豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

映画「トランボーーハリウッドに最も嫌われた男」

2024年10月10日 | 映画
 
 昨日10月9日の午後、13時~15時まで、映画「トランボーーハリウッドに最も嫌われた男」(2016年、アメリカ)をNHK-BS で見た。偶然やっていたので見たのだが、なかなか良かった。

 トランボは、第2次世界大戦後の米ソ冷戦下にアメリカでマッカシーによる赤狩りの嵐が吹き荒れていた頃、「アカ」と烙印を押されてハリウッドを追放された脚本家、作家である。
 ぼくは、トランボの名前を「ジョニーは戦場に行った」という映画と書籍で知った。
 戦争で四肢を失った帰還兵の物語で、ぼくはてっきり第2次世界大戦が舞台だと思っていたが、映画上映を機に出版された原作(角川文庫、1971年、下の写真)の後書によると、原書の出版は1939年で、第1次世界大戦が舞台だった。第2次世界大戦へのアメリカの参戦とともに禁書とされ、1945年の戦勝で一時出版が許されたが、マッカーシーの赤狩りで再び禁書とされたという。トランボは「戦時中は禁書となり、戦後出版できる」ということは私にとって喜びではないと述べている(286~7頁)。
 なお、角川文庫ではトランボの名前を「ドルトン」と表記していて、ぼくも「ドルトン」になじんでいるが最近は「ダルトン」と呼ぶらしい。

       

 さて、映画「トランボ」は、そのマッカーシーの赤狩り旋風がハリウッドを覆っていた頃のハリウッドの映画産業界を舞台に展開する。
 リベラル派と目された監督、脚本家、俳優らが次々と議会に召喚され、「お前は共産党員だったか否か」と踏み絵を強要される。党員だったと答えれば、「他に誰が党員だったか」と追及される。同僚の中にはハリウッドで仕事を失うことを恐れて仲間を売ってしまう裏切り者もでるが、トランボは議会での証言を最後まで拒否したため議会侮辱罪で数か月間刑務所に収監される。刑務所では「アカ」の白人インテリとして嫌われ、重労働を課され、牢名主のような黒人受刑者からの嫌がらせを受ける。出所後も隣の住人からプールに汚物を投げ込まれたりする。
 トランボは、売れっ子の脚本家だったので経済的には裕福だったようで、郊外のプールつき住宅に妻(ダイアン・レイン)と3人の子どもと住んでいて、その裕福な生活ぶりが印象的だった。「アカ」といってもアメリカの「アカ」は日本と大分雰囲気が違う。

 ハリウッド映画産業界には「アカ」のブラックリストが出回っていて、そこに名前のある者はハリウッドでは仕事ができなかった。出所後のトランボもハリウッドでは脚本書きの仕事にありつくことができず、三流の映画会社と契約して、様々な仮名で大衆映画の脚本を書いては生活費を稼いでいた。やがて、彼の才能を見込んだハリウッドの製作者が、ハリウッド映画のために匿名で脚本を書くことを依頼してくる。
 この時に書いたのが「ローマの休日」の脚本だった。手元にある “Classics Movies Collection” DVD版の「ローマの休日」を見ると、原作「イアン・マクラレン・ハンター、ダルトン・トランボ」、脚本がハンターと「ジョン・ダイトン」(実在の人物なのか?)、 制作と監督がウィリアム・ワイラーで、1953年公開とある。「ローマの休日」はぼくの大好きな映画の一つで、トランボの脚本であることは知っていたが、彼がハリウッドで復権するまでは匿名(ハンター名義)とされていた。
 昨日見た映画では、トランボが最初に提案した原題は「王女と無骨者」!だったというが、制作者の一言で却下され、「ローマの休日」“Roman Holiday” に変更されたという。「王女と無骨者」では歴史に残らなかったかもしれない。「ローマの休日」はアカデミー賞の脚本賞だか原案賞だかを受賞したが、トロフィーにはハンターの名前が刻印されている。トランボは受賞自体は喜んだが、トロフィーにはまったく執着しなかった。

 その後も、トランボはロバート・リッチという仮名で発表した「黒い牡牛」(1956年公開)でもアカデミー賞(原案賞)をとっている。映画では、トランボがタイプライターに向かって書いているのが「脚本」なのか「原案」なのかは分からなかった。ちなみにトランボ死亡時の死亡記事では彼の肩書は「映画台本作家」となっている(後掲)。「台本」と「脚本」もどこが違うのか?
 その頃(1950年代末)までは、なおハリウッドでは「アカ」の「ブラックリスト」が存在するとされていて、そのリストに載っている人間はハリウッドの大手映画会社からは締め出されていたのだが、当時まだ若手だが人気俳優だったカーク・ダグラスがトランボを訪ねてきて、彼が制作、主演する「スパルタカス」の脚本の執筆を依頼する。そして彼は、完成したフィルムのクレジットに脚本としてトランボの実名を明記した(1960年公開)。
 ハリウッドに隠然たる影響力を持った元女優(ヘレン・ミレンが嫌味な老女の役を演じていたが、モデルは誰か?)から横やりが入るが、ダグラスは西部魂(?)ではねのける。
 さらに、オットー・プレミンジャー監督がトランボを訪れて、「栄光への脱出」の脚本を依頼する。これも実名での公開だった(1961年公開)。映画を鑑賞した J・F・ケネディが激賞したのは「スパルタカス」だったか「栄光への脱出」だったか。もうこの頃には、赤狩りの勢いは衰えていて、本当に「ブラックリスト」などが存在しているのかも怪しくなっていたらしい。
 赤狩りの「ブラックリスト」で、ぼくは今読んでいる平野謙「昭和文学私論」(毎日新聞社)のプロレタリア文学弾圧(小林多喜二拷問死)時代の日本の文壇状況を思い出した。太平洋戦争勃発時に情報局嘱託の地位にあった平野は、情報局課長の机上にそのような「ブラックリスト」が置かれているのを目撃したと証言している(369頁)。密告などに基いてある右翼作家が、特定の作家、評論家を陥れるために作成したという。 

 こうしてハリウッド映画界に実名で復帰を果たしたところで、映画「トランボ」は終わるが、映画には出てこなかったが、その後も自作の「ジョニーは戦場に行った」(1973年)などの脚本を書いた。
 この映画は、マッカ―シーによる議会での赤狩りや、それに同調したハリウッドの映画産業界を相手に戦う反マッカーシズムの闘士としてのトランボだけでなく、友人同士の友情と裏切りや、「仕事の邪魔をするな!」と愛娘を怒鳴って彼女の16歳の誕生日パーティに顔も出さないで、バスタブに浸かってタイプを打っているなど家庭内でのトランボの姿も描かれる。家族を大事にすると公言していたトランボにしてこの態度である(後には改心したようだが・・・)。
 今日の狂信的なトランプ支持者にまで至る戦後アメリカの暗黒面を強く印象づける映画だった。
 
 なお、「ジョニーは・・・」(角川文庫)に挟んであった死亡記事によると(紙名不詳1976年9月16日付)、トランボは1976年9月10日に70歳で亡くなった。映画のエンド・ロール(?)の中にも出ていた。

 2024年10月10日 記
 ※ 快晴だった60年前の1964年10月10日(土)の東京と違って、今日の東京は朝から時おりわずかに薄日が射すだけのどんよりとした曇り空である。10月10日は特異日(統計上晴れの日が有意に多い日)と言われていたが、今年は外れたようだ。

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