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○154の2『自然と人間の歴史・日本篇』惣の掟(室町時代)

2020-09-26 21:33:10 | Weblog
154の2『自然と人間の歴史・日本篇』惣の掟(室町時代)

 ここに「掟」というのは、鎌倉時代末期から室町時代にかけて、農村部における「農民の結合体」である惣(そう)において、彼らが世俗集団として生きぬくための約束事にほかならない、例えば、こうある。

 「延徳元年(1489年)条
  定 今堀地下掟  
一(5条)、惣ヨリ屋敷請候テ、村人ニテ無キ物置クベカラザル事。
一(7条)、他所ノ人ヲ地下ニ請人候ハテ置クベカラザル事。
一(8条)、惣ノ地私ノ地トサイメ相論ハ金ニテスマスヘシ。 
一(12条)、犬カウヘカラス事。
一(15条)、二月六月サルカクノ六ヲ壱貫ツゝ、惣銭ヲ出スベキモノナリ。
一(16条)、家売タル人ノ方ヨリ、百文ニハ三文ツゝ、壱貫文ニハ三十文ツゝ、惣ヘダ スベキ者也。此旨ニ背ク村人ハ座ヲヌクベキナリ。
一(17条)、家売タル代、カクシタル人ヲハ、罰状ヲスヘシ。 
一、堀ヨリ東ヲバ、屋敷ニスベカラズ者也。」(「今掘日吉神社文書(いまぼりひえじんじゃもんじょ)」、なお今掘は、現在の滋賀県八日市市)

 これにあるのは、惣」が当該村落の自治組織として、振る舞うには、きれいごとだけてはすまされない、なぜなら、彼らは有形無形の共同財産を持ち、時には外の権力と闘うことも覚悟しなければならない。
 だからこそ、惣の掟という法律を定め違反者には追放や罰金を科し、自分たちの組織の力を保持しようとする。 身内に甘いようでは、相手につけ入る隙をあたえてしまうと考えたのだろう。


 ついては、同神社発の、もう一つの文を紹介しよう。

 「一、寄合ふれ二度に出でざる人は五十文咎(とが)たるべきものなり。
一、森林木なへ切木は、五百文宛(づつ)の咎たるべきものなり。
一、木柴並びにくわの木は百文宛の咎たるべきものなり。
一、初なりかきは、一つたるべきものなり。
衆議によって定むる所、件(くだん)のごとし。
文安五年(1448年)十一月十四日、これを始む。」(「今掘日吉神社文書」)

 こちらの方には、惣の運営については、寄合がもたれ、そこでの議論で事を決め、「衆議」をもって進めていく。しかして、これに従わない者は、「咎」に問われることになっているではないか。


 あわせて、この時期には、幾つかの村に跨がる形が現れるのであって、その中には、例えば、「桂川用水今井の事」がある、こちらは、現在の京都市の南西部の桂川(かつらがわ)の西、そこに広がる丘陵地帯の西岡地域には、中小の荘園があって、灌漑用水の確保を巡り争いが起こりかねない状況であった。

 そこで、このように関係するところの「西岡十一郷」のうち三つが荘園の枠を越えて、以下の如く、結合して事にあたる事を申し合わせ、盟約した。
 ちなみに、上久世荘は東寺領、河嶋荘は三条、西園寺、それに山科三軒家の所領、さらに寺戸荘は仁和寺領と領主を異にしている。
 
 「契約 桂川用水今井の事  右契約の旨趣は、この要水こ事につき、自然煩、違乱出来の時は、久世、河嶋、寺戸もっともこの流水を受ける上は、彼の三毛ケ郷一身同心せしめ、合体の思いを成し、面々私曲なくその沙汰あるべし。
 もし同心の儀に背く郷においては、要水を打ち止むべし。この契約の旨にらいつわり申し候はば、(中略)」
暦応□年七月(「革島文書」)
 
 しかして、この史料は、桂川の用水を西岡地域の久世(しぜ)、河嶋(かわしま)、それに寺戸(てらど)に住民が集団で管理するために作成した。


 その後の惣の行く末については、例えば、こうある。

 「このような惣村もやがて衰退の方向に向かっていった。その理由の一つは経済的破綻となって現れていた。
 近隣の惣村との争いに際して多くの出費を要し、また惣の指導者の力の低下、商業資本の新登場など惣内外からの圧力、新たに出現した戦国大名ならの干渉、などがあげられよう。
 管浦荘では戦国時代に入ると戦国大名浅井(あざい)氏の干渉が甚(はなはだ)しくなり、荘民のあるものは浅井氏に従って惣の規則を無視したり、あるいはその被官となるものも出てきた。
 やがて惣の機能を失うこととなった。」(村山光一、○高橋正彦「国史概説1ー古代・中世」慶応義塾大学通信教育教材、1988)




(続く)


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