豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

“アラバマ物語”

2007年10月21日 | 映画
 昨夜、“アラバマ物語”を観た。

 朝ベッドから起き上がるときには、いまだにかなりの痛みがあるのだが、起き上がってしまって20~30分もすると、何とか二足歩行ができるようになった。

 リハビリかたがた、ゆっくり歩きながら駅前まで散歩に出かけ、書店で500円DVDの“アラバマ物語”と“シャレード”を買ってきた。
 (吉永小百合主演の“まぼろし探偵”などもあった!全10巻か何かだったが、第1巻がなかったので、やめておいた。いつか買うぞ。)

 “アラバマ物語”には思い出がある。子どもの頃(といっても中学生になっていたかもしれない)、母親が“暮らしの手帖”をとっていて、毎号裏表紙か表紙裏に、この“アラバマ物語”の翻訳本の広告が載っていたのである。
 白いままの地に、“暮らしの手帖”の題字と同じく、おそらく花森安治のレタリングで“アラバマ物語”と書かれ、お転婆そうな女の子のイラストが描かれた表紙だった(と思う)。

 この本は、ずっと後に古本屋で入手したが、映画は今回はじめて観た。舞台はアラバマ州で、主人公のグレゴリー・ペックは弁護士だから、法廷ものだとばかり思っていたが、全然そうではなかった。確かに、白人の女を暴行したとして大陪審にかけられたが冤罪を主張する黒人青年の弁護をグレゴリー・ペックは引き受けているが、描かれているのは、まさに1936年10月のアラバマ州の小さな町それ自体であった。

 “To Kill a Mockigbird”という原題、始まりのタイトル・バックに映っているガラクタの詰まった箱、主人公一家の隣の家に住んでいながら、昼間は決して姿を見せない“boo”という謎の人物、晩夏の夕闇の中で風に揺れているbooの家の庭のブランコ・・、ちょっとスティーブン・キング風でもある。ただし、その不気味さの背景が、黒人を弁護する弁護士一家に対する南部の貧しい白人たちの敵意という点で、スティーブン・キングとはまったく違うけれど。

 子どもたちのイノセントさが、テーマの重苦しさを抑えている。今日では、このような「善意の白人」像は単純すぎるのかもしれないが、この映画に描かれている心象は、ぼくは嫌いでない。
 結末も意外であった。いうなれば典型的な「大岡裁き」なのだ。アメリカ人の、しかも硬派の弁護士があのような決着に納得するのか、と印象的だった。“To Kill a Mockingbird”という原題の意味も、タイトル・バックのガラクタの箱の謎も、すべて最後に分かる。

 そして、やっぱりこの映画の邦題が“アラバマ物語”であることにも納得がいくのである。

(* 写真は、映画“アラバマ物語”の1シーン。“暮らしの手帖”に載っていた原作の広告は、この映画に出ていた女の子をモデルにしたものだろう。ひょっとしたら、映画のスチールが広告に使われていたかもしれない。そのうち、原作を探して確認しておこう。)

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