豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ウォーリー・与那嶺

2011年07月30日 | あれこれ

 ぼくは、少なくとも小学校4年生までは巨人ファンだった。

 長嶋が入団したのが昭和33年、昭和34年に王選手が入団したはずであるが、その頃のことである。
 ただし、ぼくが好きな選手は、宮本敏雄選手だった。背番号は40番、センターを守っていた日系二世の選手である。
 いつもガムを噛んで、ニコニコしている選手だった。なぜか、“ウェンディ・宮本”と呼ばれていた。本名の愛称だったのだろう。

 当時の巨人にはもう一人、日系人の選手がいた。与那嶺要選手である。背番号は7番で、外野手だった。レフトからいとかは覚えていない。“ウォーリー・与那嶺”と呼ばれていた。
 今年の春先に、その与那嶺選手が亡くなったという記事に接した。
 ところが、最近になって、野球には縁のない女房が近所の友人から、“3つの夢をかなえた男”( The Man Achieved His Three Dreams )というDVDをもらってきた。
 その友人が、かつて与那嶺選手の奥さんが経営する宝飾店で働いていたことがあったらしい。DVDは、与那嶺選手の日本での偲ぶ会の光景や、現役時代、監督時代のフィルムを納めたものであった。

 与那嶺選手は戦後最初の外国人選手だと紹介されていた。昭和26年(1951年)の入団である。
 そうだったのか。ぼくにとっては、外国人選手というと、東映のラドラ、阪急のバルボン、近鉄のミケンズ、ボトラのバッテリー、南海のサディナなどなどが思い浮かぶが、与那嶺や宮本も「外国人選手」だったのだ。

 巨人の現役時代の与那嶺のフィルムは、BGMにグレン・ミラーの“In The Mood”が流れていて、いかにもアメリカ人選手が楽しそうにプレーしている、という雰囲気が出ていた。
 彼は昭和35年に巨人を退団して中日に移籍し、昭和37年には現役を引退している。そして、昭和49年に中日の監督として、川上・巨人のV10を阻止して優勝している。
 どうも、ぼくがいつの間にかアンチ巨人になったのは、川上野球のせいだったのかもしれないと思った。

 野球は“play”する“sports”である。勝つことは結果であって、目標ではない。
 与那嶺の現役時代のプレーを見ていて、強くそう思った。

 きょうの高校野球西東京大会決勝戦、日大三高対早実よりも、ぼくは、息子たちの母校武蔵高校が佼成学園に8対1で8回にコールド負けした試合のほうが面白かった(ひいき目もあるけど…)。甲子園を狙う高校が、それも1、2回戦はいずれも20対0か何かで勝ち上がってきたチームを相手に、弱小校が8回表までは4対1で善戦したのである。
 都立昭和や日野も善戦した。甲子園というのはああいう野球の延長にあるべきはずで、最近の甲子園にはあまり熱いものを感じなくなってしまった。
 東京大会では今年度からシード制を廃止したが、これは大いによかった。「強豪校」も1回戦からとなると、エースを温存してもいられなくなって、格下相手にてこずっている場面もあった。シード廃止は絶対に今後も継続するべきである。

 もし、昭和30年代のプロ野球や高校野球の映像がDVD化されて発売されたら(されているのかもしれないが)、ぼくは老後の楽しみに、絶対に購入するのだが・・・。
 与那嶺選手を偲ぶDVDを見ながら、そんなことを思った。

 2011.7.30 記

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小津安二郎 “麦秋” | トップ | 小津安二郎 “秋刀魚の味” »

あれこれ」カテゴリの最新記事