豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

千ヶ滝の思い出

2006年08月09日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 このブログを書き始めたきっかけの1つは、新聞で見た与謝野馨大臣の資産公開の中に、かつてご近所だった与謝野さんの別荘と思われる「軽井沢町長倉獅子岩」所在の不動産が載っていたことだった。
 久しぶりに目にした「獅子岩」の文字に、小学校時代の軽井沢千ヶ滝の裏山での冒険を思い出したのである。

 これまでこのコラムに書き込んできたあれこれの思い出は、ぼくにとっては“軽井沢”の思い出なのだが、先般買った「軽井沢の法則」なる本--何とも後味の悪い本だった--を見ると、“旧軽井沢”在住者のなかには、中軽井沢や北軽井沢に対する敵意のようなものをもつ人がいることを知ったた。
 
 確かに、ぼくがはじめて軽井沢に行ったころは、信越線の駅は「沓掛」だったのだから、追分の人たちが、軽井沢ではなく“追分”であることを誇るように、沓掛の人たちも“沓掛”のままで通せばよかったように思う。
 しかし、沓掛駅はすでに昭和35年だったかには中軽井沢駅に改称され、行政上も北佐久郡軽井沢町長倉、郵便も軽井沢町千ヶ滝となったのだから、ぼくにとってあの町はやはり「軽井沢」なのである。
 勉強を終えて、午後になるとしょっちゅう遊びに行ったのは「軽井沢スケートセンター」だし、一時帰京する祖父を見送りに行ったのは「中軽井沢駅」であって、沓掛駅ではない。
 同じ車両に壺井栄、繁治夫妻が乗っているのを見かけたこともあった。車窓越しにぼくと祖父が談笑しているのを、和服姿で穏やかに微笑みながら見ておられた。 就職してから、夏の週末を軽井沢で過ごし、月曜の朝一番の特急で東京に戻るために送ってもらったのも「中軽井沢駅」だった。遠藤周作、芥川比呂志、時の日銀総裁(宇佐美氏だったか森永氏だったか名前は忘れてしまった)と同乗したこともあった。

 それらの思い出は、すべて、あの浅間山の壁画のある「中軽井沢駅」とともにある。
 駅の正面には西武バス(かつては軽井沢高原バスと称していた)の観光案内所があって、そのひんやりした屋内でよく時間をつぶした。“沓掛”は、せいぜい中軽井沢駅前の土産物屋で売られていた“沓掛饅頭”だったか、“時次郎饅頭”くらいしか思い出にない。だから、あれこれの思い出を“沓掛”の思い出とは考えられないのである。
 
 しかし、旧軽族が旧軽以外を「軽井沢」と呼ばれたくないのならば(もっとも「法則」には田崎美術館やセゾン美術館、それどころかペイネ美術館などまでもが「軽井沢」の情報として載っているのだから、あの人たちの地域としての「軽井沢」へのこだわりがどれほどのものかは疑問だが)、ぼくは別に「軽井沢」にはこだわらない。
 所詮、ぼくの心の中の本当の“軽井沢”はとっくの昔に消えてしまっているのだから。
 ぼくの思い出は“中軽井沢”の思い出、“千ヶ滝”の思い出というのでもいいような気がする。ときどき草軽鉄道や、旧道、南軽井沢方面にも遠征することがあるが、思い出の中心はやっぱり“千ヶ滝”周辺である。

 その千ヶ滝の由来である千ヶ滝(鬼押し出しに向かう道をかつての観翠楼の手前辺りで左折してしばらく山の中に入ったところにあった)に行ったときの写真をアップする。
 1957年夏のものである。この後突然軽井沢名物の激しい夕立となり、みんなで走ってスケートセンターの温泉に駆け込んだ。
 
  2006/8/9

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