ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

読書とインターネットを「読む」ということ

2011年12月31日 | 読書
大晦日。部屋の片付けをする。ベットサイドに積み重ねられていた本を、書店のカバーを外し、パラパラと見返しながら、本棚に入れていく。ずっと前に読み終わった本もあれば、つまらなくて途中で辞めてしまった本、読もうと思って忘れていた本などもある(場合によっては、やっぱり枕元に残されたりもする)。

こうやって見返すと、今年はここ数年にないくらい本を読まなかったなぁ、と思う。読書メーターも更新してないし。

本を読まなかったのには理由がある。1番の理由は、一番の読書時間の通勤時にちょっと別なことをしていたから。そしてもう一つの理由がスマホの購入だ。

よく最近の高校生や大学生の読書時間が減ったことが問題にされる。それはそれで指摘したい気持ちもわかるのだけれど、実は「読書」時間が減ったことと、知識や情報を得る量は比例しないのではないかと思う。特にインターネットの登場とスマートフォンの普及はこのことを更に推し進めるのだろう。あるいは「読書」というカテゴリー分け自体が無効なものになるのかもしれない。

これまでのガラケーでもいろいろなサイトを見ることは出来るのだれど、やはりスマホにすると、PCに近い感覚でサイトをみることになる。特にちょっとした隙間時間を使って、「RSSリーダー」や「Twitter」を利用すれば、最新のニュースや興味のある分野のニュースやコラムを見ることができる。しかもその際にわからない言葉や更に関心があったもののについては、そのまま「検索」をしたり「Wiki」で調べることができるのだ。

おそらく僕の読書の時間は減ったけれど、活字を読む時間自体は増えているだろう。そして収集している情報の「幅」というのは、例年よりも増えているだろう。

ここに1つ、読書とWEB中心の情報収集の違いがある。

読書の場合、それなりに文量もあるし、何よりも著者がそのメッセージを伝えるために、論旨の背景となるような情報を詳細に分析し、構成を考え、1つの完成品をつくり上げる。「読む」という作業はそうした作者の思考を辿る作業でもある。1つの人格を追体験するくらいのエネルギーが必要になる。

これに対してネットでの情報収集というのは、散文的だ。もともと必ずしもまとまった作品としてネットに掲載されているわけではないし、ブログやTwitterに代表されるように、その時点の作者の感じた内容が掲載されることも多い。もともとが完成品ではないのだ。さらに読み手の側も「書物」を読む場合とはスタンスが違う。

ネットでの情報収集というのは、僕ら自身が興味のあるところを、必要な文脈から読み取り、効率的に欠落した情報を埋めていく型に近い。作者の想いを追体験するというよりも、作者の描いた文脈から自分が必要としている論旨を読み取る作業なのだ。

結果的に「読書」の方が、深く物事を考えることに近いのだろう。作者に近づくことで、作者の思考を理解し、作者と対話し、自身の思考を鍛えていく…しかしそれは同時に、限られた時間の中で「幅」を犠牲にする作業でもある。

インターネットを中心とした広い意味での「読む」という作業では、こうした作者との対話ではなく、自らの興味゜関心が求めている文脈を見つけ出すことが中心となっていくのだろう。そして更には、「ソーシャル」という名の下に、作者ではなく、同じように関心を持っている人々と対話し、共創の「場」を作り出し、作者不在のまま、その知識や解釈を読み取っていくのだろう。

コメントを投稿