豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

紀田順一郎「日記の虚実」

2024年09月16日 | 本と雑誌
 
 紀田順一郎「日記の虚実」(ちくま文庫、1995年。元は新潮社、1988年)を読んだ。
 川本三郎「ミステリと東京」の紀田の紹介欄でこの本の存在を知って、さっそく図書館で借りてきた。永井荷風「断腸亭日乗」が取り上げられているのではないかと期待したのだが、期待通り載っていた。しかもかなり荷風に対して辛口の評価である。荷風「日乗」を客観的に読むうえでも役立ちそうである。

 紀田によれば、本書が刊行された1988年頃、わが出版界で「日記ブーム」が起きたという。一般に作家の日記は文学評論の対象として作品論が展開されてきたが、紀田は、日記は「日記論」ないし「日記研究」の視点から検討する必要があるとして、本書を書いたという(263頁~、296頁)。
 作者はなぜ日記を書いたのか(動機)、日記に何を書いたのか(内容)、その日記は記録なのか、創作なのか、内容の真偽はどのように確定するかなど、「日記」は「日記」という形態の特殊性から解読する必要がある。紀田は、日記を書く動機として、わが国の学校での日記教育(大宅壮一「青春日記」など)、海外生活の経験(荷風「日乗」など)、人生の展開、転機など(徳富蘆花、竹久夢二の日記など)があるという。
 最初は荷風「日乗」の章だけを読むつもりだったが、面白かったのでついついほぼ全部を読んでしまった。

 その日記が公開を予定して書かれたのか、公開を予定ていなかったかも重要である。
 樋口一葉は公開を予定していなかったが、一葉の没後に妹が添削を加えて発表したことが明らかになっている。
 紀田は「一葉処女説」論争に最大の関心を寄せる(そんな論争があったとは!)。一葉は小説の師匠である半井桃水と観想家久佐賀義孝という二人の男と交渉があった。半井との間には性的な関係はなかったとするのが通説のようだが、久佐賀との関係は日記からは明らかでない。紀田は、経済的に苦境にあった一葉が久佐賀から60円(現在の金額で180万円くらい)の借金をした以降の8か月間に及ぶ日記が欠けていることに注目する。この間は一葉が日記を書かなかったのではなく、久佐賀との間の微妙な内容が書いてあったので妹が抹消したのではないかと推測する(46頁)。
 この論争には、塩田良平、吉田精一など、ぼくが高校大学受験の頃の国語参考書や辞典の著者、監修者として名前を知った人たちが登場する。荷風も、一葉は桃水の妾だったという説を和田芳恵に吹聴した人物として登場する(56頁)。

 紀田の「後書き」は、本書で取り上げた日記の中で永井荷風「断腸亭日乗」をもっとも愛着を抱いてきたと書く(296頁)。しかし本文中の記述は「断腸亭」の「虚実」に集中する。
 荷風は佐藤春夫の門弟だった平井程一を気に入って懇意にしていた時期があった。最初の荷風全集が岩波書店ではなく中央公論社から刊行されることになったのも、平井と中公嘱託社員猪場毅の貢献があったからだという(101頁)。
 しかし、平井が荷風の偽書を作ったことをきっかけに両者の関係は断絶する。荷風は「日乗」の中で平井を批判しただけでなく、平井をモデルにした「来訪者」という小説まで執筆して、平井と思しき人物を「淫蕩」「強慾冷酷」な人間などと扱き下ろしているという(106頁~)。
 戦後になって、紀田は平井やその愛人(?)と面談する機会があったが、到底荷風が描いたような人間には思えなかったという(戦後の平井は荷風を「色の聖」と評したという)。荷風がそこまで平井を憎んだ理由は、平井の偽書の中に「四畳半襖の下張」が含まれており、これが官憲の目に入って自分が追及されることを恐れたためではないかと推測する(115頁~)。荷風「日乗」はこのことにまったく触れていないが、まさに書かないことによる「日記」の「虚」を示す一例である。紀田は偏奇館焼失によって「日乗」は終わっていると評する(117頁)。

 徳富蘆花の日記は、家族制度の下で自分を抑圧した父親の臨終に際して、葬儀に出席しない決意をした時から書き始められている(70頁~)。人生の転機である。日記には、父親や兄蘇峰に対する蘆花の憎しみ、同志社時代の一歳年下の女性(新島襄の姪)や同居人琴に対する思いなどがつづられている(63頁)。蘆花の妻は夫の女性関係を憎み、お互いに相手の日記を盗み読むかと思えば(79頁)、夫婦間の交合を書き残すなど(85頁)、微妙な愛憎関係が記されている。
 40年以上前に蘆花公園で、蘆花の生存時のままに保存された居室を見たが、刺繍の施された色褪せた洋式寝台のベッドカバーが印象的だった。あれがこの日記に記された愛憎劇の現場だったのだろうか。
 岸田劉生の日記は、従来からも指摘されていることのようだが、遺伝的な精神疾患や、身体的な異常への劉生の恐れが底流に読み取れるという(136頁~)。それが麗子像の変遷にも反映されているという。
 竹久夢二の日記は、博文館から立派な日記帳をもらったので書き始めたということだが、内容は、荒畑寒村を介して幸徳秋水の大逆事件に関与した嫌疑をかけられ、警察から常に監視されつづけたことによる不安が底流にあったという(156頁~)。夢二の描く絵や商業的な成功とは裏腹に、日記に記された彼の内面はかなり不安定だったらしい。大逆事件という冤罪の捏造は幸徳秋水らの生命だけでなく、荷風や夢二にまで影響していたのだ。

 野上彌生子の日記には、中勘助に対する終生変わることのなかった思い(182頁)、自分の留守中に岩波茂雄が訪ねてきたというだけで嫉妬する嫉妬深い夫豊一郎に対する不満(息子素一よりもフランス語会話力がなかったなどと夫を詰る記述もある。187頁)、志賀直哉、芥川龍之介、武者小路実篤、与謝野晶子、平塚雷鳥、宮本百合子らに対する強い反感、否定感情などが書かれている(193頁)。辛気臭そうで読む気にもならなかった野上彌生子の日記だが、意外に人間臭い内容もあるようだ。しかし読みたいとは思わない。
 古川ロッパは、ぼくはその名前を目にしたことがあるだけで、どんな人物かどんな演劇だったのかはまったく知らなかった(声帯模写の始祖だったらしい)。日記よりも、ロッパが自由民権論者から国権主義者に転向した加藤弘之の孫であり、浜尾四郎の弟であるという素性にびっくりした(242頁)。加藤は嫡子一人だけを自ら養育し他の子たちはすべて養子に出したという。養子に出されたロッパは早稲田を中退し小林一三に見出されてデビューするが、座付作者にすぎなかった菊田一夫がやがて脚光を浴びるようになると、彼に対する軽蔑と嫉妬をあらわにする(255頁)。「所詮は百姓」などと侮蔑的な言葉を浴びせる(257頁)。
 日中戦争、太平洋戦争中の日記の代表として伊藤整の日記が取り上げられているが、この時期の作家の日記はとくに「虚実」が怪しいので、読みとばした。引用された中では高見順の日記がもっとも率直な印象を受けたが・・・。
 ぼくが読んだ戦争中の日記では山田風太郎「戦中派不戦日記」(講談社文庫、1973年)が一番印象深い。引っ張り出してみると、「日記は自分との対話だ」というが、年齢相応の青臭さや噴飯物の観察や意見もある、とくに自分でも閉口するのは「妙に小説がかった書き方をした部分である」と書いている(529頁「あとがき」)。そして小学校の同級生34人中14人が戦死したという現実の前にはこの日記の空しさを感じると書き、「人は変わらない。そしておそらく人間のひき起こすことも」と結んでいる(531頁)。

 本人が日記の公開を予定していたか否かに拘わらず、今日公開されている日記を読むわれわれの側に、他人の日記を「盗み見る」楽しみがあるのは間違いないだろう(香山リカの解説は「スリルや興奮」という)。本書で紹介された、樋口一葉の支援男性との関係、徳富蘆花の蘇峰に対する憎しみ、永井荷風と平井程一の絶縁をめぐる虚実、岸田劉生、竹久夢二らの内心の悩み、野上彌生子、古川ロッパのライバルに対する敵愾心など、いずれも他人の日記を合法的に「覗き見」る面白さがなかったと言ったら嘘になるだろう。
 紀田は、日本人の日記の特徴として天候に関する記述が多いことと、俳諧的であることを指摘する(289頁~)。内容の真偽、虚実はともかく、荷風の「日乗」の気候描写がその日の荷風の心象までを表わしており、その漢文調の流麗で簡潔なな文章は漢詩の訓み下し文を読んでいるような印象だったことが想起される(ただしぼくの知っている漢詩は教科書に載っていた李白、杜甫、孟浩然などごくわずかだが)。

 ぼく自身は、1964年(中学3年生)から3年間は旺文社の「学生日記」で、その後の約10年間は大学ノートに日記を書きつづけた。1974年に編集者になってからは出版団体が毎年発行する小型の「Books」という日程表に日々の予定や出来事をメモに取り、教員になってからは所属大学が発行する日程表に日々の予定や行動をメモしてきた。
 ぼくが日記を書き始めた動機は、旺文社の学習雑誌の広告を見たからだと思うが、その後の大学ノート時代は、思春期・青年期の自分を老後になってからもう一人の自分がふり返る楽しみ、ノスタルジックな回顧趣味のためだった(紀田も、日記には後から自省したり回顧する意味があるという。282頁ほか)。
 日記を書いてきた唯一の実益は、大学を定年退職する際に学内紀要に「業績目録」というものを掲載してもらう際の資料として大いに役立ったことである。大した「業績」もなかったが、教員時代の「自分史」を作るつもりで30年弱の日記(日程帳)を全頁読み返して、「業績」といえるかどうか分からないが、教師(その前の編集者)としての活動を洗いざらい列挙した。
 この「豆豆先生」は2006年から書き始めたが、2020年の定年退職後はこの「豆豆先生」だけが唯一の「日記」になってしまった。いやいや、「お薬手帳」と「血圧手帳」もあったか。

 2024年9月16日 記

 ※ 参考文献欄(300頁)の「秋葉太郎」は「秋庭太郎」の誤り。
 
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 川本三郎「ミステリと東京」 | トップ | 「小津安二郎は生きている」... »

本と雑誌」カテゴリの最新記事