51『美作の野は晴れて』第一部、秋の風物詩3(畑や野や山の幸)

2014-11-03 18:44:15 | Weblog

51『美作の野は晴れて』第一部、秋の風物詩3(畑や野や山の幸)

 我が家の田んぼの近くには、くぬぎやさわら、ならなどの木の枝も垂れかかっていて、隔年の当たり年には、どんぐりがたわわに実っていた。
 「どんぐりころころドンブリコ、お池にはまってさあ大変、どじょうが出て来てこんにちは、坊ちゃん一緒にあそびましょう 」(『どんぐりころころ ドンブリコ』、作詞は青木存義、作曲は梁田貞)
 大豆と小豆の取入れも、大抵は秋晴れの日を選んで行うことになっていた。たわわに実がなった豆の木を根ごと抜いてから、その束を手にとってみる。豆柄がどっしりしており、揺らしてみて、「カラカラ」という乾いた音が出るようなら上出来である。これは収穫した後、一輪車などに積んで家に持ち帰り、丸いリングが付けられているある豆はぜ機にかけた。そのペダルを片足で交互に踏むと「ギーゴン、ギーコンという音が出て、丸い鉄製の突起が一杯ついたドラムが回って実が入ったからを絡め取る仕掛けであった。しだいに踏む時間の間隔を短くしていくと、ドラムは高速で回転し、勢いよく豆をはぜて下に強いている筵の上にその豆を落とすのだ。
 取り入れた大豆の一部は自家製の味噌を作るのに用いた。大豆のタンパク質を発酵させ、そのタンパク質がアミノ酸に分解したものが味噌ということで知られている。大豆は竈の鍋で茹でてから器械にかける。それはの持ち物であったろう。
 アルミニウム製のような練り機械の上の口から豆を入れ、ハンドルの取っ手を回すと、シリンダのような金属の筒の中を、スクリューのような歯が廻る仕掛けで、その隙間を豆が水平方向に順次出口へと送られる。送られていくにうちに、歯の回転力によってすりつぶされていく仕掛けがしてある。西下の婦人会の持ち物ではなかったか。水平に筒状になった出口の下には樽が置いてあり、その中に味噌の原料は落ちては溜まっていく。ある程度入ると、その度に上から塩とか柚の皮を加える。それから蓋をして裏の蔵の中に樽ごと、母屋の裏手に立っている倉で貯蔵する。
 秋にちなんだ歌には、もっと伸びやかで軽快な調子のものもある。
 「だれかさんがだれかさんがだれかさんがみつけた、小さい秋小さい秋小さい秋みつけた、目かくし鬼さん手のなる方うへ、すましたお耳にかすかにしみた、呼んでる口笛もずの声、小さい秋小さい秋小さい秋 みつけた」(『小さい秋みつけた』、作詞はサトウハチロー、作曲は中田喜直)
 秋には、夏の初めに植えた野菜の収穫がある。代表的なのは、大根、白菜、唐辛子とい
うところだろうか。唐辛子にもいろんな種類があって、私の家の畑でで栽培していとうがらしは、小さな緑をしたものであった。食べ方としては、七輪の上で焼いたり、フライパンに植物油を敷いて揚げたのものに、醤油を少し垂らして食べると、ご飯が進んだ。時々、辛いのに出くわすが、見た目にはどうしてもわからなかった。そういえば、かすかに春の兆しの表れた2015年1月30日の各紙朝刊に、岡山県鏡野町奥津地域で29日行われた、特産の「姫とうがらし」の雪ざらしが紹介されており、懐かしさがこみ上げてきた。いる。そこでは、真説が降り積もっているその上に、赤い唐辛子がゴルフ場の一角に長さ約20メートルのネットを敷き、更にその上に唐辛子が帯状に敷き詰めて行われているようだ。姫とうがらしを使った商品開発に取り組む地元のNPO法人「てっちりこ」が行う農作業であって、町内の生産農家約20戸が昨秋収穫した約3トンのうち、塩漬けした赤と緑の唐辛子約400キロを並べたのだといわれる。新聞によると、これで塩気やアクが抜かれ、外川も軟かくなる。その後の工程は、米麹と混ぜ合わせてミンチ状にし、さらにたるの中で3年間熟成させる。そして、これが加工業者に渡って、「とうがらし味噌」や「とうがらし醤油」に加工されるのだという。この特産品の栽培と加工がいつ頃から始まったのか、美作にいるときには、まるで気づかなかった。
 秋はまた、山や野でも実りが多い。光を浴びて光合成によって作る養分、そして根から吸い上げる水によって木は育つ。2本の木が寄り添う場合は、どちらかが優勢になって、一方は生長が良くない。同じ木でも、日当たりが悪く、思うように光合成ができない枝と葉がある。人間の社会でいう経済性と同様に、採算がとれなくなった枝は枯れてしまい、代わりに違う枝が伸びていくという具合だ。彼らの生産物である杉の実は厚い包皮で覆われている。動物や昆虫に食べられないように、我が身を守っているのかもしれない。
 あけびは、可憐な山の果物である。我が家の西の雑木林に群生地があった。雑木に絡まってつるが伸びて、そのところどころに実がなっている。葉は柄が長くて、五葉になっている。4、5月に淡い紫色の花が咲くというが、その季節では見た覚えがない。秋も深くなってから、実が熟してくるので、そちらへ目が向く。それで見つかるという訳だ。果実は5センチから7センチくらい。ぱっくり皮がめくれて、中から白いような、薄桃のような色の果肉が見える。厚ぼったい皮は薬用になると聞いている。鎌でつるをたぐり寄せるようにして、引っ張って、たぐり寄せてから実を取る。その実を手で、破らないように採り上げてから、口の中に入れる。そして、チューインガムを噛むときのように、何度も噛む。すると、だんだんに上品な味がしてくる。今でも、こちら埼玉の田舎の農産物販売所に行くと、時折売られている。噛むのに時間がかかって、そのうち口とあごがだるくなってくるのも、秋ならではのご愛敬と思えばよい。
 栗は、みまさかの辺りでは、自前で植えている話はあまり聞いていない。村落に近い山際とか野原、畑の脇などに無造作に植えられているようである。9月の台風のとき、自然と山や野の大地に落ちる。家(うち)から西にしばらく行った林の中に、何本かの栗の木があった。ぱっくりとイガを開けているのは、幹を揺すってやると、かなりが落ちてくる。地面に落ちていない栗を取るには、柿を採るときと同じ要領で竹竿の先で挟んで、くるりと廻して地面に落とす。当時の西下内では、「丹波栗」のような大きな実がなっているのは見なかった。拾ってきた栗は、鎌の先で少し傷を付けてから、風呂の焚き口にくべて焼く。そのうち、「ポン」という音ともに殻が弾けると、取り出して冷やした後皮を剥き、無心になって食べていた。栗ご飯にする栗は、水で洗ってざるに上げておく。それをゆがくか、熱湯に浸してしばらく置くと、ころなしか皮が柔らかになるので、渋皮ごと手で剥く。これを米、だし汁、醤油に、塩と砂糖を少々入れて栗ご飯を炊く。出来上がった栗ご飯にごまをふりかけていただく。
 天津栗のように煎ったり、正月料理の栗きんとんにして食べるのは、その頃はまだ知らなかった。道端や、田んぼや畑の際の山の傾斜地などには、クワやアキグミが自生している。クワは紫色の実をたわわにつけており、熟れてくるとその紫色が黒みがかってくる。アキグミの果実は、サーモンピンクの色をつけている。ただ甘いのではない、渋みの勝った甘さといおうか。甘酸っぱい味が口の中に広がってなんとも美味しくて、幸せな気持ちになれる。掌一杯のアキグミを一遍に口に入れて噛んだときの味は忘れられない。なつめは黄色から褐色を帯びてくる。楕円形の果実で、味は大して甘くないものの、口の中で噛むほどに、上品な甘さがじんわりと伝わってきて、なかなかに旨い。
 こうした自然の幸は、昔から多くの人々を飢餓から救ってきた。ユダヤ教、キリスト教、それからイスラム教の発祥地は中東やシナイ半島の辺りであり、そこにいるのは砂漠の民、遊牧の民である。彼らにとって一番大事なのは、昼は灼熱、夜は零下の過酷な自然環境に耐え抜いて生きていくことである。そこでの選択肢は基本的に「これか、あれか」の二社者択一を迫られている。そんなことだから、その選択を決定づけるための知恵なり、決断を与えてくれる強い神が必要とされた。それがヤハウェであり、「父なる神」であり、「アッラー」に他ならない。
 「さて、全地は一つのことば、一つの話ことばであった。そのころ、人々は東の方から移動して来て、シアヌルの地に平地を見つけ、そこに定住した」(約3000年前に編纂された『旧約聖書』の「創世記」第14章)とある、その定住での生活を神は嫌い、建設中のバベルの塔を壊し、話しことばを混乱させたことになっている。
 これに対して、日本の大方の自然はおよそ厳しくない。ここでの人と土地は「一心同体」、「一如」と形容されるように、分かち難く結び付いている。共同体の中では決して豊かではないけれど、みんなで支え合えばどうにか生きていける。人々が日本列島の各地に散らばっていった縄文期、それだけの温暖さと、降雨がこの列島にはあったことが、いまでは考古学上に明らかとなっている。このような風土に生きる人々にとって、土地や自然を超越する唯一・絶対の「天上の神」は必ずしも必要ではなくなっている。
 そんな日本に、百済から仏教が伝わったのは、538年とも546年ともされている。
百済の前身は、マハン(馬韓)の50余の小国の一つで、4世紀には歴史の表舞台に登場する。人というものは、生きている間に善いことを行い、徳を積むことで極楽浄土に昇ることができるという東南アジア仏教に比べて、日本の仏教は衆生のみんなを救いたい。「大乗」といいながらも、その仏教だけでは心許ない。だから、日本の仏教は古代の神々と共存して役割を分担する路を選んだ。仏教もまた日本の風土の中で、変容していったではないか。この国の人々は、入れ替わり日本の自然に育まれて生きてきた。
 農繁期には、当然のことのように1週間から10日程度の休暇がもらえた。学童の大半の家が農家であって、手伝いが奨励されていた。当時の田舎の時間の流れは緩やかであった。朝は速いが、夜寝る時刻も早い。

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