新19◻️◻️10の2『岡山の今昔』楯築墳丘墓と宮山墳丘墓と上相遺跡、鍛冶屋さこ遺跡
まずは、前提として、墳丘墓の埴輪との関係に、少し触れておこう。
そこで埴輪(はにわ)というのは、吉備地方(現在の岡山県と広島県東部)では、弥生時代の墳丘墓に見られる、土を焼いて作られた造形物だ。
ちなみに、楯築(たてつき)遺跡(現在の倉敷市、足守川を越えたあたりで南に見える弥生時代の墓)から出土している「楯築」は、ここでいう埴輪の先祖だと考えられている。
そこで埴輪(はにわ)というのは、吉備地方(現在の岡山県と広島県東部)では、弥生時代の墳丘墓に見られる、土を焼いて作られた造形物だ。
ちなみに、楯築(たてつき)遺跡(現在の倉敷市、足守川を越えたあたりで南に見える弥生時代の墓)から出土している「楯築」は、ここでいう埴輪の先祖だと考えられている。
この辺りで出土している、最も古い時代の埴輪は、円筒埴輪、具体的には土器の台(特殊器台)と壺のセットであって、それが起源だと考えられている。
元はといえば、死者に供えられたり、祭りに用いられたりしていたのであろうか。それが、畿内に大形の前方後円墳が形成されていくなかで取り入れられ、円筒埴輪として発展してきたものと考えられている。
だが、埴輪の元がそうだというには、それが殉死する人の代わりに作られたのに違いないという意見を退けることができるかどうか。因みに、『日本書紀』の垂仁大王32年7月の条において、野見宿禰(のみのすくね)が今までの殉死にかえて、埴土(粘土)をもって代わりとした旨、事細かに書かれている。
というのは、垂仁大王のおじの倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなったとき、そばに仕えている人達も生きたまま墓に埋めてしまった。その部分の口語訳には、こうある。
「死んだ大王の弟を葬る折り、近くに仕えていた人を、生きたまま墓のぐるりに埋め立てた。数日たっても死なず、昼夜となく泣き叫んだが、ついに死んで腐った。犬や鳥が集まって歯肉を食った。」(なお、当時はまだ「天皇」位はないので、「大王」とした。)
それを聞いた大王は、これを憂えた。その後、皇后の日葉酢姫命(すばすひめのみこと)が死んだ。その時、土師(はじ)氏の祖先の野見宿禰が粘土で人や馬をつくって、これをいけにえの代わりに並べたらどうかと彼に提案し、承認をえた。それ以降、埴輪を古墳に並べるようになったというのだ。
とはいえ、これは、あくまで伝説で、4世紀には人物埴輪はつくられなくなったという。
とはいえ、これは、あくまで伝説で、4世紀には人物埴輪はつくられなくなったという。
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さて、本題に入って、楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ、倉敷市矢坂)については、日本でこの地が特に有名だ。はじめに、考古学者による大まかな説明から、ここでは一例を紹介してしたい。
「出雲市西谷(にしだに)の巨大な四隅突出型の墳丘墓が出雲の王で、それに対してライバルの吉備の王の墓が、楯築(たてつき)墳丘墓だというわけです。楯築墳丘墓測量図のように、日本最大の墳丘墓です。形は円形ですが、北東と南西にそれぞれ突出部が取りついています。(中略)出土する遺物は、特殊器台で、その上に壺が載りますが、先ほどの都月坂(とつきざか)第二号墳丘墓と同じような弥生時代終末期の土器です。とくに墳墓に埋葬した祭り用の器台と壺のセットということです。」(西谷正「魏志倭人伝の考古学」2009)
この指摘にもあるように、弥生時代も後期になると、墳丘墓と呼ばれる一般の墓とは隔絶した形の、「墳丘墓」と呼ばれるものが現れる。
「出雲市西谷(にしだに)の巨大な四隅突出型の墳丘墓が出雲の王で、それに対してライバルの吉備の王の墓が、楯築(たてつき)墳丘墓だというわけです。楯築墳丘墓測量図のように、日本最大の墳丘墓です。形は円形ですが、北東と南西にそれぞれ突出部が取りついています。(中略)出土する遺物は、特殊器台で、その上に壺が載りますが、先ほどの都月坂(とつきざか)第二号墳丘墓と同じような弥生時代終末期の土器です。とくに墳墓に埋葬した祭り用の器台と壺のセットということです。」(西谷正「魏志倭人伝の考古学」2009)
この指摘にもあるように、弥生時代も後期になると、墳丘墓と呼ばれる一般の墓とは隔絶した形の、「墳丘墓」と呼ばれるものが現れる。
これの特徴としては、中央が円丘で、両サイドに突出部を持つ。墳丘上には、5個の巨石が配置され、まるで「ストーンサークル」を構成しているかのよう。それに、円丘と突出部には、整然とした石の配置がみられる。なお、両サイドの突出部の片方を取り除くと、前方後円墳の形に近くなろう。
そして、この倉敷にある墳丘墓の発掘(岡山大学が中心、1976~1989)を行ったところ、様々な土器類が供献されていることが判明した。
その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。
このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。
🔺🔺🔺
(補足)
その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。
このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。
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(補足)
楯築墳丘墓
楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ、倉敷市矢坂)については、日本でこの地が特に有名だ。はじめに、考古学者による大まかな説明から、ここでは一例を紹介してしたい。
「出雲市西谷(にしだに)の巨大な四隅突出型の墳丘墓が出雲の王で、それに対してライバルの吉備の王の墓が、楯築(たてつき)墳丘墓だというわけです。楯築墳丘墓測量図のように、日本最大の墳丘墓です。形は円形ですが、北東と南西にそれぞれ突出部が取りついています。(中略)出土する遺物は、特殊器台で、その上に壺が載りますが、先ほどの都月坂(とつきざか)第二号墳丘墓と同じような弥生時代終末期の土器です。とくに墳墓に埋葬した祭り用の器台と壺のセットということです。」(西谷正「魏志倭人伝の考古学」2009)
これにもあるように、弥生時代も後期になると、墳丘墓と呼ばれる一般の墓とは隔絶した形の、「墳丘墓」と呼ばれるものが現れる。
これの特徴としては、中央が円丘で、両サイドに突出部を持つ。墳丘上には、5個の巨石が配置され、まるで「ストーンサークル」を構成しているかのよう。それに、円丘と突出部には、整然とした石の配置がみられる。なお、両サイドの突出部の片方を取り除くと、前方後円墳の形に近くなろう。
そして、この倉敷にある墳丘墓の発掘(岡山大学が中心、1976~1989)を行ったところ、様々な土器類が供献されていることが判明した。
その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。
このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。
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その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。
このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。
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次に紹介するのは、宮山墳丘墓という、総社市の山懐近くにあり、その案内板には、こうある。
「県指定史跡宮山墳墓群 昭和39年5月6日指定
およそ1700年前の弥生時代から古墳時代の初め頃の墳墓遺跡です。全長38メートルの墳丘墓と、箱式石棺墓・土棺墓・壺棺墓などで。、される『むらの共同墓地』です。東端に位置する墳丘墓は、盛土でつくられた径23メートル、高さ3メートルの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形をしています。
およそ1700年前の弥生時代から古墳時代の初め頃の墳墓遺跡です。全長38メートルの墳丘墓と、箱式石棺墓・土棺墓・壺棺墓などで。、される『むらの共同墓地』です。東端に位置する墳丘墓は、盛土でつくられた径23メートル、高さ3メートルの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形をしています。
この墳丘墓には石が葺かれ、特殊器がたてられていました。円丘部の中央には、円礫や割石を用いた竪穴式石室があり、鏡・銅鏃・ガラス小玉・鉄剣・鉄鏃などが副葬されていました。(中略)このような埋葬施設の規模や構造、副葬品の相違は、当時の社会にすでに支配する者とされる者の差をうかがわせるもので、やがて首長が卓越した存在として村人に君臨し、巨大な古墳を造営する時代の歩みを示しています。」
ここに「宮山墳墓群」というのは、指定史跡の名前であって、宮山弥生墳丘墓と三輪山古墳群から成る。
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それから、上相(かみや)遺跡と鍛冶屋逧(かじやさこ)古墳群(現在の美作市勝央町岡山県古代吉備文化財)は、津山盆地の東の端、中国山地から続くなだらかな丘陵上に、隣り合わせで見つかっている。前者はひとかたまりなのだが、後者は中国縦貫道を境に二つに分かれている。
こちらは、古墳時代後期から飛鳥時代(6世紀後半~7世紀前半)のものと推定されており、その7世紀と見られる地層から、多量の鉄滓(てっさい)といって、たたら製鉄の時に出る鉄のかすが出土しているのみならず、そのすぐ西側で製鉄炉跡が見つかっている。
これは、鍛冶屋逧古墳群の一角において日常的に製鉄が行われたことを窺わせる。また、この両方の遺跡において刀子(とうす・工具)、鏃(やじり)、馬具など多種の鉄製品見つかっていることから、この地域に埋葬されている人物は、当時の鉄生産者の集落の首長ではないだろうかと推測されているとのことだ(さしあたり文化庁編「発掘された日本列島ー新発見考古速報、2015」共同通信社に、カラー写真入りの解説がある)。
(続く)
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