♦️67『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(ペロポネソス戦争とその後)

2018-01-29 21:02:16 | Weblog

67『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(ペロポネソス戦争とその後)

 紀元前500年~紀元前449年の間に、4回にわたってギリシア(ギリシャ)のアテネを中心とするポリスの連合軍と、アケメネス朝ペルシア(ペルシャ)との戦争が繰り広げられた。紀元前499年には、そのペルシアが支配権を持っていたイオニア地方のギリシア人植民都市が、ペルシアの支配に不満を持って反乱を起こすのだが、ペルシアによって鎮圧される。紀元前490年、そしてペルシアは、援軍を送ったアテネなどのギリシアのポリスに対し、大遠征軍を送った。これがペルシア戦争の始まりである。
 紀元前478年になってもペルシアとの戦いは続いていた。この年、デロス同盟が結成された。これには、アケメネス朝ペルシアの脅威に備え、アテネを盟主としてイオニア地方など主にエーゲ海の諸ポリスが参加した。最大時200のポリスが参加した。各ポリスが一定の兵船を出して連合艦隊を編成し、それのできないポリスは一定の納入金(フォロイ)を同盟の共同金庫に入れることにした。
 かかる同盟の共同金庫は、共通の信仰の対象であったアポロン神殿のあるデロス島におかれ、同盟の会議もそこで開催された。数の上からは劣勢にあったギリシア連合軍であったが、マラトンの戦いでミルティディアスの率いるアテネ主力のギリシア軍が勝利した。なお、このときペルシア海軍の主力となったのはフェニキア人であった。彼らは、地中海の交易権をめぐりにギリシアと対立していた。紀元前449年、アテネのペリクレスの時にカリアスの和約を結んで、ほぼ50年に渡る戦争が終結した。
 そしてい迎えた紀元前431年、ペロポネソス戦争(~紀元前404)が始まった。アテネは、この戦争で西の方に位置する兵士国家スパルタと戦う。ここにスパルタというのは、実はペロポンネソス半島にあったラケダイモンという国の支配階級の名称なのであった。スパルタの下にはヘイロータイと呼ばれる被支配階級がいて、歴史的にはスパルタに征服されて奴隷になっていた部族の総称と成り立っていた。その社会は、殺伐としていた。毎年スパルタがヘイロータイに対し、形式的な宣戦布告を行い、ヘイロータイを辱め、反抗する者があれば殺すことも、おおっぴらに行われていたというから、驚きだ。スパルタの子弟においても、まだ幼い子供男子に対し身体検査などを行い、体力の劣る者を穴に埋めたり谷底に投棄するなりして、選別していたとのこと。強者だけによる国造りを目指して手段を選ばなかったのが伝わる。弱肉強食を地でいっているだけに、当時のアテネ連合に対抗し戦うだけの武力を蓄えていた。
 紀元前404年になって、アテネ連合はスパルタに敗北する。それまで身の丈を越えた勢力拡張をひた走っていたアテネであったが、その野望に終止符を打たれた形であった。しかし、この戦争に勝利したスパルタの覇権も長続きは師亡かった。紀元前371年、「レウクトラの戦い」でテーベの軍がスパルタ軍を破り、それからの紀元前370~361年にかけて、テーベによるペロポンネソス半島への侵攻が続いたのである。
 紀元前338年、マケドニアのフィリッポス2世が、カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、ギリシアを併呑した。紀元前334年、マケドニアのアレキサンダー大王がマケドニア・ギリシャ連合軍で壮大な東征を開始する。紀元前333年、イッソスの戦いが行われ、アレクサンドロス大王のマケドニア軍ががペルシアのダレイオス3世の軍を破った。紀元前330年、アケメネス朝ペルシアは滅亡する。同大王は、ペルシアを敗り、エジプトから西アジアに及ぶ広大な帝国を作りあげた。その結果として、古代ギリシャの精神を汲むヘレニズム文明を広めることにもなっていく。とはいえ、紀元前323年、同大王はバビロンで病死し、残された領土を巡り将軍たちが争う事態となる。ほぼ同じ頃の紀元前323~322年、アテネなどのギリシア諸国家がマケドニアの圧政に反乱(ラミア戦争)を起こす。
 紀元前168年には、ローマはピュドナの戦いでマケドニアを解体する。ここまで来て、ローマの領土がさらに広がり、ギリシャは一地方となる。しかしローマは、文明先進国としてのギリシア文化をむしろ尊重し、これから学ぶ姿勢をとったことがあり、そのことでギリシア文明が西洋文明の大きな流れの中に融合し、受け継がれていく。

(続く)

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