□28『岡山の今昔』安土桃山時代の三国

2017-02-15 08:51:54 | Weblog

28『岡山(美作・備前・備中)の今昔』安土桃山時代の三国

 1584年(天正12年)頃には、美作の半ば以上が逆に宇喜多氏のものとなる。その勢いは、その後暫くの間に美作、備前、備中の全域に広がっていく。そのあたりの途中経過は、郷土の碩学の人びとによってこう伝えられている。
 「大別当城(奈義町高円)は、作州管家の本拠地です。後藤勝基の三星城に援軍を送りましたが敗北したので、その後宇喜多に従ったと記録されています。しかし、作州の武将・岩屋城の中村・矢筈城の草刈・枡形城(ますがた)(鏡野町)の福田・竹山城(大原町)の新免・高田城(勝山町)の楢崎たちは、城を死守して二年あまりもの間戦いぬきました。これは作州の地侍や農民たちが、自分たちの土地や自治を守るために毛利を助けて、宇喜多の支配をこばみ、積極的に戦ったからではないでしょうか。ここにも作州人の気骨ある気質が、よく表れているようです。」(美作の歴史を知る会編「みまさかの歴史絵物語(4)」1991) 
 豊臣氏による天下統一後は、備前、備中そして美作の広い領域が宇喜多領になって、豊臣政権による全国支配に組み入れられる。そうなったことにより、戦国の動乱期から長く続いた西国・中国地方の戦乱に終止符が打たれた形である。豊臣政権では、しっかりとした検地を行うことを諸侯に奨励した。建議したのは配下の石田三成らの官僚たちであったのだろうが、それを採決したのは百姓出身の秀吉自身であった。これを「太閤検地」と呼ぶ。検地をするには、まずは土地面積を測るための度量衡を定めることが必要となる。6尺3寸=1間(約191センチメートル)の検地竿(間竿)を定めた。一間四方を1歩といい、30歩をもって1畝(せ)とする。10畝をもって1段または1反(たん)という。そして10段(反)をもって1町(ちょう)とするもので、これを「町・反・歩制」と呼ぶ。
 これらの準備のもとに、それまで主流の指出検地(さしだしけんち)ではなく、役人が直接現地の田んぼに出掛けて面積を測り、地味、つまりそれぞれに1反当たりの標準収穫量を上田1石5斗、中田1石3斗、下田1石1斗、下々田○石○斗の4種類にクラス分けした。畑や屋敷地についても米を作るものとして見立て、上畑と屋敷地は1石2斗、中畑1石、下畑8斗の3種類にクラス分けした。さらに、収穫量を量るものとして、京枡が用意された。こちらの寸法は、縦横が4寸9分(約14.8センチメートル)、深さ2寸7分(8.2センチメートル)の枡をもって1升(しょう)という。これらで、それまで時には幾重にも重なり合っていた土地の権利義務関係を整理し、その土地の耕作者を年貢納入の義務者に定めることで、かれから年貢を確実に年貢を徴収することが目指されたのである。
 1581年(天正9年)、宇喜多直家が死去し、嫡子・秀家が父の遺領である備前、美作、それから備中の内の高梁川以東を引き継いだ。それに加えて、これより前の1577年(天正5年)、宇喜多直家は播磨国佐用郡と赤穂郡をも支配下に入れている。1598年(慶長3年)からの太閤検地の一環として行われた宇喜多領内外の検地では、備前国22万3388石、美作国18万6017石、備中国17万6929石、播磨国35万8584石とされる。ところが、この時点での備中国の高梁川以東分、それから播磨の国の佐用郡と赤穂郡の石高は判明しない。そこで備中国の高梁川以東分を備中国の全体の石高の半分とする。残る播磨の分治分について、時代は1613年(慶長18年)に下るが、池田忠継が徳川幕府に西播磨国三郡(宍栗郡、佐用郡、赤穂郡)10万石を分与されていることから、、二郡の石高はその中の万石と推定しよう。当時の宇喜多の所領合計は、ざっと50万石は下らなかったのではないだろうか。
 なお、この宇喜多氏による検地の性格については、やや「無理押し」のきらいがあったのではないか。例えば、『津山市史』には、次のように伝えられている。
 「領国の安定を見るとともに藩政も膨脹し、そのうえ、外征による出費は多大で、藩財政は次第に困難を加えた。
 この頃領国の総検地を実施して、家臣の給地や社寺の所領にまで手を加えて整理統制し、これによって二〇余万石を量り出したといわれる。これはいわゆる太閤検地の一環としてなされたもので、近世の土地制度はこれによって定まった。このことは藩にとっても重要な財政対策となったのであるが、一面では家臣間の不和を深め、各方面の恨みを招く原因にもなった。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第三巻、「近世1ー森藩時代」津山市役所、1973)

(続く)

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