豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

芦原伸「草軽電鉄物語」ーー緑陰の読書(その3)

2024年08月19日 | 本と雑誌
 
 芦原伸「草軽電鉄物語――高原の記憶から」(信濃毎日新聞社、2023年)を読んだ。
 昭和35年だったかに営業廃止になってしまった草軽電鉄の廃線跡を、新軽井沢駅から草津温泉駅まで歩いて辿る紀行である。
 かつて芦原の書いた「西部劇映画事典」(NHK生活新書、書名、出版社名とも不確か)を読んだことがあった。子どもの頃からの映画好きで映画館に通って西部劇映画を見てきたという著者のこの本は面白かった。この本を道しるべにして、西部劇映画のDVDを何十本も見た。
 なんで今度は「草軽電鉄」なのかと思ったら、著者は鉄道雑誌の編集長も務めた紀行作家だった。著者は名古屋出身だが、母親が毎夏、軽井沢の女子大寮で開かれる同窓会に出席していて(日本女子大の三泉寮だろうか?)、草軽電車の思い出話も語っていたので、以前から関心があったところ、定年後に嬬恋に別荘を建てて移り住んだのをきっかけに草軽電鉄廃線の旅を始めたのだという。

 著者は、草軽電鉄の路線に沿って、新軽井沢駅から、旧軽井沢、三笠、鶴溜、小瀬温泉、長日向、国境平、二度上、栗平、北軽井沢(旧・地蔵川)、嬬恋、上州三原、谷所、草津温泉までを、各駅にまつわるエピソードや思い出話などを挟みながら踏破する。
 例えば、軽井沢のエピソードでは、軽井沢を避暑地として「発見」したのは宣教師のA・ショーと言われているが、実は彼より以前に英国外交官のアーネスト・サトウが「日本旅行日記2」(1882年。平凡社、東洋文庫)で軽井沢を紹介しており、ショーはサトウの紹介を見て軽井沢を訪れたことが紹介されている(38頁)。
 
 草軽電鉄は、草津温泉に向かう湯治客を運ぶことと、木材や薪炭(硫黄も運搬したらしい)の運搬を目的として大正4年(1915年)に営業を開始した。当初は信越線の沓掛駅(長倉。現在の中軽井沢駅)と草津温泉を結ぶ計画だったが、軽井沢の有力者が軽井沢の別荘開発を約束したため、軽井沢を起点とすることになったという。
 ちなみに「草軽電鉄」とは「草津」と「軽井沢」を結ぶ電車の略称だと思っていたが、実は「草津軽便」鉄道の略称だという(22頁)。知らなかった。
 起点の新軽井沢駅の駅舎は、信越線(現在のJR長野新幹線)軽井沢駅北口のロータリーの北側にあったという。軽井沢駅ホーム(北側)の立食い蕎麦を食べた記憶はあるが、草軽電鉄の駅舎はまったく見た記憶がない。

 2つ目の旧軽井沢駅は、現在の旧軽井沢ロータリーの東側にあり、廃線後は洋菓子のヴィクトリアの店舗になったあたりにあった。この駅にカブト虫型の機関車が停っている姿は記憶にある。ぼくの記憶では、新軽井沢-上州三原間が廃止になる昭和35年の直前には、現在のいわゆる旧軽銀座の入り口のあたりに踏切があった。しかし本書に載っている昭和30年の旧軽ロータリー付近の踏切の写真を見ると、あまりにも寂しい風景で、ぼくの記憶とは一致しない(48頁)。昭和30年代末の旧軽井沢(旧道ロータリー)の記憶と混戦しているのだろうか。
 ※ 下の写真は、現在の軽井沢駅北口に保存されている草軽電鉄のカブト虫型機関車。

   

 三笠駅から線路は蛇行して(かつ逆行して)鶴溜駅に向かう。
 お盆などで国道18号が混雑する時は、千ヶ滝から星野温泉の裏手を通って鶴溜から旧軽井沢に行くことがあったが、鶴溜を通るたびに、何で草津温泉に向かう草軽電車が鶴溜に向かうのか不思議だった。本書によれば、一つは三笠から小瀬温泉への上り坂が急だったために蛇行せざるを得なかったのだが、もう一つは起点を沓掛駅から新軽井沢に変更したことへの配慮もあったようだ(55頁)。鶴溜から沓掛までは2・6キロ、徒歩で40分近くかかったが、当時の人たちはこのくらいの歩きは平気だったようだ。星野から軽井沢に向かうにも草軽電車は便利だった。
 小瀬温泉は、軽井沢在住作家の小説の中で不倫カップルの密会の場所として登場するのを読んだことがあるが、今では宿屋は一軒しかないという。雰囲気のある宿のようだ。白糸有料道路の土煙の舞う道すがらに「小瀬温泉」という看板を目にするが、宿はこの道から歩いて20分近く奥まったところにあるらしい。

 長日向駅などは駅舎の跡形もまったくなくなっていて、案内人の説明がなければ見過ごしてしまう状態だったという。長日向には霧積温泉に向かう道と国境平に向かう道の分岐点があるという(90頁)。
 森村誠一「人間の証明」では、碓氷峠(見晴台)を下ったところに霧積温泉があるように書いてあったが、方向音痴のぼくには長日向と霧積温泉と碓氷峠の位置関係は分からない。
 伊藤博文が霧積温泉で明治憲法を起草したというエピソードも紹介されるが、明治憲法を実際に起草したのは金子堅太郎で、しかも場所は横須賀の夏島(当時は島だったが、その後埋め立てれれて地続きになり日産自動車のテストコースになった)のはずである。
 鼻曲山(はなまがりやま)も長日向から行くらしい(89頁)。

 北軽井沢駅は、以前は近くを流れる川の名前から地蔵川駅と称していた。
 ここが発展したのは、法政大学がこの地を理想郷とすべく、大正9年に80万坪という広大な敷地を購入して「法政大学村」として、安倍能成、野上弥生子、津田左右吉、岸田國士らが別荘を建て、後には岩波茂雄も住み、大江健三郎も住んだという。
 彼らは、午前中は他家を訪問しない、午後10時以降の会合・宴会は控えるなどの規律を設け、道路を舗装しないことなどを協定したという。北軽井沢駅の駅舎は法政大学が草軽電鉄に寄付した建物で、その壁面には「H」字形の意匠が凝らされているが、この「H」は法政を象徴する「H」だそうだ(146~8頁)。亡父が昭和30年代前半に、草軽電車で北軽井沢に田辺元を訪ねたことが、わが家の人間が草軽電車に乗った唯一のエピソードである。
 わが家では、軽井沢では電話も引かず、テレビも置かず、午前中と夕食後は勉強するものと決まっていて、父や祖父に付き合って学生だったぼくも机に向かわなければならなかった(机に向かって本を読んでいれば何も言われなかったのだが)。父や祖父が在軽の友人を気楽に訪ねたりすることもなかった。そもそもわが家と軽井沢の関係は、叔父が学生時代に友人と追分の学生村で一夏を過ごし、夏の追分を気に入ったのがきっかけで始まった。その後叔父は千ヶ滝の文化村に別荘を購入し、ぼくも夏休みにはそこに居候させてもらい、何年か後にわが家でも千ヶ滝の分譲地を買って別荘を建てた。そんなわが家の軽井沢での生活の根っこには、「法政村」に暮らした人たちの精神が受け継がれていたのかもしれない。 

 北軽井沢から先は、吾妻(あがつま)、小代(こよ)、嬬恋、上州三原、東三原、湯窪、万座温泉口、草津前口、谷所(やと)、終点の草津温泉と続くのだが、本の返却期日が迫ってしまったので、省略する。
 嬬恋は満蒙開拓団の帰住者が開拓した村である。満州の海倫から帰住した群馬県人が開拓した地域は現在でも「ハイロン」という地名だそうだ(166頁)。
 医師で作家の南木佳士は昭和26年、三原の出身で、父親は草軽電車の運転士だった。その後東京の保谷市に移ったという。草軽電鉄の廃線後、草軽鉄道関係者は系列の東急電鉄に移籍したというから(187頁)、彼の父親も東京に移住したのだろうか。彼の芥川賞受賞作「ダイヤモンドダスト」には嬬恋村の風景が出てくるという(207~8頁)。加賀乙彦の「永遠の都」という小説にも嬬恋が登場するという(217頁)。いつか読んでみよう

 草軽電車は、新軽井沢-草津温泉間55・5キロを3時間以上かけて走った。時速17キロ程度だった。
 新軽井沢-上州三原間が廃線となった昭和35年当時、大卒初任給は1万800円、かけそば35円、コーヒー60円、ロードショー映画館入場料180円、肉屋のコロッケ1個5円だった(「コロッケ五円の助」!)。当時の草軽電車の1区間は10円、新軽井沢から草津までの全区間が210円だったという(130頁)。
 草軽電鉄の廃業は、モータリゼーションの影響だけではなく、国鉄長野原線の開業の影響もあったらしい(197頁)。

 著者は、帰り道は草軽バスで軽井沢に戻っている。軽井沢駅前では、草津温泉の旅館の送迎バスを時折見かけるが、路線バスもあるようだ。 
 巻末には、草軽電鉄の全路線の地図、略年表が付いている。

2024年8月13日 記

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片山杜秀「見果てぬ日本」ーー緑陰の読書(その2)

2024年08月19日 | 本と雑誌
 
 軽井沢図書館で、川本三郎の本を探したけれど見つからなかった。その代わりと言っては何だが、作者名「か」の欄の本棚に並んでいた片山杜秀「見果てぬ日本」(新潮社、2015年)を借りてきた。
 「司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦」というサブタイトル通り、日本の過去、現在、未来への視角を、この3人の著作の中から探ろうとする思索の書。
 著者は、1984年の学生時代に講義で知ったパウル・ティリッヒというワイマール・ドイツのキリスト教思想家が「社会主義的決断」で示した<過去=根源、現在=自律、未来=決断>とする図式に想を得て、日本の過去、現在、未来という3つの時代の価値付けを考える。その際に依拠したのが、歴史小説家司馬、日常生活を描いた映画監督小津、未来日本を構想したSF作家小松である。3人とも、日中・太平洋戦争の敗北を契機に日本の過去、現在、未来を構想したのであるが、第3章の小津だけを読んで、小松、司馬は斜め読みですませた。

 片山は、黒澤明と対比して小津を検討する。ともにアメリカ映画から影響を受けながら、黒澤はアメリカ流の大作を志向したのに対して、小津は戦中・戦後のわが国の窮状、映画会社の資金力の無さからそのような方向を断念して、身の丈に合った日常生活を映画の舞台に設定する。小津は自身の目ざす映画を「雲をつかむような、棒杭を抱いているような感じの」映画と表現したという(284頁)。
 小津の「現在」には、大きな事件や登場人物の感情の起伏はない。それは小津の戦争体験に基づいているという。
 日本の兵士と支那の兵士の間に力量の差はなく互角に戦っているが、日本の兵士は「最後の五分」の力で差がつく」と小津は語っているらしい(303頁)。兵士も生活者も日常的に常に全力で生きているわけではない、それではいざというときに疲れ果てて力を発揮できない。だから小津映画で描かれる日常生活は、「最後の五分」のための余力を残した生活風景であり、そのような映画に必須の俳優が「ヌーボー」とした笠智衆だったという。
 典型例として、「父ありき」のラストで、亡父(笠)の遺骨を任地の秋田に持ち帰る息子の佐野周二が遺骨を網棚に置いたシーンが批判されたことに対する小津の反論がある(297頁)。このシーンで、佐野が遺骨を膝の上に乗せて夜通し秋田まで行くことは、押しつけがましくてインチキ臭い。息子の孝行の念は、遺骨を膝の上に置くか網棚にあげるかに関わりなく観客に伝わればよいと小津は考える(298頁)。
 合格した旧制中学校で寄宿舎に入って以来、旧制高校、帝大、そして就職した秋田の鉱山学校と、父とは別居生活を余儀なくされてきた息子が、「東京に出てお父さんと一緒に暮らしたい」と申し出たのに対して、息子の願いを拒絶し秋田での教師生活をつづけなければならないと諭した父親(笠)に対する息子(佐野)の思いは、観客の1人であるぼくには十分に伝わった。網棚の上にあろうと、佐野はこの時はじめて父親と一緒になれたのである。
 上田の中学校の寄宿舎に入れられた時から何十年も経過した後の、束の間の一緒の時間だった。上田と東京、秋田と東京の距離に比べれば、網棚と座席との距離など無いに等しい。

 ちなみに、小津と対比された黒澤の戦後第1作が「姿三四郎」ではなく、「達磨寺のドイツ人」という映画で、浅間山の大噴火に歓喜の声をあげる日本に滞在するドイツ人が主役だったという(291頁)。松島、宮島、天橋立を日本三景とするような日本観に反発して、火山に象徴される爆発的エネルギーに、日本の未来を見ようとした映画らしい。
 黒澤の映画に浅間山が登場していたとは知らなかった。ただし1940年頃に構想されたこの映画は実際に製作されることはなく、脚本だけが残っているという。

 2024年8月11日 記 

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清永聡「家庭裁判所物語」ーー 緑陰の読書(その1)

2024年08月19日 | 本と雑誌
 
 清永聡「家庭裁判所物語」(日本評論社、2018年)を図書館で借りてきて読んだ。面白かった。
 著者はNHKの解説委員で、司法記者クラブ等に所属した経験を持つ。戦後の家庭裁判所誕生から、2011年の東日本大震災時の仙台家庭裁判所(秋武憲一所長)の活動に至るまでを概観した物語である。家裁の創設から初期の運営に携わった方々の書き残した文献(例えば、五鬼上堅磐の当時の日記)や聞き書き、取材当時まだ健在だった当事者や、内藤頼博、宇田川潤四郎、三淵嘉子氏らの遺族への聞き書きを交えて要領よくまとめられていた。

 登場人物の何人かは私もお目にかかったことがあり、私なりの印象をもっていたが、著書や論文を通してお名前しか知らなかった方々の肉声というか、生身の人物像も知ることができた。
 お会いしたことがある人としては、法曹では内藤頼博さん、竹内壽平さん、佐藤藤佐さん(25、30、43頁)、森田宗一さんなど、学者では中川善之助さん、平野龍一さん、平場安治さん、宮澤浩一さん、松尾浩也さん、田宮裕さん、澤登俊雄さんなどが登場した。家庭裁判所でも家事部よりは少年部に関わる方が多い。
 著書や論文でしか存じ上げない方としては、宇田川潤四郎、三淵嘉子、栗原平八郎、秋武憲一らの諸氏の人柄にふれることができた。
 かつて私が編集部に所属した雑誌では、毎年の年末号でその年に刊行された著書・論文の講評を掲載したが、ある年、柏木千秋氏(名大教授)の刑法だったか刑訴法だったかの体系書を評者が「教科書」として紹介したところ、柏木さんが大変怒っていると澤登さん(國學院大学教授)経由でクレームが来た。澤登さんと柏木氏の接点を知らなかったので、なんで澤登さんから?と訝しく思ったが、本書で彼らの接点を知ることができた(頁数は見つからなくなってしまった)。

 以下は、思いつくままエピソード的に記しておく。
 最高裁の家庭局長(課長?)だった「五鬼上堅磐」という名前(8頁)には思い出がある。おそらく昭和30年代に彼は世田谷の赤堤周辺に住んでいたのではなかったかと思う。通学の道すがらだったか遊びに行った先に「五鬼上」という表札の家があって、何て読むのだろうと級友たちの間で話題になっていた。「ごきじょう」と読むことは後に知ったが、名前を「かきわ」と呼ぶことは本書ではじめて知った。
 内藤頼博さんを、面長、目元涼しく、鼻筋の通った二枚目、身長は175cmという描写は、まさに私がお会いした内藤さんそのものである(25頁)。前にも書いたが、NHK朝の連ドラ「虎に翼」の沢村一樹演ずる久藤何某とは似ても似つかぬ方だった。内藤さんが細野長良(最後の大審院長)と袂を分かつに至った経緯なども初めて知った(142頁)。内藤さんと石田和外最高裁長官との「交友」関係なども意外だったが(202頁)、法曹人にはそのような結びつきもあるのだろう。

 個人的には、裁判官らの自由闊達な議論と交流を封じ込めたいわゆる「司法の危機」問題、最高裁による青法協所属裁判官に対する締め付けに関する著者の筆法の弱さには不満が残った(225頁)。私は家族法の学会で最高裁家庭局付の裁判官の方の発表をお聞きし、その後の懇親会で同席して会話する機会があったが、その方の優秀さと誠実さが印象に残った。ニューシネマ時代の “handsome woman” という言葉がぴったり合う方だった。家裁発足時の精神が今に生き続けていることを信じたいが、その方はのちに地裁判事に転出してしまった。
 東京家裁事務官採用第1号の水越玲子さんという方のインタビューも印象に残った。私の教師時代の(夜間部の)受講生に東京家裁の事務官をしている女性がいたが、真面目で大へんに優秀な学生だった。きっと第1号の水越さんの精神を引き継いだ優秀な事務官でもあっただろう。
 
 小松川女子高生殺害事件をめぐって、世論が加害少年の厳罰化を要求して盛り上がった際に、これを受けた法務省で厳罰化を唱えたのが安倍治夫検事だったというのも知らなかった(156頁)。彼の著書「刑事裁判における均衡と調和」(題名は不確か)を読んだことがあった。私の学生時代の刑事訴訟法学では、弾劾的捜査観か糺問的捜査観か、当事者主義的訴訟か職権主義的訴訟かというの二項対立的な刑事手続き観が隆盛だったが、彼の本はそれでは捉えられない内容だった(ように記憶する)。
 いわゆる東大紛争をめぐって逮捕された活動家の中には126人もの未成年者が含まれており、彼らに対する少年審判事件が東京家裁に大量に係属していたことも本書で初めて知った(186頁)。

 NHK朝の連ドラ「寅に翼」で、なんで明治の女子部に穂積重遠が登場するのか不思議に思っていたが、彼は東大教授と同時に「明治大学女子部委員」という肩書をもっていたらしい(37頁)。私が在籍した大学でも、戦後まもなくの頃には東大教授が本学教授も兼務していたことがあった。
 本書は「寅に翼」の参考文献の一つになったと思われるが、私としてはドラマの「寅に翼」よりもはるかにドラマティックで、興味深い内容だった。
 ※ 5頁、飯森重任は飯守重任の誤り。

 2024年8月9日 記 

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