今日は、先週に引き続いて、勢古浩爾さんがまとめた「吉本隆明74語より」という本からの感想の抜粋です。青字は、吉本隆明の文章。黒字は筆者の感想。
市井の片隅に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。(「カール・マルクス」)
(人間の生き方において)自分の意志力が貫きうる範囲は、まあせいぜいいって半分です。あとの半分は外界が決定するのです。(「敗北の構造」)
のんびりやろうが、普通にやろうが、急いでやろうが、とにかく10年という持続性があれば、かならず職業として成立します。面白くても面白くなくても、コツコツやる。必死で頑張らなくったっていいのです(「ひきこもれ」)
◇コメント
吉本が「カール・マルクス」で述べたこのような言葉が吐ける人間は、あなたの周りにいるでしょうか?千年に一度しかこの世に現れない人物も、それに先立つ何百世代もの祖先の血縁の連鎖の偶然の結果で、この世に生まれ出ているにすぎないのです。それがたまたま本人が生きたその時代の環境と交わり、ある分野においてその時代が要請する「才能」が発揮されたにすぎないと言えます。何故に、市井の片隅で自分なりに素朴に生きる人間と価値を隔てる必要があるでしょうか。人類の連鎖としては同じ位置付けとして考えなければならないと思います。寒冷な気候に適応した白人と、熱帯の気候に適応した黒人の間に、外観による価値付けを行う人間がいるとしたら、いったいそれはどういう根拠からなのでしょうか?それとおなじで、人間の生き方もそれぞれの環境において、半分は外界に決定されながら異なっていくだけですね。そこには価値の序列において優劣を示す論拠はないのです。
こうした考えは、仕事を進めるに際しても肝に銘じた方がよいと思います。あなたがもつ言われのない「優越感」のようなものは、そのまなざしを受ける人間の直観に必ずや捕捉されているものであると考えた方がよさそうです。
市井の人でも、10年かけてコツコツやれば職業として成立するという吉本の意見は全くその通りですね。問題は持続するかどうかだけであり、これが「価値ある存在」となれるかどうかの分かれ目になるようです。
市井の片隅に生まれ、そだち、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。(「カール・マルクス」)
(人間の生き方において)自分の意志力が貫きうる範囲は、まあせいぜいいって半分です。あとの半分は外界が決定するのです。(「敗北の構造」)
のんびりやろうが、普通にやろうが、急いでやろうが、とにかく10年という持続性があれば、かならず職業として成立します。面白くても面白くなくても、コツコツやる。必死で頑張らなくったっていいのです(「ひきこもれ」)
◇コメント
吉本が「カール・マルクス」で述べたこのような言葉が吐ける人間は、あなたの周りにいるでしょうか?千年に一度しかこの世に現れない人物も、それに先立つ何百世代もの祖先の血縁の連鎖の偶然の結果で、この世に生まれ出ているにすぎないのです。それがたまたま本人が生きたその時代の環境と交わり、ある分野においてその時代が要請する「才能」が発揮されたにすぎないと言えます。何故に、市井の片隅で自分なりに素朴に生きる人間と価値を隔てる必要があるでしょうか。人類の連鎖としては同じ位置付けとして考えなければならないと思います。寒冷な気候に適応した白人と、熱帯の気候に適応した黒人の間に、外観による価値付けを行う人間がいるとしたら、いったいそれはどういう根拠からなのでしょうか?それとおなじで、人間の生き方もそれぞれの環境において、半分は外界に決定されながら異なっていくだけですね。そこには価値の序列において優劣を示す論拠はないのです。
こうした考えは、仕事を進めるに際しても肝に銘じた方がよいと思います。あなたがもつ言われのない「優越感」のようなものは、そのまなざしを受ける人間の直観に必ずや捕捉されているものであると考えた方がよさそうです。
市井の人でも、10年かけてコツコツやれば職業として成立するという吉本の意見は全くその通りですね。問題は持続するかどうかだけであり、これが「価値ある存在」となれるかどうかの分かれ目になるようです。
小林秀雄が生涯かけて述べ続けた主張と似ていますね。
いや、それを言うなら、キルケゴールやサルトルと一緒だと
言ってもいいのかもしれません。
「人生の一回性」といった言葉も、吉本隆明の著作の
あちこちで見かけたような気がしますが、
彼のこういったところ、やはり根が詩人なんだなと
思ってしまいます。
>あなたがもつ言われのない「優越感」のようなものは、
>そのまなざしを受ける人間の直観に必ずや捕捉されている
というmariomariさんのコメントにも
思わずハッとしてしまいました。
>そこには価値の序列において優劣を示す論拠はないのです。
とは、どのような生き方をしているかに優劣はないという意味でしょうか?
>これが「価値ある存在」となれるかどうかの分かれ目になるようです。
ここで言う「価値ある存在」とは、どのようなことを行っているのでしょうか。
僕はこのようなご指摘と素直に向き合うことによって自分の考えを修正したり深めたりするして一人前の考え方を少しでも身に着けることができればと考えています。この程度の回答・返事しかできず、申し訳ございませんが、自分の考えをよりよいものにするためにもこれからも今回のような鋭いご指摘をいただければと思います。1つ1つ向き合い自分のできる限りの回答をどの問いにもしてゆくのでこれからもよろしくお願いいたします。
価値の序列の優劣を決めるものとして、その人の外観(地位、職業、有名・無名など含みます)で判断することは、差し控えることとして、吉本も使っているのだと思います。さすがに、カール・マルクスのことまで、そのように考えることまでは、私も及びませんでした。
10年の持続で「価値ある存在」になるということは、ここでは、職業として成立すること、という程度に考えています。吉本の場合は、詩人、思想家としての基礎をなす文筆力を、若い時から仕事から帰ってから部屋に引きこもって文章を書き続けることで身に付けたようです。もっとも10年続ければ必ず職業としてものになるかどうかは、その10年間の密度や方法論にも依るものと思います。
lucky clickerさん、
小林秀雄は私も気になっており、いずれきちんと読まなければと思っております。そうですね、吉本はやはり詩人だと私も思います。詩的な世界にいる人間でないと、このような人間に対する眼差しが生まれてこないような気がします。
現代文の授業は、私も学校で一番印象に残っております。その他の知識修得レベルの授業は試験のためだけに暗記したので、ほとんど役に立っておりません。学習IからIVまでの学習の階層性を主張している学者がおりますが、知識修得レベルは学習Iと位置付けております。全く役に立たない訳ではありませんが、学習IIやIIIへと進んでいかないと意味を失います。現代文はその点ある種の思想レベルの言説に触れる機会を提供しておりますので、学校の学習Iのレベルの中では将来の役に立つ可能性がありますね。そうした点では、私にとって本当に役だったのは、会社に入り立ての若い頃、会社に1時間だけ早く来て、学生時代に読み切れなかったドストエフスキーの小説を半年かけてすべて読んだことを通じて得られたものでした。バフチンが異種混交のポリフォニーと言っておりますが、まさにドストエフスキーの小説の魅力はポリフォニーにあると思います。