豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

片山杜秀「見果てぬ日本」ーー緑陰の読書(その2)

2024年08月19日 | 本と雑誌
 
 軽井沢図書館で、川本三郎の本を探したけれど見つからなかった。その代わりと言っては何だが、作者名「か」の欄の本棚に並んでいた片山杜秀「見果てぬ日本」(新潮社、2015年)を借りてきた。
 「司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦」というサブタイトル通り、日本の過去、現在、未来への視角を、この3人の著作の中から探ろうとする思索の書。
 著者は、1984年の学生時代に講義で知ったパウル・ティリッヒというワイマール・ドイツのキリスト教思想家が「社会主義的決断」で示した<過去=根源、現在=自律、未来=決断>とする図式に想を得て、日本の過去、現在、未来という3つの時代の価値付けを考える。その際に依拠したのが、歴史小説家司馬、日常生活を描いた映画監督小津、未来日本を構想したSF作家小松である。3人とも、日中・太平洋戦争の敗北を契機に日本の過去、現在、未来を構想したのであるが、第3章の小津だけを読んで、小松、司馬は斜め読みですませた。

 片山は、黒澤明と対比して小津を検討する。ともにアメリカ映画から影響を受けながら、黒澤はアメリカ流の大作を志向したのに対して、小津は戦中・戦後のわが国の窮状、映画会社の資金力の無さからそのような方向を断念して、身の丈に合った日常生活を映画の舞台に設定する。小津は自身の目ざす映画を「雲をつかむような、棒杭を抱いているような感じの」映画と表現したという(284頁)。
 小津の「現在」には、大きな事件や登場人物の感情の起伏はない。それは小津の戦争体験に基づいているという。
 日本の兵士と支那の兵士の間に力量の差はなく互角に戦っているが、日本の兵士は「最後の五分」の力で差がつく」と小津は語っているらしい(303頁)。兵士も生活者も日常的に常に全力で生きているわけではない、それではいざというときに疲れ果てて力を発揮できない。だから小津映画で描かれる日常生活は、「最後の五分」のための余力を残した生活風景であり、そのような映画に必須の俳優が「ヌーボー」とした笠智衆だったという。
 典型例として、「父ありき」のラストで、亡父(笠)の遺骨を任地の秋田に持ち帰る息子の佐野周二が遺骨を網棚に置いたシーンが批判されたことに対する小津の反論がある(297頁)。このシーンで、佐野が遺骨を膝の上に乗せて夜通し秋田まで行くことは、押しつけがましくてインチキ臭い。息子の孝行の念は、遺骨を膝の上に置くか網棚にあげるかに関わりなく観客に伝わればよいと小津は考える(298頁)。
 合格した旧制中学校で寄宿舎に入って以来、旧制高校、帝大、そして就職した秋田の鉱山学校と、父とは別居生活を余儀なくされてきた息子が、「東京に出てお父さんと一緒に暮らしたい」と申し出たのに対して、息子の願いを拒絶し秋田での教師生活をつづけなければならないと諭した父親(笠)に対する息子(佐野)の思いは、観客の1人であるぼくには十分に伝わった。網棚の上にあろうと、佐野はこの時はじめて父親と一緒になれたのである。
 上田の中学校の寄宿舎に入れられた時から何十年も経過した後の、束の間の一緒の時間だった。上田と東京、秋田と東京の距離に比べれば、網棚と座席との距離など無いに等しい。

 ちなみに、小津と対比された黒澤の戦後第1作が「姿三四郎」ではなく、「達磨寺のドイツ人」という映画で、浅間山の大噴火に歓喜の声をあげる日本に滞在するドイツ人が主役だったという(291頁)。松島、宮島、天橋立を日本三景とするような日本観に反発して、火山に象徴される爆発的エネルギーに、日本の未来を見ようとした映画らしい。
 黒澤の映画に浅間山が登場していたとは知らなかった。ただし1940年頃に構想されたこの映画は実際に製作されることはなく、脚本だけが残っているという。

 2024年8月11日 記 
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