家の間での紛争などでの調停や斡旋を手掛けていく。大阪商法会議所頭となるなど、関西財界の巨頭に登っていく。
そんな藤田が、児島湾開墾事業(現在の岡山市)に食指を動かす。ここでの干拓は、もともと備前岡山藩がすすめていたのだが、廃藩となって工事が止まっていた。そんな話は、1880年頃から始まったようなのだが、旭川沿岸の水利権や漁業保証の問題が絡んでいた。しかし、狙いを定めたからには、諦めない。おりしも、「干拓を進めたい旧藩士たちは、資金難に陥って伝三郎を頼った。これによる儲けはさほど見込めないが、伝三郎は了承した」(宮本又郎編著「明治の企業家」河出書房新社、2012)とされていて、1899年(明治32年)に着工する。こうして藤田は、やがて児島湾淡水湖化までの発展と、干拓による数千町歩の耕地造成へと、そうした藤田組の取り組みの基礎をつくる。
そんな私生活では、どういうことであったのだろうか。珍しいところでは、現在の大阪市都島区綱島町に藤田美術館があって、こんな説明文がある。
「明治の終わりごろ、大阪の実業界で幅広い活躍をした長州出身の豪商、藤田伝三郎の宏壮な邸宅がこの地にあった。彼は事業のかたわら、資力に物をいわせ多くの古美術品を買い集めていたが、第二次世界大戦で、倉庫三棟と高野山から移した多宝塔をのこして邸宅は焼失してしまった。
昭和25年(1950)、残った倉庫を改造し美術館を設立、同29年から公開している。
所蔵品のなかには、「紫式部日記絵詞」「玄奘三蔵経」などの国宝9点、重要文化財43点などがある。また、庭園には築山やすぐれた石造美術が配置されている。」(造幣局泉友会編「通り抜けの桜」創刊元社、1985)
その人付き合いということでは、「伝三郎は人前に出ることを嫌い、会社へも出社せず、財界の集まりにもマスコミの取材にも応じていない。自邸で多くの人に応接したという」(前掲「明治の企業家」)から、かなりの人見知りであったのだろうか。珍しいところでは、「一方、慈善事業にも金を惜しまなかった。早稲田大学の理工科の創設、慶應義塾大学の旧図書館の建設など、教育関係にも多額の寄付をしている」(同)というから、晩年は、自分だけの栄達でもって満足していないことでは大いに評価されて然るべきだろう。
(続く)
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