72『美作の野は晴れて』第一部、学舎の仲間に見送られて
新野小学校の課程を終了し、その卒業式に参加した時の有様は半ば覚えている。講堂の向かって左前の方には、有元画伯の作と聞いている絵が架かっていた。力があふれていそうな若い男の人の厚い胸、太い腕が描かれていたのではないか。1年生の頃から、その絵を見る度に、なにかしら力が湧いてくる。あのような素朴な雰囲気の労働者の姿は、その後はなかなかお目にかかれない。
来賓の方の挨拶の中で、年配の、70歳代とおぼしき人からお話があった。その中では、「なにくそ、なにくそという気持ちでやりなさい」いう下りである。たぶん、これか中学校に進んで、それからまた大きくなるにつれて、君たちにはつらいこと、悲しいときがたくさんあるだろう。そんなときは、「なにくそ、負けるもんか」という気概でそれらの逆境を乗り越えていきなさい、という励ましの言葉であったのではないか。その言葉は、今も私の脳裏に刻まれていて、この弱い私を支えてくれている。
たしか卒業生の挨拶を男女一名ずつで読み上げる役どころであったようにも思われるのだが、はっきりとは思い出せない。どなたからであったろうか、在校生からの「送辞」があったのはちゃんと覚えている。卒業式の締めくくりには、「仰げば尊し」であったろうか、みんなでその歌をうたった。
式のたけなわは、校長先生による卒業証書の児童への手渡しであった。一人ひとりが順番に進み出て、4、5段くらいの小さな階段を昇って壇上の演壇に至る。そして前の番の人と一緒に「ぺこん」お辞儀をする。前の番の人は退いていく。証書をもらう番の当人は、さっと両手を差し上げ校長先生に近づき、その手に恭しく証書を戴く。それからは、前の番の人がそうであったように、てきぱきと退く。
その時にもらった卒業証書はいまも手元にあって、1970年(昭和40年)3月23日の日付である。いつからの番号なのかはわからないものの、第4397号となっている。
広い講堂から出て、いったんは教室に戻ったような気がしている。担任の先生から何を言われたのかは全く記憶に残っていない。教室を出た後は、下校となる。下駄箱のあるところに出て、そこで上履きを脱ぎ、自分の下駄箱の中にあるものを残さずにランドセルや手持ちの鞄に入れ、外履きの靴に履き替えたのだろう。
「きょうは下履きを持って帰るんじゃ」
「そうじゃ、そうじゃ」
「ここへはもう終わりなんじゃなあ」
「うん・・・・・・・」
誰やらも傍かで頷いているようだった。
私たちは、校舎のそばをくぐり抜けるようにして、長らく遊んだ校庭のとっかかり部分にまかり出る。校庭には、在校生たちが校庭で2列のアーチを作ってくれていた。既に、抑制の効いた『蛍の光』のメロディーが流されている。
「蛍の光まどのゆき、書(ふみ)よむつき日かさねつつ、いつしか年もすぎのとを、あけてぞけさはわかれゆく。とまるもゆくもかぎりとて、かたみにおもうちよろずの、こころのはしをひとことに、さきくとばかりうたうなり」(スコットランド民謡、その由来は同地に伝わるメロディーに詩人のロバート・ハーンズが作詞したもの。日本語の訳は稲垣千◎)
そんな中を柿の、かなり大きめの苗を1本もらって、それを手にして歩いた。ランドセルも背負っていたのであろうか、とにかくいろいろ荷物が合わさって重たかった。対角線のところをどのくらいかかって歩いたことだろう。校舎の脇で待機していた時間を除き、いよいよ校門出口に向かって歩き出したら、わずか20秒くらいの間であったろう。在校生たちはずっと手をたたいていてくれた。
「ありがとう、ありがとう。みんな。」
「先生、みなさん、大変お世話になりました。」
あんなに大勢の人たちに見送ってもらった思い出は、今も脳裏に焼き付いて離れないでいる。
6年間通った学校の校門を出るときは、道は右と左に分かれる。私自身は左に道を折れたグループで、その刹那少しだけ振り返った。すると、「ここまでこれて(くることができて)、本当によかった」という安堵の気持ちもこみ上げてきた。
立ち止まって振り返ることはなかった。万感にあったのは、とにもかくにも私の小学校生活はこれで幕を閉じた、ということであった。さらに岐路を進めていくうちに連れだって下校していた仲間とも「さよなら」と簡単な挨拶を交わして別れ、自分だけの家への帰り道、田圃の中を西へ、西北へと細く伸びてゆく道を行く。その自分の足取りは何故だったのだろうか、スタスタといった具合で軽ろやかであったのを覚えている。
「ひとりの小さな手なにもできないけど、それでもみんなの手と手を合わせれば、何かできる 何かできる・・・・・」(本田律子訳詞、ピート・シーガー作曲)とは、1962年(昭和37年)にできた大好きな歌である。ここには、この国の戦後を築いた人々の夢が刻まれているのだ。いつも口づさんでいた数歌の中から、おそらくこの歌を選んで3番まで小声で歌いながら、歩いて帰ったように思い出されるのだが・・・・・。
まだ3月というのに、めずらしく明るい陽には暖かさが宿り、みまさかの野は晴れて、清爽、その空はどこまでも青かった。
(続く)
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新野小学校の課程を終了し、その卒業式に参加した時の有様は半ば覚えている。講堂の向かって左前の方には、有元画伯の作と聞いている絵が架かっていた。力があふれていそうな若い男の人の厚い胸、太い腕が描かれていたのではないか。1年生の頃から、その絵を見る度に、なにかしら力が湧いてくる。あのような素朴な雰囲気の労働者の姿は、その後はなかなかお目にかかれない。
来賓の方の挨拶の中で、年配の、70歳代とおぼしき人からお話があった。その中では、「なにくそ、なにくそという気持ちでやりなさい」いう下りである。たぶん、これか中学校に進んで、それからまた大きくなるにつれて、君たちにはつらいこと、悲しいときがたくさんあるだろう。そんなときは、「なにくそ、負けるもんか」という気概でそれらの逆境を乗り越えていきなさい、という励ましの言葉であったのではないか。その言葉は、今も私の脳裏に刻まれていて、この弱い私を支えてくれている。
たしか卒業生の挨拶を男女一名ずつで読み上げる役どころであったようにも思われるのだが、はっきりとは思い出せない。どなたからであったろうか、在校生からの「送辞」があったのはちゃんと覚えている。卒業式の締めくくりには、「仰げば尊し」であったろうか、みんなでその歌をうたった。
式のたけなわは、校長先生による卒業証書の児童への手渡しであった。一人ひとりが順番に進み出て、4、5段くらいの小さな階段を昇って壇上の演壇に至る。そして前の番の人と一緒に「ぺこん」お辞儀をする。前の番の人は退いていく。証書をもらう番の当人は、さっと両手を差し上げ校長先生に近づき、その手に恭しく証書を戴く。それからは、前の番の人がそうであったように、てきぱきと退く。
その時にもらった卒業証書はいまも手元にあって、1970年(昭和40年)3月23日の日付である。いつからの番号なのかはわからないものの、第4397号となっている。
広い講堂から出て、いったんは教室に戻ったような気がしている。担任の先生から何を言われたのかは全く記憶に残っていない。教室を出た後は、下校となる。下駄箱のあるところに出て、そこで上履きを脱ぎ、自分の下駄箱の中にあるものを残さずにランドセルや手持ちの鞄に入れ、外履きの靴に履き替えたのだろう。
「きょうは下履きを持って帰るんじゃ」
「そうじゃ、そうじゃ」
「ここへはもう終わりなんじゃなあ」
「うん・・・・・・・」
誰やらも傍かで頷いているようだった。
私たちは、校舎のそばをくぐり抜けるようにして、長らく遊んだ校庭のとっかかり部分にまかり出る。校庭には、在校生たちが校庭で2列のアーチを作ってくれていた。既に、抑制の効いた『蛍の光』のメロディーが流されている。
「蛍の光まどのゆき、書(ふみ)よむつき日かさねつつ、いつしか年もすぎのとを、あけてぞけさはわかれゆく。とまるもゆくもかぎりとて、かたみにおもうちよろずの、こころのはしをひとことに、さきくとばかりうたうなり」(スコットランド民謡、その由来は同地に伝わるメロディーに詩人のロバート・ハーンズが作詞したもの。日本語の訳は稲垣千◎)
そんな中を柿の、かなり大きめの苗を1本もらって、それを手にして歩いた。ランドセルも背負っていたのであろうか、とにかくいろいろ荷物が合わさって重たかった。対角線のところをどのくらいかかって歩いたことだろう。校舎の脇で待機していた時間を除き、いよいよ校門出口に向かって歩き出したら、わずか20秒くらいの間であったろう。在校生たちはずっと手をたたいていてくれた。
「ありがとう、ありがとう。みんな。」
「先生、みなさん、大変お世話になりました。」
あんなに大勢の人たちに見送ってもらった思い出は、今も脳裏に焼き付いて離れないでいる。
6年間通った学校の校門を出るときは、道は右と左に分かれる。私自身は左に道を折れたグループで、その刹那少しだけ振り返った。すると、「ここまでこれて(くることができて)、本当によかった」という安堵の気持ちもこみ上げてきた。
立ち止まって振り返ることはなかった。万感にあったのは、とにもかくにも私の小学校生活はこれで幕を閉じた、ということであった。さらに岐路を進めていくうちに連れだって下校していた仲間とも「さよなら」と簡単な挨拶を交わして別れ、自分だけの家への帰り道、田圃の中を西へ、西北へと細く伸びてゆく道を行く。その自分の足取りは何故だったのだろうか、スタスタといった具合で軽ろやかであったのを覚えている。
「ひとりの小さな手なにもできないけど、それでもみんなの手と手を合わせれば、何かできる 何かできる・・・・・」(本田律子訳詞、ピート・シーガー作曲)とは、1962年(昭和37年)にできた大好きな歌である。ここには、この国の戦後を築いた人々の夢が刻まれているのだ。いつも口づさんでいた数歌の中から、おそらくこの歌を選んで3番まで小声で歌いながら、歩いて帰ったように思い出されるのだが・・・・・。
まだ3月というのに、めずらしく明るい陽には暖かさが宿り、みまさかの野は晴れて、清爽、その空はどこまでも青かった。
(続く)
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