♦️354『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮の三・一独立運動

2018-04-06 09:21:37 | Weblog

354『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮の三・一独立運動

 「三一独立運動」というのは、1919年3月1日、朝鮮半島での大衆行動のことである。これの先駆けともいえるであろう動きが日本にあったらしい。2月8日、在東京留学生が集会を開いて決議した「二・八独立宣言」があり、彼らはそれに某か励まされ、パリ講和会議へ向けて意思表示を表そうとする。33人のキリスト教、天道教、仏教徒からなる「民族代表」の名で、これを企画したのだという。
 この日、現在の韓国の首都ソウルのバゴダ公園に、かなりの民衆が集う。人々は、「われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、朝鮮人が自主の民であることを宣言する。これを世界万国に告げて人類平等の大義を明らかにし、子孫万代に告げて民族自存の正当な権利を永久に享有させようと思う。」から始まる宣言文を発す。そして、「独立万歳」を叫びながら、市街に下っていった。この宣言文の体裁は、いわば知識人たちがまとめ、「民族代表」の名で公表する形をとっている。
 この独立運動は、それから日を経るうちに朝鮮全国に広がっていく。日本が韓国を併合し、植民地支配を強いている中での出来事であったから、日本の官憲はこれの取締まりに動く。しかし、比較的穏健な行動でもあったことから、当初は大規模な衝突ではなかったものとみえる。
 それでも、数ヶ月にわたって行われた示威運動の中で、一説には延べ200万人以上の民衆が参加したと言われる。そうなっては、日本側が民衆に発砲したりの場面も相当数出てくる。どれくらいの犠牲者が出たのかにについては、日本側の史料では明らかでない部分が多く、朝鮮側の史料に頼るしかないのが現状のようだ。
 この運動は、直接的にはパリ講和会議へ向けて意思表示を表そうとしていたといわれる。朝鮮の国益が損なわれているのを何とかして盛り返したいとの思いが強かった。そのためには、民族としての誇りに訴えねばならないと。
 この運動は、外国にもかなりの影響を与えたという。それは、ひとつの世界としての朝鮮半島にとどまらない、第一次世界大戦後のアジアの民族運動高揚の先駆けとなる。中国大衆による五・四運動も、これに触発された一つであろう。ただし、当時の朝鮮王朝の有様なとど絡んでの評価は、なお追求されるべきものを含んでいる。
 一方、人民への圧政を行っていた側としての日本では、この運動に対する評価は大方、限られていたらしい。自称「民本主義者」の吉野作造は、これを看過できなかった。彼は、当時の日本の知識人の良心を述べるべきと判断したものとみえ、こういう。
 「我が国民は、由来政治問題に関する道徳的意識は甚だ鈍い。」(評論集『中国・朝鮮論』)
 「一言にして言えば、今度の朝鮮暴動の問題に就ても、国民のどの部分にも「自己の反省」が無い。凡そ自己に対して反対の運動の起った時、これを根本的に解決するの第一歩は、自己の反省でなければならない。たとい自分に過ち無しとの確信あるも、少くとも他から誤解せられたと言う事実に就ては、なんらか自ら反省するだけのものはある。」(同)

(続く)

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