○68『自然と人間の歴史・日本篇』ササン朝ペルシアからのガラス器2点(東大寺と正倉院)

2021-03-14 21:16:06 | Weblog
68『自然と人間の歴史・日本篇』ササン朝ペルシアからのガラス器2点(東大寺と正倉院)

 2016年5月4日の各紙が伝えるのは、奈良県天理市の天理大付属天理参考館が所蔵し、ササン朝ペルシア(226~651年)伝来とされるガラス製品「円形切り子わん」と、6世紀の作と考えられている奈良市の正倉院宝物「白瑠璃碗(はくるりのわん)」との関係についての、その由来を含めての一つの見解であった。

 それによると、前者の方の制作が4世紀より古く、しかも原型となった可能性が高いことが3日、参考館などの化学分析で分かったというのだ。

 ここにササン朝ペルシアというのは、現在のイラクやイランなどのあたりを中心に領土としていた。近代ではもう大方単独としては廃れてしまったようにも映るゾロアスター教を国教としていた。最盛期には、西方のローマ帝国と張り合い、戦争でローマ皇帝を一時捕虜とするほどであったという。

 ところで、この地では、ローマ帝国からの影響でガラスの生産を開始したのだと伝わる。

 そこでこの2点だが、かなり前から半球状のガラスに凹レンズのような円形のくぼみを隙間無く施しているのが共通性している、との話があったといい、ならば一度詳しく調べてもらおうという運びになったらしい。

 それでは、なぜ、どのようにして、この当時としては珍しい高貴なガラスの器がペルシアからはるばる日本へ運ばれてきたのだろうか。

 まずは、それらと同類の器の一般への下され方が、当時の慣習によるものであったらしい。というのは、それらの器が王朝の工房で製造されていたとしても、かなりの量産が行われていて、しかも宴会などで酒を頂く時には、その参加者に器ごと下される案配であったのではないかというのだ。だとすれば、その活用はかなり融通のきくものであったことになろう。

 次に問われるのは、そのようにして市中に出回った器がどのようにして運ばれてきたのだろうか、そうなると思いつくのがシルクロードを経由して隊商のラクダに乗って東へ東へと旅する姿が、なんとなく瞼に浮かんでくるではないか。

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


コメントを投稿