新2『美作の野は晴れて』第一部、早春1

2008-07-20 20:43:32 | Weblog
2『美作の野は晴れて』第一部、早春1

 3月に入ると、まわりの木々も、早いものでは少しずつ芽を吹ぶいて来る。やがて来る春の訪れを、段々に人々の全身に予感させていく。彼らには、人間のようではないものの意識というものがあって、それでずっと周りの環境が暖かくなるのを待ち望んでいたに違いない。けれども、晴れの日の日中を除くと、まだ寒さが身にしみる。いつの頃からか、我が家では3月3日、「桃の節句」には、「おひな様」を飾っていた。この風習の源をたどれば、古代中国の魏(ぎ、ウェイ、220~265年)、呉(ご、ウー、222~280年)、蜀(しょく、シュー、221~263年)のうちの三国時代の覇者、魏の治世に遡る。その頃の中国では、各々の縁の河で禊ぎを行い身を清めた後で宴会を行っていたらしく、「桃の節句」というには地味なものであったようだ。
 この風習が日本に伝わったのは、おそらくは平安時代であった。野や山に出掛けて薬草を摘み、その薬草で体の穢れをお祓いして健康と厄除を願っていた。この「上巳の節句」の習慣が、遣唐使などの国際交流を連ねるうち、日本の貴族社会にだんだんに取り入れられるうち、日本独特の「流し雛」が生まれる。流し雛とは、降りかかる災厄を身代りに引き受けさせ、川に流して不浄を祓うというものである。この国の古墳時代の埴輪が自身に災禍を引き受けて埋められていたのに、何かしら似ている気がする。今でもこの風習が受け継がれ、残っている地域があるのか、どうなのかを知らない。
 この「桃の節句」を祝う風習は、次の室町時代になって華開く。まずは朝廷や貴族などの上層階級に広がりを見せていく。1336年(南朝:延元元年/ 北朝:建武3年)には建武式目が制定され、1338年には足利尊氏が征夷大将軍に補任されて幕府を開いた。その時から、15代将軍義昭が1573年(元亀4年/天正元年)将軍職を織田信長に降ろされる時までの間に、雛祭りの風習は貴族ばかりでなく、武家や生活に余裕のある一般庶民の間にも広まっていく。その形式も紙の雛人形ばかりではなく、土でこしらえ、焼き物にした上に豪華な衣装を着せた雛も出てくる。これらを飾って宮中でお祝いを行うものに変化していった。時代がさらに下り江戸時代になると、女の子の人形遊びである「ひいな遊び」と節句の儀式が結びつき、庶民も楽しめる「雛祭り」として全国にいろいろな装いを凝らしながら広がったようだ。
 ところで、ここで興味深い話がある。というのはも本州辺りで桃の花が咲くのは3月の終わり頃である。先祖の墓と隣あわせの我が家の畑はだんだん坂となっている。その畑の中に、小さな桃の木が一本立っていた。4月の春うららかな日和を待ってその花が咲くと、一足先に散った梅の花とは違って、暖かな雰囲気を醸し出す。花は、「幸福さ」を暗示していて、「やあやあ、今日も明るく生きようね」と語りかけてくれるような気がしてくる。この時期、日本列島にやってくる偏西風などによる、少々の気候変動くらいでは、桃の花が咲く時期はさほどに変わるまい。これでは、「桃の節句」のひな祭りを祝う行事と、桃の花見物とは別々にするしかない。この不一致を避けるために、国内の「南国地域」から空輸したり、温室栽培を企画してみることによって、桃の開花の方を新暦3月3日の節句の日に合わせようとの試みもあるらしい。
 あの懐かしい「お雛まつり」の音色と歌に耳を傾けてみると、自分の目の前にぼんぼりに照らされた桜の花が咲いており、まるで桃色の世界がほのぼのと広がってくるようだ。
「灯りをつけましょぼんぼりに
お花をいけましょ 桃の花
五人囃子の笛太鼓
きょうはたのしい雛祭り」(作詞はサトウハチロー、作曲は河村光陽)
 それは岡山県の北部の中国山地の懐に抱かれた、とある緩やかな傾斜地にある。狐の尾っぽのような形をしている狐尾池のほとり、その西から北へと続く山懐にへたるように建っている森閑たる雰囲気の我が家、その大きい母屋の裏手には、2階建ての土蔵の蔵がある。その重い引戸を開いて急な梯子を登ると、大人の背丈ほどもある長さの大きな木製の「つづら」が一つ置いてあった。「桃の節句」の前日には、その中から1年間眠っていた沢山の箱を取り出しては、せっせと母屋の奥の間に運ぶのが、その日の私の役目だった。「おひな様」と道具の入った箱は、やっと一抱えできるような大きいものから、2、3御抱えられる小さなものまで、あわせると20箱くらいもあったろうか。それらを母屋の奥の間に運び込むと、さっそく組み立てに取りかかる。十字に閉じた紐をほどき、それからおもむろに紙の箱蓋を取って、何が入っているかを頭にいれておく。雛の組立て方はさほど難しくはない。まず、雛たちが鎮座する階段をつくる。記憶では、横幅が1メートルくらいの階段を四、五段くらいセットする。そこに大きな風呂敷をかぶせる。それから、雛たちを並べていく。なかでも屋敷式のものは土台を敷き、柱を立て、屋根をかぶせる。金屏風を奥に設え、和紙や布製の着物を羽織った「お内裏様やお雛様」を鎮座させる。それが済むと、桜の花をあしらった「ぼんぼり」に花を両側に立てると完成だ。飾り終えるまで、2時間くらいはかかっていただろうか。
 ひと揃いに整った形の、金色の屏風を背にした「お内裏様」や「五人囃子や笛太鼓」であったのではない。人形たちには色々ある。いずれも泥を固めた上に上塗りしたもので、一様に穏やかな表情をしている。人形たちは、時代とともに少しずつ揃えられていったのだろう。珍しいところでは、木製の虎があって、そいつは中をくりぬいた、うまい仕組みになっていた。というのは、その首から頭の部分が胴体からの穴の部分に、半ば宙ぶらりんになるようひっかけられる。そこで頭の部分を手の力で左右の方向に振ってやると、それにつられてどこか愛くるしい表情をした虎の顔も、振り子のようにして振られる。こうなると、怖い虎の目もなんだか笑ってくれているように見えるから、愉快だった。今から思えば、同じ美作の勝山あたりで造られた寅さんであったのかもしれない。それらの脇役のものを含めて、雛たちを一通り奥の間に並べてから、しばらく眺めて悦に入ったものである。
 3月初めの頃は、まだ昼間でも肌寒い日が続く。年によっては、雪がどかっと降ることもあった。最大で50センチ位もあったろうか。そんな時は意気揚々と歩く訳にはいかない。村の道も何もかも、雪の世界に囲まれてしまっていた。それでも、私たちの住んでいるの西下(にししもぶらく)の道の所々では、様々な種類の梅の花が咲いた。枝を切って紅い輪が見えるのが紅梅である。あの頃見たのは「月宮殿」という野梅性で八重の花弁のものだったのだろうか。「内裏」と呼ばれる野梅系、紅筆性の別は、こちら関東に来て、初めて「梅園」というものを見るようになってから知った。ちなみに、我が家の梅の木は一本だけで、墓から家に向かって降りていく、急な坂の途中に立っていた。
 梅の実は2年か3年ごとくらいにたわわに実をつけていたのではないか。まだ実が小さくて青いようだと放っておく。薄黄色が色に入ってきたら、天気のいい時を見計らって、実を採ってから小亀に入れて家に持ち帰る。塩をまぶして重石(おもし)を施して数日放っておく。梅の汁が染み出ているのを確かめてから、家で栽培している生姜と赤しそを入れて本漬けを行う。赤紫蘇は塩揉みにしてあく汁を搾り出してから使う。これで梅が赤く染まる。関東の方ではさらに酒をふりかけているらしいが、私の田舎ではそこまで手のこんだことはしなかった。
 やや暖かくなると、田圃のあぜ道などで、よもぎなどの若葉が芽吹いては、青さを帯びてくる。雑草が伸び始めているのだ。雑草たちは互いに競争しており、横に埋まったら、今度は高さを競い合うという具合だ。田圃の畦道や農道の端にはたんぽぽの花が沢山咲いていた。小さなすみれが草の中から蕾を見せてきた。
 山のあちらこちらには、紅色や薄いピンク色を基調としたつつじが咲いている。山に自生している大半のものは赤いが、ところどころ朱色のものが混じっている。白いのはめったにお目にかかれない。春になれば、日増しに暖かくなる。清々しい風も、みまさかの野を駆け回る子供たちの頬にも当たってくる。その中で植物たちが土の中から新しい緑の葉を伸ばし、花をつけるなりして、あちらでもそちらでも方々に姿を現す。彼らが息づいてくると、それを食べる生き物たちでみまさかの野に現れるものが出てくる。正に蠢動と言うことになってくる。野生のうさぎなんかの小動物から、たぬきやいたちなど中程度の大きさの動物も、みまさかの野に出て活動を始める。
「はるがきた はるがきた どこにきた
山にきた 里にきた 野にもきた」(文部省唱歌「はるがきた」)
 もう一つ紹介しておこう。
「どこかではるが うまれてる
どこかでみずが ながれだす
やまのさんがつ そよかぜふいて
どこかではるがうまれてる」(百田宗治作詞・草川信作曲「どこかではるが」)

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